2019年12月31日

2019年の終わり


皆さま、こんにちは。

いよいよ2019年を見送って
2020年を迎える時となりましたね。

2019年の日々も 皆さまには
公私にわたって大変お世話になりました。

毎年毎回 同じことを申し述べておりますが
2019年も有り難い日々を過ごせましたのも
ひとえに皆々様の温かいご支援のお蔭と
ただただ感謝するばかりです。



冬ながら 空より花の 散りくるは
 雲のあなたは 春にやあるらむ



冬なのに空から花が降ってくるのは、雲の向こう側は春なのだろうか。



古今和歌集(巻六330) 清原 深養父
(きよはらのふかやぶ)の和歌です。

清原深養父は 平安時代中期の歌人
(中古三十六歌仙の一人)で
清少納言の曽祖父(高祖父との説も)。



ちらちらと雪の降ってくる様を
花びらが舞い散るに喩えて、

雲の下は厳しい冬だけれども
雲の向こうには春がすぐそこに
来ているんだなぁという優しい和歌。 

まあ、雪国の方々からすれば
所詮は雪の怖さを知らない貴族の戯言よ…
と冷笑を浴びるのかもしれませんけれど、

寒い日々の細やかな心配りなどを
花の温かさのように感じることは
きっとあることでしょう。

「雲のあなたは 春にやあるらむ」
という語意とは完全にズレますが、

寒い中でも背筋を正しながら、
優しい花のような笑顔の人物なら
まるで「あなたは春にやあるらむ」と
周囲を温かい気持ちにさせるはず。

現実の季節がどうであっても
周囲や自分の心境・心持が厳寒の
大吹雪なら人生は冷たいままでしょうし。

そういう意味では、結局のところ
自分の心持次第で、ある程度は
優しい季節を近づけたり遠ざけたり
できるものかなと感じますね。


大掃除やらで身の回りの整理をされた方も
そうでない方も、少なくとも「精神」は
一新して2020年の訪れを心待ちに。

2019年が万事順調だった方も反省点が
多かった方も、2020年は素晴らしい日々
になると確信とともに寿ぎましょう。

自分自身はもちろんのことながら
周囲にも「春」を感じさせるように
優雅な日々を楽しんで参りたいものです。


兎にも角にも 2019年の終わりに際し、

私と時間を共有している生徒さんやご家庭、
関係諸子の方々全てに心から御礼申し上げます。

この1年間の御高恩に対する謝意を
言い尽くすことはできませんが…
2019年も本当に有難うございました!


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2019年12月20日

価値観の転換


皆さま、こんにちは。

中旬と申し上げていた
12月の2回目更新です。
(下旬になってしまいすみません…)

このラルースの塔でも適宜書いて
来た「対極思考」ですけど、

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感情論としてはNO だけれども、YES の立場になり切って考えてみると、状況はどう見えるか?そのように変化していくと考えられるか?現状で存在する(と考えられる)メリット・デメリットというものは、どう変化するか?ということを「壮大なスケール」で考える試み、それが「対極思考」の核心です。(2012年05月01日

要するに、今まで見ていた景色や状況を正反対の立場から眺めてみると、今までの思考スタンスは変わりうるのかどうか?という思考の検証です。
「対極思考」のポイントは、あらゆる事象に対してさまざまな思考が存在するということを知り、そのどれについても執着することなく自由に思考を行き来することができるかどうか?が「脳の柔軟性」を極端に高めるということです。

先入観に囚われることなく自由な発想で色々な角度から事象を探究してみることは(もちろん人間心理についても同様です)、今まで気づきにくかったことを浮かび上がらせ物事の微細な美しさを知ることにも繋がります。(2012年04月25日

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・・・というように述べました。

非合理的な常識・固定観念に囚われず、
視点・焦点を柔軟に変化させながら
全容を俯瞰して観ようとすることが、
知能を大いに刺激するということです。


そのことに関連して、何かコツとか
先生が意識していたことはありますか?
という質問など受けることもあります。

そう問われてふと思いつくのは
藤子・F・不二雄のSF作品など
"価値観を揺さぶるようなテーマに
多く触れること" が一つに挙げられます。


藤子・F・不二雄(藤本 弘)
(1933年12月1日 - 1996年9月23日)は
言わずとしれた『ドラえもん』の作者。

『パーマン』『キテレツ大百科』
『エスパー魔美』など子供向けの作品で
有名な漫画家ですが、SF短編として
奥深く哲学的な作品も多く遺しています。


この"SF"はScience Fiction ではなく
Sukoshi Fushigi(スコシ フシギ)とのこと。


SF短編だけでも110編を超える中で
そのほとんどが秀逸なのですけれど
個人的に印象強く残っているものを
ご紹介してみようと思います。


ミノタウロスの皿 (1969年)

宇宙船が故障してしまい、地球のような惑星「イノックス星」に不時着した主人公は、そこで偶然出会った少女・ミノアに助けてもらう。この星では、牛のような姿をした"ズン類"が世界を支配しており、ミノアたち人間は"ウス"と呼ばれ、"ズン類"に食用、愛玩用として飼育されていたのだった。主人公は喜んで食べられようとするミノアを助け出そうと説得に奔走するが…

…という、人間と家畜の立場が逆転した世界のお話。

人が牛豚などの家畜を当たり前に食べている中、
それが逆だったら?と、価値観の転換を
考えさせられる作品です。

今の私は ほぼ菜食("卵"は頂きます)に
なっていますし、昔から食肉は好きではなかったので

個人的には衝撃という訳でもありませんが
この作品が50年前に書かれたことは驚きです。



ヒョンヒョロ (1971年)

ある日、マーちゃんは「お星さまを拾った」「円盤に乗ったウサギさんを見た」と言い出すが、両親は子供の戯言だと信じなかった。その後、マーちゃんは「ウサギさんから貰った手紙」を両親に見せる。手紙には「脅迫状。ヒョンヒョロを差し出さないと誘拐するてす。マーちゃんどの」といった内容が書かれていた。またも大人は信じなかったが、彼らの前にうさぎのような異生物が姿を現し、ヒョンヒョロを要求するが……


子供の話をまともに信じようとしない
大人の浅はかさや、身勝手さへの警鐘
とはいえ、衝撃的な結末です。

個人的はかなり印象深い作品。



カンビュセスの籤 (1977年)

紀元前500年頃、ペルシア王カンビュセスは5万の軍勢でエチオピア遠征を企てたが、やがて食糧が尽き、乗馬も草木も食べ尽くした兵士たちが生きるために選んだ手段は、10人が1組となって籤(くじ)を引き、当たった1人を糧食とする残酷なものだった。籤に当たった兵士・サルクは逃亡するも見知らぬ空間にさまよい、力尽き倒れたところをエステルという女性に救われる。

翻訳の機械が直り、ようやく会話が出来るようになると、互いの境遇を知る。ここは人間同士の終末戦争で荒れ果てて植物も育たない、23万年後の未来の地球だった。1万年の冬眠のたびに籤で1人を選び、食料(ミートキューブ)にして生き延びるという手段をとってきた結果、エステルが最後の1人となっていた。

この話を聞いたサルクは、自分に出されていた食料が"人間"であると知り愕然とする。エステルは2本の籤を差し出し、どちらが食料になるか籤引きで決めると言い、「籤を引いて」とサルクに詰め寄るが…


「何故そこまでして生き延びなければならないのか」
「私達には生き延びる義務があるの」

…というセリフからも「生きるとは?」
を考えさせられる 名作と思います。

"生きるためには食べなければならない"
という固定観念に囚われずに柔軟に
"じゃあ食べずに生きられる身体になろう"
と思える自分はなかなか特異かもながら…

生命倫理を考える上でも秀逸な題材です。



流血鬼 (1978年)

「マチスン・ウイルス」に感染すると吸血鬼のようになる奇病が日本にも広まり始めたある夜、吸血鬼たちがウィルスをガス状にして散布し、主人公たち以外は感染してしまう。両親や近隣住民も吸血鬼と化した街から、秘密の洞穴に逃げ込むと木杭と十字架で吸血鬼たちへの抵抗を始めるが… 吸血鬼の正体は、ウィルスの感染によってより強い生命力を得て進化した新人類であり、ウィルスを感染させて新人類を増やすために吸血を行っていたという驚愕の事実を明かされる・・


吸血鬼=殺人者と見なして、心臓に杭を打つ少年に対し、
「私たちが吸血鬼ならばあなたは流血鬼」と。

吸血鬼を殺して血を流す流血鬼(人間)であるより
人を殺したりせず「血を吸うだけ」の吸血鬼の方が
良き存在ではないですか??

…と、これまた価値観を揺さぶって
考えさせられる作品ですね。

リチャード・マシスンの小説『地球最後の男』
が元になっているとされていますが、
藤子F作品の結末の方が素晴らしいです。


さて…あらすじの分だけどうしても
長くなるのは仕方ないとしても
まだ4作品しか挙げていないのに
このペースは長くなり過ぎですね。

本当にまだまだご紹介すべき名作は
枚挙に暇ないのですけど、

間引き (1974年)
耳太郎(1976年)
未来ドロボウ(1977年)
ぼくは神様 (1977年)
創世日記(1979年)

この辺りは、大人にも子供にも
有益な学びが与えられる名作かと思います。


日々の"当たり前"に縛られずに
柔軟に思考思索していくと同時に、

日々の"当たり前"にこそ掛け替えなき
幸せの鍵が隠されているのだと気付くこと。

「価値観の転換」とは、自分が
未だ気付いていなかった本当の価値を
見出す "きっかけ"にもなります。



"人は失ってみて初めてその価値に気づく"
的なことは、古来から言われてきますが、
どうせなら失う前に気付けた方が嬉しいですよね。

日々支えて下さる周囲全てに
改めて意を配りながら
楽しく歩んで参りましょう。

それでは、今回はこの辺で。

有意義な年末をお過ごし下さいね。


posted by laluz at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 「脳」の使い方

2019年12月04日

2019年12月の始まり



皆さま、こんにちは。

2019年の約93%が過ぎ去りましたが、
充実の日々をお過ごしのことと存じます。

皆さまの御蔭で2019年も平穏に過ごせ
無事に師走を迎えることができました。

知覚出来るもの出来ないもの問わず
諸々の必然が 本当に有難いです。



おほぞらの 月の光し きよければ
 影見し水ぞ まづこほりける



(大空の月の光が清らかに冴えるので
 その月影を見た水が何よりまず凍ったことよ。)


『古今和歌集』巻六 316
作者は不明ながら綺麗な和歌ですね。


2018年12月は「張り詰めた寒気で 全てのモノが襟を正すがごとく、水が張っていない地面さえも 月光に照らされて氷のように白く研ぎ澄まされていく情景」として西行の、

さゆと見えて 冬深くなる 月影は
水なき庭に 氷をぞ敷く


を引用しましたけれど、
身が引き締まるほどに冴え渡る月
というところに通ずる趣があります。


"影見し水" の語意については解釈が分かれる点も
あるようですが、ここでは素直に「月を見た水」
と捉えておきます。


月を見る"水"とは何かについては
「月と水」に関連して2018年度に
触れたので(例えば2018年7月の始まり
今回は深入りしませんが、

シンプルに"水"=湖・池の水面が
静かに凍っていく情景を捉えても
美しい冬を感じられると思います。


神域聖域・祭祀遺跡etc.において
心身が凍るほど引き締まるというのは
体感される方も多いでしょうし、

現実においても、人格的に高潔で
凛とした佇まいの中に、圧倒される
オーラを感じさせる賢人というのは
今も昔もおられましょう。

ただ、この"凍り付く"というのは
冷徹な感覚というのでもなく、
思考停止状態に固まるものの
どこか落ち着くような優しさを
確かに感じられるというような。



この「澄み渡るほどの冷気で心身が凍り付く」
体験で個人的に思い入れが強いものが一つあります。

(詳しく書けませんが)天下人らによって
受け継がれて来たとされる御神剣を
握らせて頂く御縁があり、

その時の感覚は今でも忘れ得ぬほどの
圧倒的なプレッシャーというか…
それこそ澄み渡る神気を前にして
心身が凍り付くという感覚でした。

汝はこの剣を握るに足る者か?と
問われているかのような威圧感、
それでいて見守るような優しさと
吸い込まれそうなほどの美しさ。
身体はともかく精神は畏れ多く震えました。

今は世俗を離れてのんびり生きている
身ですが、心身にハリがなくなりそうな時は
当時の感覚を思い起こしてピンと張り詰め
改め直す契機にしています。



…と、脱線してしまいましたが

冬の月は、1年の疲れや達成感で
緩みがちな心身をピンと張り直して
くれる、冷たくも優しい光です。

20191106_211116.jpg
<2019年神迎祭 境内の月>


2018年12月のまとめをあえて流用しますが、

ただただ「寒さに襟を正す」ことで
精神の再調和を意識的に行えば
それに越したことはありません。

日々 心が乱された方もそうでない方も
来る2020年を前に 心音を整えながら
年末を過ごして参りましょう。



それでは、今回はこの辺で。

2019年の最終月も清き時間に充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。


(今月の中旬更新は未定ですが…簡単でも何かしら更新したいと思っています)
posted by laluz at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2019年11月17日

映画のお話 #6



皆さま、こんにちは。

9月以来の月2回目更新ですけど
今回は久々に映画のお話に致します。

(「名言の英語」にする予定でしたが
いまいち短く纏めきれなかったので)


映画のお話 #6 は昔の映画(20世紀後半)で
特に印象深かった作品は?と自問してみて
思い浮かんだ名作を挙げてみようと思います。

*「ラルースの塔」で挙げて問題ない範疇でといつも添えますが、これは名作であっても残酷・残虐・卑猥な描写が激しいものや前提知識がないとやや偏った印象になる…ある意味では「有害になりうる」ものはこのページではあえて挙げない趣旨です。

ただ、今回は考えさせられるというか
「楽しい」作風ではない(ものが多い)ので
小中学生には基本的にお薦め致しません。

設定上、目を背けたい描写もありますし。
精神性が高くなった時には一度観て
おくべき名作かなとは思いますけれど。



ショーシャンクの空に
(The Shawshank Redemption,1994年/アメリカ)


冤罪によって投獄された主人公が、腐敗した刑務所の中でも
希望を捨てずに生き抜いていくヒューマン・ドラマ。

「希望」という正にそれだけを
徹底的に描くための絶望状況というか。

Redemption=贖い(あがない)
鑑賞後この意味を考えてみると良いと思います。

間違いなく映画史に残る作品の一つながら…
興業的には成功とは言えなかったのも分かる気が。
気分転換に観るか〜という娯楽映画ではないですね。



グリーンマイル
(The Green Mile,1999年/アメリカ)


「ショーシャンクの空に」と同じく
原作スティーブン・キング&監督フランク・ダラボン。

大恐慌時代、死刑囚が収監されている刑務所を舞台に、
死刑囚と看守たちとの心の交流を描く中で
人間の本質と罪について考えさせられる作品。

全くハッピーエンドではないですけど
グルーンマイルの方が「解り易い」かも。

「グリーンマイル=監獄から電気椅子に
向かって続く 緑色の通路」のこと。

ネタバレなのでうっすらと書きますと…
奇蹟の力を持つ者が無実の罪で死刑に
なる結末だけ見ると納得できませんが
天に還ることを望んでいた面もあるので
冤罪だけ取り上げて批評するのはどうかなと。


イエス磔刑を想う方もおられるでしょうし
深く考えさせられる名作だと思います。



シンドラーのリスト
(Schindler's List,1993年/アメリカ)


第二次世界大戦時にドイツによるユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が東欧のドイツ占領地で進む中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を自身が経営する軍需工場に必要な生産力だという名目で絶滅収容所送りを阻止し、その命を救った実話をスピルバーグ監督が映像化。

「東洋のシンドラー」などとも呼ばれる
杉原 千畝(ちうね)の業績も併せて
押さえておくことをお勧めしますね。。



十二人の怒れる男
(12 Angry Men,1957年/アメリカ)


父親殺しで起訴された18歳の少年の判決をめぐり、12人の陪審員のうち、1人だけが少年の無罪を主張する。審判には全員の一致が必要で、それまでは蒸し暑い部屋から出ることができない。果たして12人が出した結論とは?

全編白黒映像で、場所もほぼ陪審員室のみ。
脚本展開で引き込む密室劇の金字塔。

学生時代に指導教授との雑談で
『十二人の怒れる男』は観た方がいいよと
言われ、観たらなるほど…と感心して
そういう意味でも印象に残っていますね。


教授からのお薦め話という流れでは
当時ハーバード教授だったと思いますが
生命倫理の話から映画の話になって、
『GATTACA』観たことは?と言われて
その後で観たという点で同様に印象的。

ガタカ
(GATTACA,1997年/アメリカ)


遺伝子操作により管理された近未来。宇宙飛行士を夢見る青年ビンセントは、劣性の遺伝子のため希望の無い生活を送っていた。そんなある日、ビンセントは闇業者の手配により、事故により身障者となった優秀な遺伝子をもつ元エリート、ジェロームに成りすます偽装の契約を結ぶ。そうして、ジェロームの遺伝子を借りてエリートとなったビンセントは、宇宙飛行施設“ガタカ”に潜り込む…。

題名はDNA塩基 guanine(グアニン)、adenine(アデニン)、thymine(チミン)、cytosine(シトシン)の頭文字に由来。

Consider God's handiwork, who can straighten what He hath made crooked?
(「神の御業を見よ。神が曲げたものを誰が直しえようか」『伝道の書』7:13

…と、生命倫理を考える教材としては
成程と思いますが、惜しい面もあるので
好みが分かれる所でしょうか。



カッコーの巣の上で
(One Flew Over the Cuckoo's Nest,1975年/アメリカ)


精神異常を装って刑務所での強制労働を逃れた男マクマーフィーが、精神病院から自由を勝ちとろうと試みるストーリー。管理主義的な看護婦長に反抗し、病院のルールを片っ端から破っていく主人公に、他の患者は当初困惑していましたが、次第に同じく自由を望むようになっていきます。

映画史に残る名作の一つですけど
すごく悲しい物語と評するに尽きます。
物語というか実際に近いような虐待が
50年ほど前まであったのが驚きです。

One Flew Over the Cuckoo's Nestは
マザーグースの詩に由来しますが
cuckoo's nestは「精神病棟」を
暗に示す蔑称ともなります。

今では飛躍的に患者の尊厳・環境改善が
進んでいるものの、当時は人権など皆無で
ロボトミー(大脳前頭葉切除)手術や
電気ショック措置などが科学的に有効と
評価されていました(日本でも)。

ジョンF・ケネディの妹君ローズマリーも
知的障碍を主因にロボトミー手術を施され
廃人同然となりました。発覚後批判を受け
ケネディ大統領は精神病棟の状況改善に関する
大統領教書を示しますが、大統領暗殺により
隔離政策の改善は後退することになります…。


…と、人間としての尊厳という点から
深く考えさせられる(大人向きの)偉作です。



ベン・ハー
(Ben-Hur,1959年/アメリカ)


イエスの誕生に始まって磔刑に終わる救世主の
裏側(というか並行)で進む主人公ベン・ハーの物語。
2016年にもリメイクされています。


…と、そこそこに抑えないと
いくらでも長く長くなるので
今回はこの辺りで終わります。


レインマン (1988年)
レナードの朝 (1990年)
…辺りも、印象深い名作ですね。

中学〜大学生時に観た名作など
もう一度見返したいなぁと思いますが
最近の映画もチェックしておくべきで
なかなか手が(目が?)回りません。。

電子書籍もかなりのペースで
目を通しているので、眼精疲労には
注意しないといけない昨今です。


というわけで、中途半端ながら
映画のお話(往年の名作編)でした。

芸術の秋はもう過ぎますけど
芸術の冬・勉学の冬を楽しんで参りましょう!

いつもありがとうございます。


posted by laluz at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 書物・映画etc..

2019年11月04日

2019年11月の始まり


皆さま、こんにちは。

2019年 第10番の月も過ぎました。
2019年の約83%が過ぎたことになります。

現世に不変なるものは無いと言えど
目まぐるしく対応に追われるような
事変が世界で起こっている昨今ですが…

お変わりなくお過ごしでしょうか。

こういう時季は体調を崩しやすいので
くれぐれもご自愛下さいますように。



もみぢ葉の 流れてとまる みなとには
 紅深き 波や立つらむ 


(紅葉の葉が川を流れ流れて留まる河口では、
 深い紅色の波が立つことでしょう。)



『古今和歌集』(巻五293)
 素性法師の和歌です。

「二条の后の東宮の御息所と申しける時に御屏風に竜田川に紅葉流れるかたをかけりけるを題にてよめる」と詞書にあるように、

実際の竜田川を眼前に詠んだ歌ではなく、
屏風絵に描かれた紅葉を題にして詠んだ歌です。

現実の事象を観て、そこから結末や展開を
悲喜交々に想像して詠むというのは常道ですが
そもそも想像の絵から仮想の展開を詠むという点で
想像の広がりが趣深く感じられますね。


何もない間・虚空に「動き」「変化」を加えて
「有・無限の広がり」を見出すのが
空間芸術の深奥。とすれば、静止絵の川に
紅葉の動きを与えて河口の波まで想像させる
この歌は、空間の広がりを生み出す点で
創造的想像というべき知的な美しさがあります。

(あくまで個人的な感想ですけども)


人間は日々刻々、思考認識判断を繰り返し
様々な印象感情を抱いて暮らしますが、
その思考感情の対象は必ずしも「現認」の
事象とは限りません、むしろ「眼で見たもの」
ではない伝聞で判断する方が多いでしょう。

仮に放送映像であっても、編集によって
実際の印象とは全く異なる場合もあります。
良くも悪くも「想像」が介在してきます。

例えば「地球温暖化」という議論においても
真実は温暖化どころか寒冷化に備えなければならない
かもしれないわけです、各データを多角的に見れば。

stacks-image-5f8ffb5-798x546.png
・南極ボストーク基地で掘削された氷床コアに基づくデータ
climate data より引用.

40万年前から数えても約4回の温暖化&氷寒期
を繰り返していますが、約10万年毎の温暖化も
全て「産業革命以降の急激な開発汚染・排気」
的なものなのかと言えば疑問ですよね?

(約10万年の周期で高度知的生命による文明が
 興亡を繰り返している的な異説に従うなら兎も角…)


海底火山活動の放熱による氷床・氷山の融解
それに伴う埋蔵ガスの放出による温暖化+
海面上昇、海流変化に伴う気象異常…
といった「地球の自浄システム」を前に
人間に出来る防衛など気休めのようなもの。

太陽活動の停滞周期や宇宙線量の増減による
地球の気象変動への影響について まだ
研究成果は出揃わないものの、太陽の放射量
増減の前には人類の出すCO2量など誤差…
とまで言いませんが、説得性に欠けます。



もちろん生体に有害な人工化学物質や
温室効果ガスは早急に削減根絶させた方が
合理に決まっていますが、それはあくまで
「生体球」としての地球に敬意を払う
趣旨から行われるべきものであって、

近視眼的に「温暖化」だけしか見ないのも
あまり知的な態度ではないように思います。

(寒冷化の根拠についても疑義反論あり
 温暖化危機を否定する訳ではありませんが
 寒冷リスクも念頭に置くべきという意味です。
 多様な複合要因を総合的に検証しなければ。)



環境問題に限ったことではありませんが、
文字通り玉石混交の情報氾濫の中で
総合的に真偽判断する知性がなければ、
容易に「誘導」されてしまいます。

(私が小論文対策やディベートをする時
 生徒の主張を否定することは絶対なく
 「では、このような反論については?」
 と多角的に判断することを促します。)


長々と何を言いたいか申しますと…

自分の見聞している事象・情報は
「あくまで伝聞描写で 事実の一片かもしれない」
「あるいはそもそも空想・虚偽かもしれない」
という意識を持っておくことの重要性です。



素性法師は、屏風絵は現実そのものでは
ないことを知っていますよね。
その上で、美しい空間の広がりを
現出させました。

同じ絵を見ても、流れる紅葉が
やがて堆積して汚泥に変じる
儚い面を詠むこともできますし、
それはそれでまた趣深しです。


現代においても、フィクション(虚構)は
フィクションとして楽しめば良いのですけど
その真贋を問うことなく盲信・妄信して
虚構を真実のように捉えて悲しみ狂うのは
エンターテイメントの域を超えています。

究極的に「この認識世界そのものが
フィクション(虚構)だ」という主張に対して
私は有効な反論を見出せない状況ですので

「そのまま フィクションの世界を
在るがまま楽しめば良いのでは?」
という結論に与してしまいそうですけれど。


何はともあれ、日々見聞する事象に
ついて思い惑うのも人間の特権とはいえど
どうせなら紅葉の行く末は、汚泥よりも
美しく舞う紅い波をイメージした方が
人生楽しいですよね、ということでした。

人間は苦しむ為に生を受けたのではなく
喜びを感じるために生まれ出でたので
(スパイスとしての艱難辛苦も味わいながら)
在るがままを楽しんで参りましょう。



それでは、今回はこの辺で。
いつもご訪問下さりありがとうございます。

(11月は世界情勢が許す限り 16日前後に
 もう1回更新できれば良いなと思っています)


posted by laluz at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2019年10月04日

2019年10月の始まり



皆さま、こんにちは。

2019年 第9番の月も過ぎました。
2019年も75%を終えたことになりますね。

まあ、残り10%だろうが90%だろうが
「日々時々の事象を味わい愛でる」
これこそ至高の境地と思いますので
時間に振り回される必要はありません。

各々与えられた時間を大切に
実りの秋を楽しんで参りましょう。




秋の山  紅葉をぬさと たむくれば
住む我さへぞ 旅心地する


(秋の山が紅葉を幣のごとく手向けるので、
住居に留まっている私も まるで旅をしている気になります。。)



『古今和歌集』巻五299
紀 貫之(きの つらゆき) の和歌です。


ここに言う「幣(ぬさ)」とは・・

1 祈願または罪穢れを祓うため 神前に供える幣帛(へいはく)。
  紙・麻・木綿(ゆう)などを使う。みてぐら。御幣(ごへい)。
2 旅の無事を祈って贈るもの。はなむけ。【デジタル大辞泉】



ここでは、「道中の安全を祈願する時に使う、
布や紙などを小さく切った切幣(きりぬさ)」
の方です。幣を手向く(ぬさをたむく)とは
旅立つ際に道中の安全を祈願して切幣を
紙吹雪のように降りかけるイメージですね。

最近では見かけることも少ないでしょうが
晴れ舞台や新しい門出で旅立つ者に対して
紙吹雪で送り出すのは、幣を手向く名残でしょう。

新天地への道中・現地での平穏安全を
祈願して行われる 奥ゆかしい営みです。

というわけで、秋の山が旅行道中の
安全を祈って「幣を手向く」ごとく
紅葉を優雅に降り注いでくれるので、
家にいてさえ旅先にいるような気がする
と詠んだ、とても美しい和歌ですね。



10月冒頭の引用としては、紅葉吹雪に
早すぎると言えますが、紅葉に限らず
葉が舞うことは日々ありましょう。

葉っぱが風に吹かれて自身に
優しく降りかかるような時は
あぁ自然が清めてくれているなぁ
と、心安らかに微笑むことが出来ますね。


舞う紅葉を幣に例える和歌は
少なくありませんが、厳しい冬を
越して無事に春を迎えられるように
木々山々ひいては大自然が祈って
くれていると先人は読み解きました。

日々の何気ない些細な事象ですら
どうせなら自分への餞(はなむけ)
と、良いように受け止めましょう。


「うおー 大自然いや宇宙全てが自分を
祝福してくれてる!日々謙虚に頑張ろー」

…と(ちょっと極端かもですけど)
これくらい思い続けられる人は大抵
どの道に進んでも大成しますよね。


それでは、今回はこの辺で。
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posted by laluz at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2019年09月17日

「表現の自由」など


皆さま、こんにちは。

さて、9月の2回目更新です。
テーマは「表現の自由」などなど・・

ん?先生にしては珍しく現実的な題材では?
と思われそうですが、生徒さんとの雑談
(休憩時や授業後の質問など)で法律の話題は
昔からよく回答するテーマだったりします。

小論文やディベート対策などで「〜の権利」を
論ずる場合の前提整理に限らず、純粋な
知的興味から「先生、こういう場合は
法的にどうなるんです?」という質問は
よく受けて来ました。

「複雑な犯罪」が、どのように刑事処理されるか
完全犯罪を行える前提など興味深く質問する子もいたり。


ラルースブログでは、政治・宗教などについて
原則として触れないスタンスですけれど、
対面の質問では「真実のところ 〜は何が問題・
争点なのですか?」と、客観的な状況・争点
整理を求められることは多々ありますね。

そういうわけで、「表現の自由」も
何回か解説してきたテーマだったため
まとめておくのも良いかと思った訳ですが、

この「表現の自由」論は非常に重要な問題
であるために分量的に「簡単に解説」という
ことさえできません、議論する上での基礎
確認という程度に概観してみましょう。


日本国憲法 第21条
@集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
A検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。


…と定められていますね。

第1項について例示されている通り、集会・結社の自由、言論の自由、出版の自由は原則保障されています。「その他一切の表現の自由」という文言通り、人がその思想・意見・主張・感情などを対外的に示す「表現」と言える限り、憲法上尊重されます。

法的素養がある方々には釈迦に説法ですが、ここで前提をおさらいしておきますと、「民主国家における憲法」というのはその性質上、国家・公権力がその国民の権利自由を規制禁止しないよう監視抑制するためのシステムです。

国がいきなり法律で、国家を批判する発言を禁止して違反者を投獄するなど出来たら民主制の破綻ですよね。要するに、主権者である国民の権利自由が侵害されないように、国家権力にブレーキをかけて国民主権・民主主義を守るルールが日本国憲法です(日本国民以外の外国籍の方にも原則的に権利自由は尊重されます)

ただ、Aさんが暴力的な行為表現でBさんの生命身体の安全が脅かされている場合でも、Aさんの行為はある意味「表現」の自由といえるから警察さえ制止できないとなると、Bさんら他者の生命身体の自由(憲法18条等)が侵害されることになります。なので、国民の権利保障といっても、無制限で認められるわけではなく他者の権利自由・公共の利益を害しない限度すなわち「公共の福祉に反しない」範囲で認められるという制約があります。公共の福祉を保護するため必要な場合に限って、国家は国民の権利自由を規制することができるわけですね**

第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


**この「公共の福祉」論は重要なのですが、今回は深入りしません。


逆にいえば、国民v.s.国家権力 ではなく国民v.s.国民という状況については、憲法が直接適用される場面では本来ありません。とはいえ、Aさんや民間企業Bが、Cさんを性別や民族的ルーツで差別する扱いをした場合でも、全く問題ないというのでは「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」とする憲法14条第1項の理念が損なわれてしまいます。

そこで、憲法はあくまで私人(しじん)の間では直接適用されないものの、民法90条の「公序良俗」など一般条項を通じて憲法の理念は各々尊重(間接適用)されるというのが通説です(もちろん別見解もあります)

なので、Cさんは差別的扱いを受けて経済的損害・精神的苦痛を被ったなら、民事手続を通じて不法行為に基づく損害賠償(慰謝料)請求や差別行為の差止め請求などを民法709条等を根拠に求めていくことで保護されます (まあ…仮に裁判を経ずとも弁護士を介した示談交渉など負担かつ面倒ですし、相手の資力によっては賠償金も回収できないので現実には泣き寝入りするケースも少なくありませんが…)

深刻な場合はあわせて刑事手続による名誉毀損罪(内容様態によっては脅迫罪)など刑事罰として法的制裁を求めていくことが可能でしょう (といっても極めて悪質・執拗でない限り 罰金刑かせいぜい執行猶予付き懲役刑ですが…この辺りも今は深入りしません)


とりあえず、ここまでのポイントは @近代憲法は、あくまで国民を守るために国家・公権力を縛ることが目的、A国民の権利自由はそれぞれ等しく保障されるので、他者の権利を侵害しない範囲で保護されるに過ぎない、B刑罰を問う刑事手続と、損害賠償請求などの民事手続はそれぞれ違うよ、というところです (厳密にいえば正確さに欠けますが、教養としてはこの程度の差異を頭に入れて下さればと思います)


この基礎理解で昨今の「表現の自由」に関わる喧騒をみるにも、@表現主体が「公権力あるいは公人」なのか「私人」なのか、Aその表現内容・手段が他者の権利自由を侵害しないものかどうか、という点から考えなければ ただの感情論に墮してしまいます。

例えば、国会議員・地方議会議員の発言であっても、あくまで公的立場を離れた私人としてのプライベートな状況なら一国民の「表現の自由」として最大限尊重されます。逆に、公人すなわち公権力の行使者としての発言なら、国民の権利自由を過度に抑圧するものでないか厳しく問われます。ただ、Twitterなど公私の区別が曖昧な昨今、公僕としての氏名で発言しているなら「公人としての表現」と推定されるでしょう。

ちなみに、国会議員も憲法尊重義務(憲法99条)を負いますが、憲法改正論議を提起できる以上、憲法に反する発言をしたからと言って、それが表現の自由を逸脱するとは直ちに言えません。ただ、憲法改正などの持論・問題提起は、選挙による国民の審判を受ける間際の公開討論なりで賛同を求めるのが本筋です。当選後にそのような重大テーマを新たに扱う場合は、支持者に対して真摯な説明をする道義的責務は求められるという点で、憲法(改正手続きの趣旨)を尊重すべき義務を負うと言えるでしょう。

民間メディアの記事については、出版・報道の自由として「公共の福祉」に反しない限り尊重されるのが原則です。ただ、法的争点としては「問題なし」でも、ビジネス面では抗議に対して素直に謝罪した方が良いところもあるので、その辺りは別次元の考慮が働くことは多いでしょうね。


あと…美術展の内容を公人が中止勧告という問題は、原則論としては「表現の自由」を公権力が規制したと言えそうですが、公的助成・補助金等を受けている場合「税金を使う以上、使途が適正か否かの公的チェックは不可避」です。そのチェックが表現内容そのものではなく(即ち「検閲」ではなく)、表現の場所・方法手段において適切かどうかを客観的に判断し、仮に介入しない場合は反対デモ等で入場者の生命身体の安全が確保されないなど「公共の福祉」の維持に必要不可欠であると認められるなら、その表現(手段)を規制することは可能です。

ポイントは、あくまでその場所その方法での表現をやむを得ず規制しただけで、表現内容そのものを規制したわけではない点です(法的議論に不馴れな方々は屁理屈に聞こえるでしょうが、これは非常に重要です)。日本で一切その表現ができないとなれば憲法違反ですが、公共に混乱を生じない手段様態について禁止されないならば、法的には問題ありません。(民衆の「表現を自由に受け取る権利」があるとしても、別の方法で鑑賞できる機会があるなら 重大な権利侵害とは言えません。)

では、反対デモを取り締まれば良い!という訳にもいかず(集会の自由)、国民v.s.国民の権利衝突の問題となりますので、これはまた別の争点です。"知恵の輪"のように 一つずつ解きほぐさず 力ずくで解こうとしてもムリです(大抵は暴力的・威圧的クレームにしかなりません)

ただ、現状で法的に問題ないとしても、その規制判断・法的根拠が永続的に正しいとは限りません。その時代・状況に応じた問題提起は、大多数の側にとって耳障りであっても、少数意見をひとまず議論の場に拾える社会システムこそ民主政治の成熟には不可欠です。その政治的判断は個々人の意思の集積なので、だからこそ左派・右派と偏ることなく深遠な知性を養うことが肝要です。

「表現の自由」に限ったことではありませんが、一方が権利を主張する場合、相手方にも権利自由があり得ることを前提に、冷静に分析判断を重ねて解決策・妥結点に導くのは何も法的議論に限らず、人間社会でのスキルとしてその価値はますます大きくなっているでしょう(情報弱者として騙されたり搾取されたりするリスクも極小化します)。


・・と、テレビは持たずウェブ上でも世俗ニュースはチェックしない身ですので (質問を受けたら該当ニュースに目を通す程度で 学術的発表や自然・動物コンテンツだけ見ます)、偉そうなことは言えませんが、将来ある学生さんたちは情報分析の精度を上げる上で(理系志望でも)最低限の法的素養はあった方が良いでしょう、もちろん大学入学後からでも良いですけども。


以上、入門レベルながら法的議論のお話でした。
さすがに長過ぎましたね…最後まで読まれた方
本当にお疲れさまでした。

権利自由といっても優先度合いに差もありますが、
その辺りは現代社会・公民分野の授業で習う(習った)
知識を思い出しながら補強しておいて下さればと思います。



引き続き
実り多き秋の日々をお過ごし下さいね。


posted by laluz at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記