2016年10月05日

2016年10月の始まり



皆さま、こんにちは。

2016年 第9番の月も過ぎました。
2016年の約75%が過ぎたことになりますね、

皆さまにおかれましては
大いなる収穫の秋をお過ごしのことと存じます。

(6日11時半に続きを更新完了しました。未明か午前中には〜
と記していた為、早めにチェック下さっていたらすみません…。)





月か花か 問へど四睡の 鼾哉   芭蕉

(つきかはなか とえどしすいの いびきかな)

( 月か花かと風流の道を問うても「四睡図」のように返って来るのは
 ただイビキのみ…という境地こそ風流そのものかな。 )



『四睡図』とは豊干禅師、寒山、拾得、虎が
一緒に寝ている様子を描いた禅画で、禅の真理、
妙なる境地を示すとされる画題として有名です。

*芭蕉が句を捧げた「四睡図」は第50代・羽黒山別当の
天宥(宥誉)の筆によるものですが、ご参考までに
国立博物館所蔵の国宝・重要文化財を閲覧できるサイト
「e 国宝」の「四睡図」解説ページを付しておきます。



寒山・拾得(かんざん・じっとく)は二者だけでも
禅図の主題として有名ですし、森鴎外『寒山拾得』
『寒山拾得縁起』でも触れられていますように、
大衆への訓示として広く親しまれてきました。

この3者については鴎外『寒山拾得』をご覧になると
なんとなく概観できるでしょう(参考:青空文庫の作品ページ)。


「羽黒山」は出羽三山の1つで、「月山」のところで
出羽三山に以前触れました(「2016年6月の始まり」の回)。

天宥法印には「追悼句文」にも次の句を添えています。


 その玉や 羽黒にかへす 法の月(のりのつき) 

(法印の魂は羽黒山に返っておられる、
 迷いの闇を明るく照らす真如の月として。)



さて、天宥法印は稀有な政治力・指導力で
羽黒山の発展・地域振興に力を尽くしましたが、
旧来慣行に囚われず半ば強行に改革を進めた事もあって
反対派からの訴え工作等の結果、幕府裁定で敗訴、
新島に流刑とされ7年後の1674年、82歳で入滅。


「客観的」には無念な最期であったと思われますが、
悟りに至った高僧においてはそのような状態にあっても
「四睡図」のように皆と和気藹々、笑みを湛えながら
眠っているような境地にあると称えているのでしょう。

風雅の道を究める芭蕉において、「風流風雅とは?」と
問うても、ただイビキで応えてくれるような無我の境地を
天宥『四睡図』に改めて見たことと思います。

「風流とは?」と問うこと自体「風流ではない」という。
「悟りとは?」と問うこと自体「悟りの境地にない」という。



…と、禅の公案を考える記事のつもりはないので
この辺りにしますけれど、いずれにせよあらゆる喧噪や
試練の時があっても、心安らかに虎を手なずけるような
心持ちで、緩やかに生きていけるのは至上です。


生き急いでも生き急がなくても、終息は万人に
訪れますからね。せいぜい数十億秒の命数なので
(100年=約31億5,570万秒)、1秒1秒を慈しんで
余命を楽しむに越したことはありません。

…とまあ、一見ネガティブというか厭世的に聞こえる
かもしれませんが、目標達成までの必要時間を考えて
今求められる最適行動を逆算するのは合理的思考です。

ならば、どのように「終息」するかしたいかを考えて
今の健康状態・精神状態を規定しつつ、突然の別れに
なって喚かないように周囲に日々感謝しながら生きる、
というのは「理」に叶っているでしょう。

そうする方が案外、何かと上手くいくものですし。



…と、そのようにのんびり考えられるのも全て
皆さまの大いなるご支援ご厚情によるものです。

万物が各々に与えられた「使命」に沿って
生命力を縦横に生やし栄やしていく季節において、

長いお付き合いをさせて頂いている皆さま、
新しくご縁ができた方々のお心遣いなど諸々に
毎月のことながら感謝を述べさせて頂きます。


この10月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます!




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2016年09月04日

2016年9月の始まり



皆さま、こんにちは。

2016年 第8番の月も過ぎましたね。
2016年の約67%が過ぎたことになります!

8月の暑さが夢であったかと錯覚するほどに
涼しい秋風を感じる時候となりましたけれど、

皆さまもこの上なく充ち足りた夏を
過ごされたことでしょう!!



菊の香に くらがり登る 節句かな     芭蕉


( 菊の節句には「登高」という古来の風習があるが、
私はいま菊の香を頼りに暗い峠を上っている思いだ。。 )




9月9日は、五節句の一つ「重陽(ちょうよう)」。
「菊の節句」とも呼ばれますね。

中国の「陰陽思想」では奇数は「陽」の数であり、
陽の最高数である9が重なる日=「重陽」とされます。

奇数の重なる月日は「陽」の気が強すぎるため、
「気」を祓う行事として節句が行なわれてきました。
1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日…ですが
1月の節句は例外的に1月7日とされています。


全ては「陰・陽」のバランスに拠るべきであって
「陽」の気が強すぎるのも宜しくないということで
邪気や澱みを祓い、無病息災を願う祭式として
一般にも広まっていったわけですね。


さて、「登高」の風習ですけれど、古代中国は
後漢(東漢)の時代、「重九登高、效桓景之避災
(重陽節に高い所に登り、桓景は災難から逃れた)」
という伝承によるものとされています。

桓景という人が、費長房という仙人から予言を受けて
その言葉通り、家族全員が呉茱萸(ごしゅゆ)を
入れた赤い袋を下げ、登った山上で菊花酒を飲んで
大きな災厄を逃れることができたというお話しです。


桓景がそうして災難から逃れることが出来たのを受け
9月9日は高台に登り菊酒を飲む「登高飲酒」の
習慣が中国で生まれたというのが通説です。

日本でも、邪気を祓い長寿を願って菊の花を飾ったり、
菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして菊の節句を
祝ったりしてきたわけですね。菊が延命長寿の花
として知られるのも先の伝承によるものでしょう。
(実際、菊の花には解毒作用もありますし)


さて、そのような前提を押さえたうえで芭蕉の句に戻ると
この句が詠まれたのは元禄7年9月9日(1694年10月27日)。

元禄7年10月12日(1694年11月28日)に命数を終える
死の僅か1ヶ月前に山を登るのは心身とも厳しかったはず…。


実際として峠を登ったのは明るい頃だったそうなので
時刻的に「暗がりを登る」わけではなかったでしょうが
体調も思わしくない死期の目前、我々の想像を超えて
まさに「くらがり登る」という状況だったと思います。

「菊の香に」とは、山頂で祝いながら飲まれる菊花酒や
菊の花を「感覚的に示して」いるものでしょうが
(実際にその山頂で飲まれていたとは伺えませんし)
『おくのほそ道』の旅路で「死と再生」を追究した芭蕉…

この時どのような心境で登っていたのでしょうね。

少なくとも死期が迫った悲壮感は感じられません、
(実際そこまで重篤な状態では登高などできませんし)
むしろ軽やかな菊の香りさえ漂ってきそうな…
そんな達観した境地さえ感じられましょう。



芭蕉は元禄7年10月8日(死の4日前)、病中吟として

 旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

…と詠みました。登高の時も身体は重くあっても
俳聖の精神・夢は「菊の香り」に誘われながら
自由に飛んでいたことでしょう。


…というわけで、重陽の節句(旧暦ではまだ先ですが)。


「陰陽のバランス」を上手くとりつつ、各々の目指す
「領域」あるいは「夢」の、その至高な芳香を志向しつつ
仮に厳しい足取りの中でも誇らしく登頂下さいますように。



「バランス」という点では「2015年9月の始まり」の回
合わせて読み返して頂くのも良いかもしれませんね。


それでは、今回はこの辺で。。

9月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。



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2016年08月04日

2016年8月の始まり



皆さま、こんにちは。

2016年 第7番の月も過ぎました。
2016年の約58%が過ぎたことになりますが、
この上なく充実の夏をお過ごしのことと思います。

月初のご挨拶のみの更新になって久しいですが
その分1ヶ月の移り変わりを目まぐるしく感じます。


7月冒頭〜8月冒頭までも様々な事件事象がありましたが
ポケモンGOも社会現象となった一つでしょう。
7月22日の配信時から過度な熱気も少しずつ冷め
落ち着きつつあると感じますが、面白い試みでした。

ポケモン好きの生徒さんを教えていた時に、
コミックやらゲームを借りて(というよりは半ば
強引に貸してくれて)最低限の教養?はあるので
個人的には親しみ深く思っておりました。

教室周辺はもとより自宅前もポケストップなので
なんとなく手にとって懐かしんでいますが、
自宅にいて「カビゴン」のシルエットが出たら
ちょっと散歩してくる程度には触っています。。


爆発的な初動だと飽きられるのも早いですし、
実際ゲームとしての「深み」は今のところないので
(Ingressのような「世界観・行動原理」が特にない)、
良コンテンツに育って行って欲しいと思いますね。

単にゲームというよりは「AR:Augmented Reality,
(拡張現実)」浸透化の実験でもあるのでしょうけれど。



…と、その他ゲーム全般についてお話しできることは
相応にありますけれど(ゲーム好きな生徒さんのお蔭で)
今回のところはこの辺で切り上げて本題(?)に。





ひらひらと 挙ぐる扇や 雲の峰   芭蕉




( ひらひらと高く掲げた扇の様は、夏空に浮かぶ
  雲の峰まで 達しているように高らかだ。。 )




能役者・本間主馬を訪れた時に読まれた句。
主馬の舞いを讃えている挨拶吟ではありますけれど
その前提を離れてみても涼やかで雄大な句です。


「能」の真髄を示す命題の1つ「秘すれば花」。

「隠して秘密にするからこそ観客を感動させられる」
…という意味合いですけれど、全てを開示するものよりも
解釈の余地を残し、観客側に委ねる余韻がある方が
芸術に深みが出るというのは理解できましょう。

もちろん、政治・経営・金融投資など現実問題においては
「秘すればこそ花よ…」と片づけるわけにいきませんので
明確に争点・要点を開示できる人こそ有能なる花ですが。



ただ、見せ方・魅せ方という「演出」の観点においては
「ああ、もっと聴きたい、見出したい」と思わせられるか
どうかは、どの分野でも無視できない差を生むものです。

退屈なほど話が長い人、自分の話だけ延々と開示する人などは
大抵「もっと会って聴きたい!」という魅力は与えられません。

魅力の源泉が何かを悟りつつ、それをあえて積極開示はしない、
慎ましく秘することで、その魅力はより映えるというのは
何となく同意される方も多いことでしょう。

ただ、それを更に突き詰めて深めていくと
自分の「我」というものを前面に出さないこと、
すなわち周囲に調和して己を溶け込ませる、という
領域に至るのではないかと思えます。

文字通り「自然体」の領域。

そこに居ながらにして事象のバランスに
何らの乱れを加えることなく、調和を保つ。
むしろ人々を調和の焦点に導くような所作。

我を廃し 万物の流れに沿ってなされる一挙手一投足は
まさに「自然」と渾然一体の営みそのもの。



身体と精神が自らの支配下に置かれ、規律できている方の
所作振舞いは、優雅で美しいもの以上に感じます。

扇をひるがえす所作にさえも、その先に雄大な雲の峰を
想起させるような品位・知性を備えたいものですね。


暑い時期、忘我の境地にある美しい所作どころか
暑さで心身ともにダラけてしまう方も多いでしょうが
涼やかに扇を仰ぐ天上人のような心持ちで
悠然と各々の道を歩んで下さればと思います。


「因果の花を知ること 極めなるべし。一切みな因果なり。」
『風姿花伝(花伝第七・別紙口伝)』


…とありますように、何だかんだ言っても
前提のところは「因果(原因と結果)」ですから
素晴らしい「花」を咲かせるためにも各々適切な
種蒔き・メンテナンスなりの「原因」を設定した上で
「結果」までの過程を楽しんで下さいますように。



8月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。



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2016年07月04日

2016年7月の始まり



皆さま、こんにちは。

2016年 第6番の月も過ぎました。
2016年の約50%が過ぎたことになりますね。

暑さも否応なく本格化してきますが、皆さま
お変わりなく充実されておられることと思います!



七夕の 逢はぬ心や 雨中天   芭蕉


(七夕の日に二つの星は逢いに来たのに、あいにくの雨では天の川も増水して会うことすらできず「雨中天」の心境と言うべきか。)


「有頂天」と「雨中天」を引っ掛けたユーモラスな句。

「有頂天」とは、仏教世界における「天界」の最上位界。
「有頂天になる」=喜びや絶頂に達して我を忘れるという
日本語の意味合いは、本来は仏教用語に由来しますね。

この「天界」最上位という区分も教義宗派によって変わりますが..


仏教における「六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)」の
「天」について更に「欲界・色界・無色界」の三界に分類されます。

その三界について以下、『欲界』=欲にとらわれた領域である
六欲天(四天王天・忉利天・閻魔天・兜率天・化楽天・他化自在天)、

『色界』=欲望からは解放されたが、物質的感覚は残る領域である
色界十八天(梵衆天・梵輔天・大梵天/少光天・無量光天・光音天/
少浄天・無量浄天・遍浄天/無雲天・福生天・広果天・無想天・
無煩天・無熱天・善現天・善見天・色究竟天)、

そして、欲望や色(肉体や五感などの物質的世界)を超越した
精神領域である『無色界』(空無辺天・識無辺天・無所有天・
非想非非想天)・・・

このように分類される「天界」での色界最高領域「色究竟天」
または無色界最高領域である「非想非非想天」を指して
(ここに教義による差異があります)それを「有頂天」と。



ただ、ここについて疑問に思われる方が多いのですが、
仏道における「天界」とは多くのキリスト教義のような
完全なる神世界というべきものではないんですね..。

あくまで「六道」の最上位といっても、迷いあるものが
輪廻する6種の「迷いある世界」の一つでしかないので
天道にある存在も煩悩に迷い、死を迎えるとされます。

天界の極みである「非想非非想天」に至ってさえ
輪廻を脱した涅槃に到達してはいないので未だ
「迷い」の領域にあると考えられるわけですね…
(もちろんここに教義上の分説はありますけれど)。

ちなみにその輪廻を脱して悟りに至り成仏した存在(?)を
仏陀(如来)といい、その悟りに至るまでの高位修行者を
菩薩(ぼさつ)、広く天界の存在を「〜天」と称します。

民間で広く信仰される、文殊菩薩・毘沙門天といった存在も
天界におわすものの究極的には悟りに至る道中にあって
(その形態=「仏の化身」の場合もあり一概に言えませんが)
極々僅かであっても「迷い」がある存在なわけです。

衆人が迷うように、ともに迷いそれを克服していく努力を
示す「師」だからこそ身近に感じられてきたのでしょう。



・・・と、句の前提解説がやや長くなりましたが
織姫と彦星の1年ぶりの逢瀬で喜びの「有頂天」と
なるはずが、大雨で「雨中天」となってしまったよ…
という、のんびりとした微笑ましい句です。

一切の迷いを離れた領域に到達することは至高ですが
大切に想う人との再会を待ちわびたり、目標達成に
有頂天になるのもまた人間こそ味わえる領域。

そこには適宜、迷いも苦しみもあるのでしょうが
それらを周りの人びとを分かち合っていくことで
同時に喜びも倍加していくことと思います。



というわけで、強引なまとめになった気もしますが
蒸し暑い季節こそ、周囲の暑さを打ち消すほどの
熱情で7月も楽しんで下さいますように!


7月も素晴らしい出会いで充ちていることを

皆様と共に心から喜びたいと思います。



いつも本当にありがとうございます。



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2016年06月05日

2016年6月の始まり


皆さま、こんにちは。

2016年 第5番の月も過ぎました。
2016年の約42%が過ぎたことになりますね。。


兎にも角にも、皆さまの温かいご支援の下で
「ラルース進学塾」という試みも5年間という歳月を
摩訶不思議と存在し続けていることになります。

5年というのは短いようで長いものですけれど
その期間全てにおいて有り難い時間で包まれました。
それもこれも、各方面各位のご厚恩を賜った故と
心より御礼申し上げる次第です。




雲の峰 いくつ崩れて 月の山   芭蕉


(入道雲がいくつも現れては崩れて行く時の流れの中で
やっと登頂した月山で見る変わらぬ「月」よ。)



とても深い深い句です。前提知識なく読んでも
美しく幻想的な情景が思い浮かびますけれど、
深く踏み込んでいくとかなり哲学的な句です。

この「月の山」とは出羽三山の1つ、月山(がっさん)。
噴火記録がない死火山=「死の山」と言われたことから
死と夜を司る霊山として知られます。その山頂には
夜を司る「月読命」が祀られ、古くは死者を救済する
阿弥陀如来も祀られていたと言われています。

『奥の細道』の一節によれば芭蕉は旧暦6月8日、
霊山の張りつめた寒さの中、険しい岩道を上り、
月山の頂に着いた時は日も沈み月が現れていました。

『奥の細道』3000Kmの旅は悉く「死と再生」を
追究する旅であったとも言われます。

積乱雲たちが現れては消えながら、そのうちに
太陽は上り沈み、月が映える。そういう循環を
幾度も繰り返す中で人々の「死と再生の祈り」を
抱合してきた霊山の登頂、その時に見る「月」は
まさに月読命を拝するかの如く荘厳だったはず。

個人的な印象に留まらず、過去・現在・未来の
「死と再生の祈り」を感じつつ、普遍なる
「月」の光の柔らかさを詠んだ神聖な句です。


ちなみに、芭蕉はこの後「湯殿山」に登ります。
出羽三山の奥の院たる神域。ご神体たる巨岩は
豊穣の象徴、まさしく「再生」を司ります。

人類が創生(創出?)されてから連綿と続く
死と再生の循環ですが、ミクロな観点では
日々一瞬一瞬そのものが死と再生の連続です。
(この辺りは以前にも述べましたけれど)

徹底的に小さなことに拘れば、細胞たちの絶え間ない
死生の循環の前には、世俗のことなど些事。
徹底的に大きな視点で考えれば、星たちの爆発的な
死生の循環の前でも、世俗のことなど些事。

もちろん些事と言うのはどうでもいいという意ではなく。
些事であるからこそ、効率よく対処していきましょう。
人智の及ぶ世界のことなら、原因と結果をしっかり把握し、
自己を律して対処すれば実現・解決は危うからずです。



何にせよ、日々「生かされている」ことに対する
遍くご助力(ご家族を始めとする万物すべて)に
心からの敬意と感謝を忘れなければ「道」は外れません。

(ツクヨミノミコトと言えば、以前触れていたように
 伊勢再訪で月讀宮も参っておりました。やや時間が
 経過しているので記事化もどうかと思っておりましたが
 ご興味ある方もおられるようなので近いうちに…。)


ということで、長くお付き合い下さっている方々だけでなく
あらゆる面でご支援下さっている各方面の皆々様に
改めて5周年の感謝を申し上げる次第です。


5周年ということでお祝いのお心遣い・お言葉を
ご丁寧に下さった方々には重ねて御礼申し上げます。

6年目も輝かしい出会いに充ちていることを
皆さまと共に 心から喜びたいと思います。



いつも本当にありがとうございます。



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2016年05月05日

2016年5月の始まり


皆さま、こんにちは。

*毎月初のご挨拶ですが、手違いで5月冒頭ブログアクセス
 出来ない状況になっておりました…。毎月ご挨拶のみの更新ながら
 定期にご訪問下さった方々にはご迷惑・ご心配おかけ致しました。



2016年第4番の月も過ぎていきました、
2016年の約33%が経過したことになりますね!

年の3分の1の時間を終えたわけですけれど
第2節目の4カ月も優雅に楽しんで参りましょう。




年々や 桜を肥やす 花の塵   芭蕉

(としどしや さくらをこやす はなのちり)


(年々咲く花はやがて散り桜を肥やす塵となる趣深さよ。)




桜の花も既に散り去り、儚く土塵となった時節。
拙宅の車庫も毎年のように桜の花にまみれますが、
その花びらたちも少しずつ土へと還っていきます。

芭蕉の意図する句意としては「年々、先代が礎となって
次代を栄えある花へと育んでいる素晴らしさよ!」との
挨拶吟であったと言われますので、直接的に深く儚い
生命の輪廻を歌ったものではないのでしょうけれど。

ただ、散・塵(ちり)をかけているでしょうし、
安易に諂った(へつらった)社交辞令でもないでしょう。
(相手の家系を讃えるだけなら散とか塵とか避ける気も)

一説によると、崇徳上皇の『千載集』所収の歌
「花は根に 鳥は古巣にかへるなり 春のとまりを 知る人ぞなき」
…を意識して作られているとも言われます。

「春が終われば、花は根元に、鳥は古巣に帰るものだが
 春の行き末を知っている人はいないものだ」という句ですが、
そういう視点で考えると「時間」の大きな流れを感じます。



「春の行く末」は各々の心のうちにこそある…とか?

ともかくも全て「生命の連関」であることは確かなので
桜の輪廻を慈しみつつ来年の満開を心待ちに致しましょう。



万物が各々に与えられた「確かな方向」に向かって
生命力を力強く高める季節において、

長いお付き合いをさせて頂いている皆さま、
新しくご縁ができた方々からのお心遣い諸々に
毎月のことながら感謝を述べさせて頂きます。


初夏の心地よい風の中、5月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆様と共に心から喜びたいと思います。

いつもありがとうございます。



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2016年04月03日

2016年4月の始まり



皆さま、こんにちは。

春の日差しが心身ともに心地よい季節、
素晴らしい日々をお過ごしのことと存じます。

2016年 第3番の月も過ぎていきました、
2016年の約25%が過ぎたことになりますね。

2016年の4分の1…といって長いか短いかは
各々の時間感覚によりましょうが、心機一転
各々にとっての新「期」を楽しんで参りましょう!



草いろいろ おのおの花の 手柄かな  芭蕉


(草花にはさまざまな種類があるが、各々の働きによって
 それぞれ素晴らしい花を咲かせるものだ。)



この句が詠まれたのは秋なので「草」といっても
句意においては秋草がイメージされていますけれど、
主意としては春に引用しても宜しいかなということで。


芭蕉には多くの弟子がいて 各々が味わいある作品を
世に表しているわけですが、弟子との別れに際して
多種多様な草花がそれぞれ工夫を凝らした花を咲かせる様に
喩えて詠んだ句です。師・芭蕉の優しい視点を感じます。

この句の背景としては『古今集』の句(詠み人知らず)、

みどりなる ひとつ草とぞ春は見し 秋はいろいろの 花にぞありける
(緑一色で全て同じ草だと 春には見えていたけれど、
秋になって気づくと それらは各々異なる花だったのだなぁ。)


…を 踏まえているとされています(芭蕉が知らないはずもなく)。


最初に入門してきた時は、みな若い青草に見えていたけれど
成熟につれて各々異なった独自の色で咲き誇る素晴らしさ。

どの花の色も 風雨に打ち勝つ各々の手柄(努力)でこそ
出せるものでしょう。それは人間においても言えること。



。。というわけで、やや季節に違いはありますが
各々が新しい舞台に進んでいくこの季節において
ふと思い浮かんだので今月のご挨拶に添えておきます。

本当に幼い頃から付き合いのある生徒さんは特に
その進化過程を感慨深く思いますが、それぞれが出色。
まさに独自の色を世に表していく様は筆舌に尽くし難く
ホモ・サピエンス20万年の進化形態を超えた未来を感じますね。

一つの「系」において天体たちが巡っていくように
繰り返される新たな出会いと別れを慈しみながら
今期もまた あらゆる時間を深く味わっていくのみです。



長いお付き合いをさせて頂いている皆さま、
新しくご縁ができた方々の日々のお心遣いに
毎月のことながら感謝を述べさせて頂きます。


春光の中、4月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆様と共に心から喜びたいと思います。

いつもありがとうございます。






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