2016年12月31日

2016年の終わり


皆さま、こんばんは。

いよいよ2016年を見送って、
2017年を迎える時となりました!

2016年の日々も 皆さまには
公私にわたって大変お世話になりました。

毎年同じことを申し述べておりますが
2016年も有り難い日々を過ごせましたのは

ひとえに皆々様の温かいご支援のお蔭と
ただただ感謝するばかりです。



去年今年 貫く棒の 如きもの


(こぞことし つらぬくぼうの ごときもの)



高浜虚子の句です。元日に挙げるのがベストでしょうが
この記事を書いているのもあと少しで正月という時なので
この文章を読まれる頃には時宜に適うでしょう。

年が変わる瞬間、ほんの少し前は既に「去年」で
もう今は「今年」という一つの節目に際して、
その底流に雄大に流れている「摂理」はまるで
土台を支える棒のように一貫してそこに在ると。

時々・日々・月々・年々・・とそれぞれの時間尺度に
沿って刻々と変容は繰り返されていきますが、それでも
万象を貫く「理」はいつもそこに在ります。

自ら、あるいは宇宙全体を貫く棒=「理」を
何とするかは各々の思想・世界観によるでしょうが
それが何であれ自らが規定する確かな拠り所があれば
どのような変容(能動的・受動的問わず)に際しても
重心が大きくブレることはないでしょう。

2016年2017年という小さな節目にあっても
いつもそこにあって変わらないものに想いを致し、
どのような激動であっても自らの方向性を狂わさない
確かな支点として 絆を新たにして下さいますように。

…と、ちょっと表現が分かりにくいですね…
とはいえ「変わらないもの」「激動」「方向性」
「絆」という言葉に対して全ての含意を説明するのは
あまりに長くなりますし、読まれる方の感じるままに。


2016年の日々から学ぶところが多々あったと思いますが、
それら全て自らを確かに支える精神の幹として
2017年の日々も存分に吸収して参りましょう。


兎にも角にも 2016年の終わりに際し、

私と時間を共有している生徒さんやご家庭、
関係諸子の方々全てに心から御礼申し上げます。

この1年間の御高恩に対する謝意を
言い尽くすことはできませんが…
2016年 ありがとうございました。



posted by laluz at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2016年12月04日

2016年12月の始まり



皆さま、こんにちは。

とうとう2016年の約93%が過ぎ去りましたが、
皆さまお変わりなくお過ごしのことと存じます。

皆さまの御蔭で2016年も至福の日々を重ねながら
此度の師走を迎えることができました。

今までと これからの全ての「ご縁」に
心からの感謝を申し上げるばかりです。




なかなかに 心をかしき 臘月哉
  芭蕉



なかなかに こころおかしき しはすかな

(世の中は忙しそうに動くという師走だけれども 世俗を離れてみると)かえって風情あるものです… 師走というものは。



「臘月(ろうげつ)」とは、十二月の別名。
句では「師走(しわす)」と読ませています。

wikipediaの記述を参考にしますと…

「臘」=「つなぎあわせる」という意から、新年と旧年の
境目となる旧暦12月のことを「臘月」と称するそうです。
元々は「臘祭」という中国の習慣で、年末に神と祖先の
祭祀を一緒に(つなぎあわせて)行うことに由来するとも。



年末行事やら新年準備やらで周囲せわしくバタバタと
動く時期でもある師走ですけれど、巨視的に見ると、

冬ごもりをして春に備え、新しい年が祝福された日々
であるように願って様々に準備・儀式を行う人間
あるいは諸々の生物の営みは、生命の連関の中で
脈々とつながれていくもの、

本当に愛おしく趣深さをより強く感じる季節です。

寒さが厳しくなってくる時期だからこそ、
生命の温かさや優しさが一層に感じられる
時期でもあるでしょう。


「臘月」といえば、時期的に次の言葉も
目にする機会が多いかもしれませんね。

「看々臘月盡」(みよみよ ろうげつ つく) 

「よくよく観なさい もう十二月も終わってしまう。」
月日の流れは速いもの、日々をよく見なさいという禅語。



禅師・虚堂智愚(1185〜1269)『虚堂録』に
収録されている言葉です。

1年の12月があっという間に終わるのと同じく、
人生もあっという間に終わってしまうもの、
ぼんやり生きず 日々をしっかり見て生きよ、と。


ただ、前後の文脈から考えるともっと「深い」です。

「香林因みに僧問う。萬頃の荒田、是れ誰をか主と為す。
林云わく。看よ看よ臘月盡く。」という流れで説かれます。

香林禅師に一人の僧が尋ねた。
「この広大な荒地は、誰のものですか?」と。
そこで師が答えた。「看よ看よ臘月盡く」と。



一読しただけでは「意味」が分かりませんね。
この荒地は誰のものですか?という問いに
「見なさい、もう12月も終わるぞ」との答え。

ポイントは「荒田」です。字義通り荒れた田畑ではなく
未だ平穏な境地に至っていない、荒れた心を暗示しています。

この僧は修行中の身で、おそらく清浄な境地に至れば
雑念に迷うことない「自らの心」を知覚できると考えたかも
しれませんが…その境地に至る前の「雑音にすぐ乱される心」
というのは、いったい誰に帰属するものなのでしょうか?
という趣旨のことを問いたかったのでしょう。

これに対して、禅師は「そのような些細なことに囚われて
日々の大切なことを見失うな。人生はすぐに過ぎ去る」と
諭したのでした(と、私は解釈しています)

生とは何か?悟りとは何か?を難しく考えながら
知的ぶって歩いているうちに、すぐ傍にある叡智に
気づかずに通り過ぎてしまうのは浅ましい様です。

そもそも忘我の境地に至り、自らの心を万物と
渾然一体にしてその境界の意識さえなくなった時、
「自らの心」というものは果たしてあるのかどうか。

「自らの心」と知覚できるうちはまだ未完成でしょう。
(究極には「完成」という概念さえありませんけれど)


…というわけで、俳句から脱線しましたが「臘月」。

今まさに「2016年終わりの『臘月』」であっても
各々の人生に幕を降ろし、次の世界につなげていく
(かもしれない?)「人生の『臘月』」であっても
満ち足りた心境で安らかに過ごせるならば至上です。



実際、その御肩に大勢の人生がかかっていて
企業・病院などなど各種組織の経営・人的管理に
文字通りご多忙を極めるご父兄各位もおられましょうが、

それにしても人生の臘月は必ず訪れますので、
各々の大切なものをふっと見失わないように
師走だからこそ平静を心がけて2016年を見送り
この上なく優しく2017年を迎えて下さいますように。


2016年の最終章も素晴らしいご縁に充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます!




posted by laluz at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2016年11月04日

2016年11月の始まり



皆さま、こんにちは。

2016年 第10番の月も過ぎました。
2016年の約83%が過ぎたことになりますね。

収穫の秋を見送りながら冬の到来に備える月ですが、
皆さま 極上の晩秋を楽しんでおられることと思います。

(昨年の冒頭部そのまま流用しました…1年とは早いもの)



物いへば 唇寒し 穐の風  芭蕉

(ものいえば くちびるさむし あきのかぜ)

( 何か言うと 秋風で唇が寒く感じる季節だなぁ。 )


解釈が分かれているので良くも悪くも有名な句です。

これは句の前詞に

座右之銘 人の短をいふ事なかれ、己が長をとく事なかれ

と添えられているので、それを受けて解釈するかどうかで
説が分かれています。一つは長らく通説とされてきた解釈で、

「他者の短所を悪く言ったり、自らの長所をことさら
説明しようと口を開くと唇が寒くなるものだ。」という
自戒・訓戒の意味を込めたものと捉えるアプローチです。

何やら人の長所短所をことさらに口にすると
肌寒い秋風が吹くように虚しい気がするものだと。

これはこれでなるほどと納得できますし、
俳聖の訓告とすれば説得力もあるというもの。


ただ…芭蕉の句はシンプルの極致を志向していて
そのような下世話な戒めじみた意図はない気もします…。

この句の成立年が正確に分かっていないことも
句の解釈に影響を与えているかと思いますが、
元禄4年という一説に従えば、50歳で世を去る3年前、
47歳頃の作。。「生と死の連関」を追究していた頃の
芭蕉のスケールとしては「口は災いのもとだぞ」的な
そんな小市民的な訓戒をあえて句にするかなぁとも。

季節の移り変わりを旅路の肌身で感じ、自然・宇宙を
洗練された簡潔さで詠んだ俳聖の世界観からすると
「秋風が唇を寒がらせる季節になったのだな…」と
秋風にたたずむ侘び寂びを17文字に圧縮しただけのような。

そう捉える解釈がもう一つのアプローチですが
あくまで個人的には後者の方が好ましいですね。

ただ芭蕉研究者ではないですし、膨大な文献精査など
行っていないので実際のところは分かりません。
句に触れる人それぞれ感じるまま心に響くものがあれば
それこそ芭蕉の句の味わい方だろうと思います。


もちろん「口は災いのもと」という訓示は
いつの時代にあっても有用であることは確かです。

適切な時に適切な対象に適切な分量だけ!というのは
何も「発話」に限ったことではありませんけれど。
料理にせよ調薬にせよ。。およそ人生の営み全てに
多かれ少なかれ当てはまるでしょう。



というわけで11月、肌・唇も寒さを感じる季節ですが
在るがまま 黙々と秋の収穫を終えられますように。

季節の移り変わりが在るがまま自然であるように
各々の進化も在るがまま自明でありましょう。




この11月も素晴らしいご縁で充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。


posted by laluz at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2016年10月05日

2016年10月の始まり



皆さま、こんにちは。

2016年 第9番の月も過ぎました。
2016年の約75%が過ぎたことになりますね、

皆さまにおかれましては
大いなる収穫の秋をお過ごしのことと存じます。

(6日11時半に続きを更新完了しました。未明か午前中には〜
と記していた為、早めにチェック下さっていたらすみません…。)





月か花か 問へど四睡の 鼾哉   芭蕉

(つきかはなか とえどしすいの いびきかな)

( 月か花かと風流の道を問うても「四睡図」のように返って来るのは
 ただイビキのみ…という境地こそ風流そのものかな。 )



『四睡図』とは豊干禅師、寒山、拾得、虎が
一緒に寝ている様子を描いた禅画で、禅の真理、
妙なる境地を示すとされる画題として有名です。

*芭蕉が句を捧げた「四睡図」は第50代・羽黒山別当の
天宥(宥誉)の筆によるものですが、ご参考までに
国立博物館所蔵の国宝・重要文化財を閲覧できるサイト
「e 国宝」の「四睡図」解説ページを付しておきます。



寒山・拾得(かんざん・じっとく)は二者だけでも
禅図の主題として有名ですし、森鴎外『寒山拾得』
『寒山拾得縁起』でも触れられていますように、
大衆への訓示として広く親しまれてきました。

この3者については鴎外『寒山拾得』をご覧になると
なんとなく概観できるでしょう(参考:青空文庫の作品ページ)。


「羽黒山」は出羽三山の1つで、「月山」のところで
出羽三山に以前触れました(「2016年6月の始まり」の回)。

天宥法印には「追悼句文」にも次の句を添えています。


 その玉や 羽黒にかへす 法の月(のりのつき) 

(法印の魂は羽黒山に返っておられる、
 迷いの闇を明るく照らす真如の月として。)



さて、天宥法印は稀有な政治力・指導力で
羽黒山の発展・地域振興に力を尽くしましたが、
旧来慣行に囚われず半ば強行に改革を進めた事もあって
反対派からの訴え工作等の結果、幕府裁定で敗訴、
新島に流刑とされ7年後の1674年、82歳で入滅。


「客観的」には無念な最期であったと思われますが、
悟りに至った高僧においてはそのような状態にあっても
「四睡図」のように皆と和気藹々、笑みを湛えながら
眠っているような境地にあると称えているのでしょう。

風雅の道を究める芭蕉において、「風流風雅とは?」と
問うても、ただイビキで応えてくれるような無我の境地を
天宥『四睡図』に改めて見たことと思います。

「風流とは?」と問うこと自体「風流ではない」という。
「悟りとは?」と問うこと自体「悟りの境地にない」という。



…と、禅の公案を考える記事のつもりはないので
この辺りにしますけれど、いずれにせよあらゆる喧噪や
試練の時があっても、心安らかに虎を手なずけるような
心持ちで、緩やかに生きていけるのは至上です。


生き急いでも生き急がなくても、終息は万人に
訪れますからね。せいぜい数十億秒の命数なので
(100年=約31億5,570万秒)、1秒1秒を慈しんで
余命を楽しむに越したことはありません。

…とまあ、一見ネガティブというか厭世的に聞こえる
かもしれませんが、目標達成までの必要時間を考えて
今求められる最適行動を逆算するのは合理的思考です。

ならば、どのように「終息」するかしたいかを考えて
今の健康状態・精神状態を規定しつつ、突然の別れに
なって喚かないように周囲に日々感謝しながら生きる、
というのは「理」に叶っているでしょう。

そうする方が案外、何かと上手くいくものですし。



…と、そのようにのんびり考えられるのも全て
皆さまの大いなるご支援ご厚情によるものです。

万物が各々に与えられた「使命」に沿って
生命力を縦横に生やし栄やしていく季節において、

長いお付き合いをさせて頂いている皆さま、
新しくご縁ができた方々のお心遣いなど諸々に
毎月のことながら感謝を述べさせて頂きます。


この10月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます!




posted by laluz at 11:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2016年09月04日

2016年9月の始まり



皆さま、こんにちは。

2016年 第8番の月も過ぎましたね。
2016年の約67%が過ぎたことになります!

8月の暑さが夢であったかと錯覚するほどに
涼しい秋風を感じる時候となりましたけれど、

皆さまもこの上なく充ち足りた夏を
過ごされたことでしょう!!



菊の香に くらがり登る 節句かな     芭蕉


( 菊の節句には「登高」という古来の風習があるが、
私はいま菊の香を頼りに暗い峠を上っている思いだ。。 )




9月9日は、五節句の一つ「重陽(ちょうよう)」。
「菊の節句」とも呼ばれますね。

中国の「陰陽思想」では奇数は「陽」の数であり、
陽の最高数である9が重なる日=「重陽」とされます。

奇数の重なる月日は「陽」の気が強すぎるため、
「気」を祓う行事として節句が行なわれてきました。
1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日…ですが
1月の節句は例外的に1月7日とされています。


全ては「陰・陽」のバランスに拠るべきであって
「陽」の気が強すぎるのも宜しくないということで
邪気や澱みを祓い、無病息災を願う祭式として
一般にも広まっていったわけですね。


さて、「登高」の風習ですけれど、古代中国は
後漢(東漢)の時代、「重九登高、效桓景之避災
(重陽節に高い所に登り、桓景は災難から逃れた)」
という伝承によるものとされています。

桓景という人が、費長房という仙人から予言を受けて
その言葉通り、家族全員が呉茱萸(ごしゅゆ)を
入れた赤い袋を下げ、登った山上で菊花酒を飲んで
大きな災厄を逃れることができたというお話しです。


桓景がそうして災難から逃れることが出来たのを受け
9月9日は高台に登り菊酒を飲む「登高飲酒」の
習慣が中国で生まれたというのが通説です。

日本でも、邪気を祓い長寿を願って菊の花を飾ったり、
菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして菊の節句を
祝ったりしてきたわけですね。菊が延命長寿の花
として知られるのも先の伝承によるものでしょう。
(実際、菊の花には解毒作用もありますし)


さて、そのような前提を押さえたうえで芭蕉の句に戻ると
この句が詠まれたのは元禄7年9月9日(1694年10月27日)。

元禄7年10月12日(1694年11月28日)に命数を終える
死の僅か1ヶ月前に山を登るのは心身とも厳しかったはず…。


実際として峠を登ったのは明るい頃だったそうなので
時刻的に「暗がりを登る」わけではなかったでしょうが
体調も思わしくない死期の目前、我々の想像を超えて
まさに「くらがり登る」という状況だったと思います。

「菊の香に」とは、山頂で祝いながら飲まれる菊花酒や
菊の花を「感覚的に示して」いるものでしょうが
(実際にその山頂で飲まれていたとは伺えませんし)
『おくのほそ道』の旅路で「死と再生」を追究した芭蕉…

この時どのような心境で登っていたのでしょうね。

少なくとも死期が迫った悲壮感は感じられません、
(実際そこまで重篤な状態では登高などできませんし)
むしろ軽やかな菊の香りさえ漂ってきそうな…
そんな達観した境地さえ感じられましょう。



芭蕉は元禄7年10月8日(死の4日前)、病中吟として

 旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

…と詠みました。登高の時も身体は重くあっても
俳聖の精神・夢は「菊の香り」に誘われながら
自由に飛んでいたことでしょう。


…というわけで、重陽の節句(旧暦ではまだ先ですが)。


「陰陽のバランス」を上手くとりつつ、各々の目指す
「領域」あるいは「夢」の、その至高な芳香を志向しつつ
仮に厳しい足取りの中でも誇らしく登頂下さいますように。



「バランス」という点では「2015年9月の始まり」の回
合わせて読み返して頂くのも良いかもしれませんね。


それでは、今回はこの辺で。。

9月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。



posted by laluz at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2016年08月04日

2016年8月の始まり



皆さま、こんにちは。

2016年 第7番の月も過ぎました。
2016年の約58%が過ぎたことになりますが、
この上なく充実の夏をお過ごしのことと思います。

月初のご挨拶のみの更新になって久しいですが
その分1ヶ月の移り変わりを目まぐるしく感じます。


7月冒頭〜8月冒頭までも様々な事件事象がありましたが
ポケモンGOも社会現象となった一つでしょう。
7月22日の配信時から過度な熱気も少しずつ冷め
落ち着きつつあると感じますが、面白い試みでした。

ポケモン好きの生徒さんを教えていた時に、
コミックやらゲームを借りて(というよりは半ば
強引に貸してくれて)最低限の教養?はあるので
個人的には親しみ深く思っておりました。

教室周辺はもとより自宅前もポケストップなので
なんとなく手にとって懐かしんでいますが、
自宅にいて「カビゴン」のシルエットが出たら
ちょっと散歩してくる程度には触っています。。


爆発的な初動だと飽きられるのも早いですし、
実際ゲームとしての「深み」は今のところないので
(Ingressのような「世界観・行動原理」が特にない)、
良コンテンツに育って行って欲しいと思いますね。

単にゲームというよりは「AR:Augmented Reality,
(拡張現実)」浸透化の実験でもあるのでしょうけれど。



…と、その他ゲーム全般についてお話しできることは
相応にありますけれど(ゲーム好きな生徒さんのお蔭で)
今回のところはこの辺で切り上げて本題(?)に。





ひらひらと 挙ぐる扇や 雲の峰   芭蕉




( ひらひらと高く掲げた扇の様は、夏空に浮かぶ
  雲の峰まで 達しているように高らかだ。。 )




能役者・本間主馬を訪れた時に読まれた句。
主馬の舞いを讃えている挨拶吟ではありますけれど
その前提を離れてみても涼やかで雄大な句です。


「能」の真髄を示す命題の1つ「秘すれば花」。

「隠して秘密にするからこそ観客を感動させられる」
…という意味合いですけれど、全てを開示するものよりも
解釈の余地を残し、観客側に委ねる余韻がある方が
芸術に深みが出るというのは理解できましょう。

もちろん、政治・経営・金融投資など現実問題においては
「秘すればこそ花よ…」と片づけるわけにいきませんので
明確に争点・要点を開示できる人こそ有能なる花ですが。



ただ、見せ方・魅せ方という「演出」の観点においては
「ああ、もっと聴きたい、見出したい」と思わせられるか
どうかは、どの分野でも無視できない差を生むものです。

退屈なほど話が長い人、自分の話だけ延々と開示する人などは
大抵「もっと会って聴きたい!」という魅力は与えられません。

魅力の源泉が何かを悟りつつ、それをあえて積極開示はしない、
慎ましく秘することで、その魅力はより映えるというのは
何となく同意される方も多いことでしょう。

ただ、それを更に突き詰めて深めていくと
自分の「我」というものを前面に出さないこと、
すなわち周囲に調和して己を溶け込ませる、という
領域に至るのではないかと思えます。

文字通り「自然体」の領域。

そこに居ながらにして事象のバランスに
何らの乱れを加えることなく、調和を保つ。
むしろ人々を調和の焦点に導くような所作。

我を廃し 万物の流れに沿ってなされる一挙手一投足は
まさに「自然」と渾然一体の営みそのもの。



身体と精神が自らの支配下に置かれ、規律できている方の
所作振舞いは、優雅で美しいもの以上に感じます。

扇をひるがえす所作にさえも、その先に雄大な雲の峰を
想起させるような品位・知性を備えたいものですね。


暑い時期、忘我の境地にある美しい所作どころか
暑さで心身ともにダラけてしまう方も多いでしょうが
涼やかに扇を仰ぐ天上人のような心持ちで
悠然と各々の道を歩んで下さればと思います。


「因果の花を知ること 極めなるべし。一切みな因果なり。」
『風姿花伝(花伝第七・別紙口伝)』


…とありますように、何だかんだ言っても
前提のところは「因果(原因と結果)」ですから
素晴らしい「花」を咲かせるためにも各々適切な
種蒔き・メンテナンスなりの「原因」を設定した上で
「結果」までの過程を楽しんで下さいますように。



8月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。



posted by laluz at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2016年07月04日

2016年7月の始まり



皆さま、こんにちは。

2016年 第6番の月も過ぎました。
2016年の約50%が過ぎたことになりますね。

暑さも否応なく本格化してきますが、皆さま
お変わりなく充実されておられることと思います!



七夕の 逢はぬ心や 雨中天   芭蕉


(七夕の日に二つの星は逢いに来たのに、あいにくの雨では天の川も増水して会うことすらできず「雨中天」の心境と言うべきか。)


「有頂天」と「雨中天」を引っ掛けたユーモラスな句。

「有頂天」とは、仏教世界における「天界」の最上位界。
「有頂天になる」=喜びや絶頂に達して我を忘れるという
日本語の意味合いは、本来は仏教用語に由来しますね。

この「天界」最上位という区分も教義宗派によって変わりますが..


仏教における「六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)」の
「天」について更に「欲界・色界・無色界」の三界に分類されます。

その三界について以下、『欲界』=欲にとらわれた領域である
六欲天(四天王天・忉利天・閻魔天・兜率天・化楽天・他化自在天)、

『色界』=欲望からは解放されたが、物質的感覚は残る領域である
色界十八天(梵衆天・梵輔天・大梵天/少光天・無量光天・光音天/
少浄天・無量浄天・遍浄天/無雲天・福生天・広果天・無想天・
無煩天・無熱天・善現天・善見天・色究竟天)、

そして、欲望や色(肉体や五感などの物質的世界)を超越した
精神領域である『無色界』(空無辺天・識無辺天・無所有天・
非想非非想天)・・・

このように分類される「天界」での色界最高領域「色究竟天」
または無色界最高領域である「非想非非想天」を指して
(ここに教義による差異があります)それを「有頂天」と。



ただ、ここについて疑問に思われる方が多いのですが、
仏道における「天界」とは多くのキリスト教義のような
完全なる神世界というべきものではないんですね..。

あくまで「六道」の最上位といっても、迷いあるものが
輪廻する6種の「迷いある世界」の一つでしかないので
天道にある存在も煩悩に迷い、死を迎えるとされます。

天界の極みである「非想非非想天」に至ってさえ
輪廻を脱した涅槃に到達してはいないので未だ
「迷い」の領域にあると考えられるわけですね…
(もちろんここに教義上の分説はありますけれど)。

ちなみにその輪廻を脱して悟りに至り成仏した存在(?)を
仏陀(如来)といい、その悟りに至るまでの高位修行者を
菩薩(ぼさつ)、広く天界の存在を「〜天」と称します。

民間で広く信仰される、文殊菩薩・毘沙門天といった存在も
天界におわすものの究極的には悟りに至る道中にあって
(その形態=「仏の化身」の場合もあり一概に言えませんが)
極々僅かであっても「迷い」がある存在なわけです。

衆人が迷うように、ともに迷いそれを克服していく努力を
示す「師」だからこそ身近に感じられてきたのでしょう。



・・・と、句の前提解説がやや長くなりましたが
織姫と彦星の1年ぶりの逢瀬で喜びの「有頂天」と
なるはずが、大雨で「雨中天」となってしまったよ…
という、のんびりとした微笑ましい句です。

一切の迷いを離れた領域に到達することは至高ですが
大切に想う人との再会を待ちわびたり、目標達成に
有頂天になるのもまた人間こそ味わえる領域。

そこには適宜、迷いも苦しみもあるのでしょうが
それらを周りの人びとを分かち合っていくことで
同時に喜びも倍加していくことと思います。



というわけで、強引なまとめになった気もしますが
蒸し暑い季節こそ、周囲の暑さを打ち消すほどの
熱情で7月も楽しんで下さいますように!


7月も素晴らしい出会いで充ちていることを

皆様と共に心から喜びたいと思います。



いつも本当にありがとうございます。



posted by laluz at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾