2017年11月18日

「映画」のお話


皆さま、こんにちは。

11月は半ば頃にもう1度記事更新します
と申しておりましたけれど既に18日午後…。

当初予定より遅くなってしまいましたので
16日以降チェックして下さった方には
申し訳なく思います。お待たせしましたが
11月第2回目の更新は、映画論のようなものを。

「名言の英語」でボードレール(baudelaire)を
取り上げる構想でしたが、ちょっとまとまり悪く、
なんとなくピンと来ない出来だったので熟成中です。

もう少し寝かせてみて、読むに耐えられるものに
なれば、改めて載せようかなと思います。


さて、以前にも少し触れたかもしれませんが
映画はそこそこ観る方です。年に100本くらい。
多くはないけど少なくもない…微妙な数ですね。

今までには?と問われたら分かりませんけど
1000本は観ていると思います、ここ4年の
鑑賞リストだけでも400本弱はあったので。

玄人的評価が高いものは一応目を通すように
していますが、逆にあまりメジャーな作品は
観ていないことも多々あります。

というわけで、今回は個人的に良かったと
思う映画を(「ラルースの塔」で取り上げて
問題ない範疇で)
取り挙げてみようと思います。


まずは、無難に数学者を取り上げたものから。


奇蹟がくれた数式(The Man Who Knew Infinity,
 2015年/イギリス)


インドの数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンの
史実に基づいた映画。天才数学者としての苦悩・
差別などにはあまり深く立ち入っていませんが、
(長々描写して冗長になったり退屈になるよりは)
良い意味であっさりとまとまっている良作です。


イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密
(The Imitation Game, 2014年/アメリカ)


第二次世界大戦中にナチスドイツが用いていた
「エニグマ」暗号の解読に取り組み、戦局打開に寄与した
イギリスの暗号解読者アラン・チューリングを描いた映画。
同性愛者としての苦悩も含め、 B・カンバーバッチの
演技は秀逸。TV映画版『ホーキング(2004)』もお薦め。



・・まだまだ沢山ありますが、少しずつテーマを
変えて行くことにしましょう。ほのぼの系で、
あまり有名ではないものを挙げてみますと。


氷の上のふたり (MIDNIGHT SUN,
2014年/カナダ・イタリア)


納屋に迷い込んだ子グマを母グマのもとに帰すため
奮闘する少年のお話。極寒の地の中での温かさが
光るハートウォーミングな作品。映像もキレイで
北極圏での撮影大変だったろうなぁと感心します。
「深み」はないけど、子シロクマが可愛いです。


こねこ (THE KITTEN, 1996年/ロシア)

子猫と家族の触れ合いをハラハラほのぼのと
描いた猫映画。ネコ好きなら観るべきと言われる
隠れた名作ですけど…あまりに名演技過ぎて
過度な演技指導されてなかったか心配なくらい。
(まあネコ好きじゃないとあの映画は撮れないし
 その辺りは大丈夫だと思います)。

主役子猫のチグラーシャが可愛いです。


アップルとわたしのカラフルな世界
(APPLE OF MY EYE, 2017年/アメリカ)


乗馬中の転倒事故で視力を失った少女が、
盲導馬に出会い、新たな人生を歩む姿を描く。
これだけで盛大なネタバレになったような…
それくらい「内容は浅い」のですけど、
ハートウォーミング映画としては良い作品。
盲導馬のアップルが可愛いです。

本当にハンデキャップを負ってしまった方や
ご家族にとっては、そんなに軽いものではない!
と思われるでしょうが…その苦悩を深く描写して
いない点、そこは苦悩を乗り越えて行く過程を
受け手側が加味する必要はもちろんあります。



・・まだまだ枚挙に暇ありませんが、
最後に、ラブストーリー的なものを。


ぼくとアールと彼女のさよなら
(Me and Earl and the Dying Girl,2015年/アメリカ)


映画オタクの男子高校生が余命僅かな同級生女子との
交流を通して成長していくお話(日本未公開?)。
年層によってはおバカな学生ノリは鬱陶しいかも。
学生の皆さんは観る価値があるでしょう。よくある
お涙頂戴的な話ではありませんが、かといって
重すぎず軽すぎず、深いと言えば深い良作。


世界一キライなあなたに(Me Before You,
2015年/アメリカ・イギリス)


障害者の自殺幇助・安楽死を扱った話題作。
ラブストーリーとしても秀逸ですが、幕引きに
ついて賛否両論があったのも理解できます。
アリがちな展開でないのが高評価な点かも?

この映画に限ったことではありませんが
邦題がヒドイことが多々ありまして
この作品も邦題と原題の乖離が激しいです…

「Me Before You」の意味を考えながら
鑑賞されると、より深く考察できるでしょう。


アデライン 100年目の恋
(The Age of Adaline,2015年/アメリカ)


29歳の美しさのまま100年以上生き続けた女性が
真実の愛を見出すまでを描くラブストーリー。

今回取り上げた映画の中では
最も一般受けしやすい映画でしょうか。

数あるラブストーリーの中でも秀作の一つ
に挙げられるものと個人的には思います。



…と、ご紹介に値する作品はまだまだ沢山
ありますけれど、今回はこの辺で。

映画批評ブログではないので…気が向けば
他の作品も挙げてみたいと思います。

(もっと複雑怪奇・難解を極めるような作品も
 脳に有用な範囲で、いつかご紹介できれば)



それでは、久々の月2回目更新でした。
いつもご訪問ありがとうございます!


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2013年11月06日

「 幽玄の花 」


皆さま、こんにちは。

「芸術の秋」という素晴らしい時候、
趣向溢れる催しが各所で在るもので、
先日『後楽能』に 足を運んで参りました。

岡山後楽園・能舞台における毎秋の恒例催事ですが、
金沢兼六園、水戸偕楽園とあわせ「日本三名園」の一で
しとしと雨の降る中の「能」は、趣も深く感じます。


1707年に建てられた能舞台は戦災で焼失しますが、
1958年(昭和33年)に再建され、昭和42年に
見所の栄唱の間などが復元されました。


n0.jpg

能舞台と見所は小庭を挟んだ半屋外と言えるので、
雨が降ると雨ごしに能を鑑賞することとなりますが、

悲しみの演目に際して、天も泣いている如く
気温や天候が 「幽玄の美」に 花を添えてくれます。

…件の 後楽能2013 の演目は、以下の通り。


・能 「鸚鵡小町 杖三段老女ノ舞

 西出明雄(シテ)福王和幸(ワキ)

・狂言「飛越」  茂山茂、田賀屋夙生

・能 「船弁慶 〜前後ノ替〜

 桑田貴志(前シテ)、観世喜正(後シテ)
 桑田潤之介(子方)福王知登(ワキ)、



凡そ 劇・舞台の類は、一期一会の交感であるとしても
その中でも「能」は格別に一期一会の舞台だと思います。

(今回のように雨天での公演と、夏の晴天時では
  響き方も、舞の趣も全く変わってくるでしょう。

 屋内能楽堂であっても基本的に昼夜連続公演など
 繰り返さないのが「能」。散る「花」の意趣を感じます。

 その意味でも、絢爛なミュージカルや 歌舞伎は
 浅学故に未だ「良さ」が分からない感じです…。)



さて「鸚鵡小町(おうむこまち)」は、平安前期
「六歌仙」の一人で才色兼備と名高い小野小町が、
老い落ちぶれて逢坂山の関寺辺りに隠れ暮した…
という謂れを題材にした 能の一つです。

(鸚鵡小町・通(かよい)小町・卒都婆(そとば)小町
 関寺小町・清水小町・草子洗小町・雨乞小町の
 計7曲を指して「七小町」と言われています。)


「鸚鵡小町」は舞われるのが比較的少ない演目ですが、
齢100歳にして老落した小野小町の元に新大納言行家が
陽成天皇の御詠を携え赴き、老小町は「ぞ」一文字のみ
差し替える鸚鵡返しで返歌をした…という内容です。


雲の上は ありし昔にかはらねど 見し玉だれの 内やゆかしき

(宮中は、昔と何ら変わりないけれども、
 以前に見ていた御簾の中が見たいでしょうか?)


雲の上は ありし昔にかはらねど 見し玉だれの 内ぞゆかしき

(宮中は、昔と何ら変わりないけれども、
 以前に見ていた御簾の中が見たいものです。)


疑問の「や」を、強調の「ぞ」に変えて、
「見たいか?」の問いに「見たいです」と答えた次第。

(この「鸚鵡返し」の出典は、『十訓抄』で
 藤原成範(しげのり)が、流罪を許されて
 京都に戻った際、上記返歌をしたという話です。)



「それ 歌は三十一字を連ねてだに 心の足らぬ歌もあるに。
 一字の返歌と申す事。これも狂気の故やらん。」


31文字を連ねてさえ 心を伝えるには足らないことも
多いのに、一文字だけの返歌とは…狂気に落ちた故か?!

…とまで言われますが、その1文字で小町の心は
伝えることが出来てしまう悲哀の心境や如何に。

見たいと言っても、以前の美しさも失われた今では
宮中に戻ることもできずに、在原業平が玉津島明神で
舞った法楽の舞を、華の昔を思い出しつつ舞うのです。

ただ、若さに充ちた美貌はなく老醜化しても、
本来秘めた気品の舞は、幽玄な魅力を放ちます。



和歌の浦 汐満ちくれば 片男波(かたをなみ)
芦辺(あしべ)をさして 田鶴(たづ)鳴き渡る


(万葉集 巻六・919番)山部赤人の歌も引用されますし、
能 というものは知的に面白いことこの上なしです。

2013年は世阿弥生誕650年、観阿弥生誕680年という
節目の年でしたが、この崇高なる芸術・古典芸能は
確かに受け継がれて、本物は残っていくでしょう。


(「船弁慶」は著名な演目なので触れませんけれど。
 退屈な学校教育で古典嫌いに拍車をかけるよりは、
 能の1シーンを映像で観せる方が国益に適う気も…。)



『後楽能』の他、好事家を賑わせているアニメ映画
『(新編)叛逆の物語』を遅ればせながら観ました。

…非常に奥深く考えさせられる良作でした。
じっくり見ないと分からないので、2回3回と
繰り返し観に行かれる方が多いのも納得でしょうか。


一見、可愛らしいアニメ画なので、好きではない方には
全くもって興味の範疇外(或いは嫌悪の対象)でしょうが…
まあ、それは「能楽」についても同じことが言えます。

ただ、どういう表現形態であれ、本質的に深みある
芸術作品には、やはり心動かされるものです。

永遠に連環する悲劇のサイクルから唯一の親友まどかを
救うために果てなく抗うほむら(そして世界そのもの)を
苦しみの螺旋から救うために、全自己を犠牲にして
因果法則そのもの(「円環の理」)となったまどか。

神に近い概念となったまどかが再構築した新世界で
その因果を捻じ曲げるのは、絶望でも希望でもなく
「愛」そのもの。それが「善」か「悪」かは兎も角。


愛する人々を守り、救うために自己を犠牲にした時、
その世界においては自らは従前のようには存在しない」、
それは「本当に自分が望んだ結末」なのか??

まあ、何にせよ我が国では言うまでもなく海外でも
多角的視点で哲学的に解釈・議論されている作品、
現代的文学表現の秀でた在り方の一つと思います。。


世阿弥『風姿花伝(花伝第七・別紙口伝)』に曰く、

「因果の花を知ること 極めなるべし。一切みな因果なり。」

「この道を極め終りて見れば、花とて別にはなきものなり。
 奥義を極めて、よろづにめづらしき理をわれと知る
 ならでは、花はあるべからず。」


能楽論を超えて「人の道」としても含蓄がある書物と
「因果」あるいは「円環の理」などを考えていますと
夏に弛緩しきった知能に冴えが戻りそうな晩秋です。

(…やはり「能」のお話だけにしていた方が
 まとまりが良かった気もしますけれど、
 「因果」で繋がっているということで。)



いよいよ「立冬」です、「寒」さえ慈しまれ、
御心こそ温かくお過ごし下さいますように。

いつも ありがとうございます。



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2013年06月23日

『 火の鳥 』


皆さま、こんにちは。

「夏至」も既に過ぎ去りましたが、日本では
蒸し暑さを増して夏本番を迎える時期ですね?

23日20時32分にsuper moon(超月?)になりました、
次回super moonは2014年8月11日3時頃の予定。


(月は、地球を焦点とする楕円軌道上を動きますが、
地球との距離が最も近い「近地点」で満月となる時
「スーパームーン(super moon)」と言います。(


さて、月だけでなくおよそ地球生命の営みは
果てしなく「太陽の光」に左右されます。

焼けつくような日照りによる猛暑・干ばつだけでなく
磁気嵐・太陽フレアによる現代的影響もありましょう。


その太陽を神格化して敬うのも自然の成り行きです。
古代日本においても「天照大神」を通して太陽を敬い、
万物(八百万?)に対して敬意を払ってきました。



…と(長くなる前に)今回の本題に入りましょうか。

『火の鳥』:手塚治虫が亡くなる前年(1988年)まで約34年に
渡って書き続けられたライフワークと言うべき未完の傑作。


火の鳥は、永遠の命を持つ生命体(宇宙生命の具象)。

太古から超未来へ続く全ての時代を舞台にしながら
人類の興亡を見つめ続けてきた「火の鳥」の視点で、

いつの世でも変わらぬ「人間の生への執着」と
それに関連して起こる「様々な欲」との葛藤、

「限りある命」を精一杯に生きることの尊さ、
連環する生命そのものへの讃歌が壮大に描かれます。


「人間は虫よりも魚よりも 犬や猫や猿よりも長生きだわ。
 その一生のあいだに生きている喜びを見つけられれば、
 それが幸福じゃないの?(黎明編)」


「火の鳥」の血を飲めば、不老不死になれる伝説を
信じて足掻く若者に、火の鳥が語りかけた言葉。

虫たちは人間より短い一生の中で生を全うして死んでいく、
どうして人間は「与えられた今」を満足して生きないのか?

…という『火の鳥』の本質的メッセージの一つです。



「問題は永遠の生命を手に入れて……
 なぜ生きるのかということですよ(復活編)」


2482年、事故死したレオナは最新医療技術によって
脳の半分を人工頭脳にされ(人間的)死から復活します。


医学の進歩により人間の肉体的寿命は延びましたが、
どこまでをもって「治療」というのか??

新しい肉体に「脳」だけ移植して延命させること、
あるいは「記憶」をデータ化してロボット的構造体に
埋め込み、ある意味「記憶」だけで永遠に生きることが
可能になった時、それは「人間」という存在なのか?


「おねがいだ ぼくを人間かロボットか 
 どっちかにはっきりさせてくれっ!」

…とレオナは叫びますが、「なぜ生きるのか?」

それは「有限の生」が与えられた者だけが思う問い、
逆に言えばそれを問えることが「人間」の証明でしょうか。


「虫魚禽獣、死ねばどれもみんなおなじ!人が仏になるなら
 生きとし生けるものはみんな仏だ!(鳳凰編)』


数多くの人々を殺した報いを受けた後に、人の命、
生物の命の大切さに気付く主人公(我王)の言葉。

この「仏」という言葉の内実・定義については
センシティヴな問題ですので(「神」の定義と同じく)

このブログでは深く立ち入りませんけれど、
各々の感性あるいは世界観・宗教観において
じっくり再考されて見るのは有益でしょう。

(考えをまとめたレポートなど提出されるなら
 もちろんコメントを付したいと思います…。)



「なぜ機械のいうことなど聞いたのだ!
 なぜ人間が自分の頭で判断しなかった(未来編)」
 

西暦3404年から始まる「未来編」の世界では、
汚染された地上に住めなくなった人類は地下都市を作り、
コンピューターの計算を「絶対」としていましたが、

ある契機でコンピューターが戦争を決定したため、
3人の人間を残して、人類は滅亡してしまいます。
その生き残った1人、猿田博士の言葉。


計算処理においては現代でも既に、
人間はコンピュータに敵いません。

しかし、客観的データ・表層に現れない要素を
直観的に拾い上げて、臨機応変に微調整していくのは
およそコンピューターでは出来ない複雑な処理です。


「人間は常に合理的判断をするとは限らない」点
まで計算に入れたとしても、個々のミクロ視点と
社会・国家単位のマクロ視点での微調整は至難の業。

(…人間でも出来る人など僅かでしょうけれど)

少なくとも、決断の主体は「自ら」でなければ。
決断は責任を伴いますが、それでこそ「生」に緊張感が。


「今度の人類こそ きっとどこかで間違いに気がついて……
 生命を正しく使ってくれるようになるだろう(未来編)」


「未来編」では、人類は生まれては滅亡するという
サイクルを果てしなく繰り返しますが、その未来編の
最後を締めくくる「火の鳥」の荘厳な願い。

「生命の連環」「輪廻転生」の思想というものは
自身の信念からは相容れない方もおられるとしても、

遍く万物との繋がりを感じ、等しく慈しむことに
特別な障壁があるわけではないでしょう。



・・・と、のんびり書いているうちに
前回更新から10日経過してしまいました、

たった10日しか経っていないことに驚くくらい
有益かつ至高の日々を過ごさせて頂いています。

「与えられた時間を最上に用い、人の生を楽しむ」
これこそが「知力の核」にあるものと思いますが、

自分一人だけが楽しい人生を送るのではなく
自らの周りも健やかに輝かしく過ごせるように
臨機応変に諸事采配するのが「知力」の根幹。


(現在だけでなく、過去、未来の多くの生のために
 真理法則を追究する学問が広く尊ばれる理由も
 ここにありましょう。癌や難病根治の研究など…)


ミクロな視点では我々も不死鳥のように
組織的な死と再生を日々繰り返していますし、

(もちろんマクロな視点でも、人類は世代を
 継いで消滅と再生を繰り返しています。)


「火の鳥」のように雄大かつ優雅に、
 燃え盛る夏の日々を楽しんで参りましょう。


…ちょっとまとまりのない感じですけれど、
さらに長くなりそうなので、今回はこの辺で。

いつもご訪問下さり、ありがとうございます。


posted by laluz at 23:30| Comment(0) | 書物・映画etc..

2012年06月21日

『別れの曲』


皆さま、こんにちは。

「テキスト・書評」ではないのですが、
映画的なものについて書いておきます。

ショパンのエチュード第3番が「別れの曲」と
呼ばれる由来となった映画で、1934年に
ドイツで制作されたこの作品は1935年に
日本でも公開され(フランス語版)話題作となりました。


ショパン生誕200年記念の2010年にDVDとなったので
ご覧になった方もおられると思いますけれど。。

dvd.jpg

原題は「Abschiedswalzer=別れのワルツ」ですが、
公開されたフランス語版では「Chanson de L'adieu」
だったので、邦題は「別れの曲」となり、主題旋律の
エチュード第3番(op.10−3ホ長調)もそのように
呼ばれるようになったそうです。


劇中で流れる旋律はこのようなもの。

 エチュード「別れの曲」Op.10-3
 エチュード「革命」Op.10-12
 エチュード「木枯らし」Op.25-11
 ワルツ No.1「華麗なる大円舞曲」Op.18
 ワルツ No.3「華麗なる円舞曲」Op.34-2
 ワルツ No.5「大円舞曲」Op.42
 ワルツ No.6「小犬のワルツ」Op.64-1
 ワルツ No.7 Op.64-2
 ワルツ No.9「別れのワルツ」Op.69-1
 ワルツ No.13 Op.70-3
 ワルツ No.14 (遺作)
 マズルカ No.5 Op.7-1
 マズルカ No.24 Op.33-3
 ポロネーズ No.6「英雄」Op.53


もちろん この映画は適度に脚色が加えられ
史実と異なる部分も相応にありますが、

劇中で師が 「このような音楽を生み出すには
非常に大きな苦しみか―――大きな愛が必要だ」


…と言うのですけれど、それに尽きると思います。

映画は「別れの曲」を弾きながら幕を閉じますが、

1849年10月17日午前2時、姉たちに看取られて
39歳で天に召されていくことになります。

祖国ポーランドへの愛や、それにまつわる
多くの悲しみをピアノに乗せていったわけですが
人類史に輝く名曲を遺しているのはまさに天才。

ただ、女性の慈愛に支えられたのは確かでしょう。

芸術の分野では特に、女性たちがその天才を
育んでいるようなところは多くありますね。



・・・というわけで、映画「別れの曲」、
ご興味があればご覧になってみては?

(生徒さんで向学・教養のため、購入参考のため
 ということであればお貸ししますけど。)


それでは、今回はこの辺で。

いつもありがとうございます。


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2012年05月02日

「ももたろう」


皆さま、こんにちは。

先日、生徒の子から興味深い質問を受けました。

新中1生で「干支(十干十二支)」を調べている時

「桃太郎のお供はなぜ、猿・雉・犬?
 干支の申・酉・戌と関係ある??」


という質問を。素晴らしい視点ですよね?

この子のお蔭でルービックキューブに興味を持ちましたし、

(その上位版のルービック・リベンジも試しました。
 その辺りの経緯については Rubik's Cube を)

なかなか知的なパスを投げてくれます。

私も幼い頃、疑問に思ったはずなのですが、
そこまで真剣に調べなかったんでしょうね、

というより調べても「詳細は分からない」ので。

とはいえ「自分で少し調べれば分かる問題」を
一々尋ねられるのはどうかと思いますけれど、

自分で調べて分からない難問を教育者に聞く
というのは「学習の根幹」そのものですので、

私も相応の礼をもって応えねばなりません。



そもそも「ももたろう」に限らず、童話・昔話は
神話や古来の風習・伝承をその内奥に隠し持って
いることが往々にしてあります。


時代を経、子供向けにデフォルメされた形象の中に
在るべき姿を再現させるのは至難の業です。

それゆえ「ももたろう」についても各説があり、

桃太郎の誕生に関しても、初期の伝承では
「桃を食べた老夫婦が若返って子供を産んだ」
とする場合が、実際に見られます。。

「桃」というのは古来より仙木・仙果とされ、
邪気を祓い不老長寿を与えるものと珍重されます。

『古事記』においても、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が
桃を投げつけて鬼女「黄泉醜女(よもつしこめ)」を
退散させた、という神話が残されています。


ただ、童話においては「桃から生まれた」方が
「かわいい」ので、それはそれで適切でしょう。

さて、「申・酉・戌」の関連ですが、
ただの「偶然の一致」とは思えません。。

鬼は「鬼門」の方角(北東=丑・寅(ウシトラ))から
来るという訳で、虎柄の衣に、牛の角があったりする
描写に、少なからず反映されているようですが、

その「鬼門」の鬼に対抗して、「裏鬼門」に位置する動物
(申(サル)、酉(キジ)、戌(イヌ))を率いた、
という解釈(曲亭馬琴「燕石雑志」)もあるようです。

しかし、北東=(艮・ウシトラ)の逆の方位に当たるのは、
申、酉、戌ではなく、南西=(坤・ヒツジサル)なので、
この解釈も十分な説得力には欠けるでしょう。


『吉備津神社縁起物語』によると、吉備津彦命が、
犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)、楽々森彦命
(ささもりひこのみこと)、留玉臣命(とめたまおみの
みこと)という三人の家臣と共に、鬼ノ城に住む
「鬼」=温羅(うら)を倒したとされているようです。

この家臣たちの役職はそれぞれ「犬飼部」「猿飼部」
「鳥飼部」であったという一説からすれば、

それぞれの家臣が「犬飼健=犬」「楽々森彦=猿」
「留玉臣= 雉」という親しみやすい形に変容・
伝承していったという解釈は、説得力があります。


しかしながら、「桃太郎」伝承の発祥自体に争いもあり
岡山県以外でも同種の「桃太郎」伝説は残されています。

そうなると「犬飼部」「猿飼部」「鳥飼部」の
解釈も、根拠不十分ということになりましょう…。

この問題は、文化人類学・民俗学・日本神話研究
といった専門的分析が必要な、学術的課題なので、
私が片手間に即答できる性質のものではありません。

とはいえ、色々な解釈や伝承があるということを
改めて学べたというのは何よりの収穫です。


「陰陽五行」からの解釈もあるようですし、
その辺りも教養として深めておこうと思いますね。

興味深い質問をくれる生徒の子たちに
改めて感謝したいと思います。

以上、「テキスト・書評」カテゴリーに相応しいかは
わかりませんが、そんなところで今回は終わりましょう。


いつもありがとうございます。


posted by laluz at 15:00| Comment(0) | 書物・映画etc..

2012年02月15日

『どうぶつ』


皆さま、こんにちは。

今回は、興味深い本を紹介しようと思います。


『どうぶつ ― くらしとかいかた』
(いきもののくらしとかいかたシリーズ3)


animals.jpg

題名が「ひらがな」であるように、
子ども向けの薄い図鑑みたいなものです。

お読みになった方もおられるでしょうが、
個人的にはとても好きな本の一つですね。

半分以上は「冗談」なのかもしれませんが、
家庭では絶対飼育できない動物たちの飼い方
(少なくとも日本においては)を、写真と絵で
真面目に教えてくれるユニークな本です。


例えば、「ぞう」の飼い方のページでは、
ゾウは集団で暮らすので2頭以上で飼うことや、
遊び場にプールを作ると良いというアドバイス、

エサのあげ方や、通路の幅まで、動物園でも
こんなに広くないよね…というスペースで
ゾウを温かく飼育する様子を示してくれます。

他に「きりん」「らいおん」「わに」「ぺんぎん」
などなど、日常的に飼おうかなと思わない動物に
ついて、実際に飼うとしたら注意すべきポイント
などを、分かり易く説明してくれています。。

家庭教師先の生徒の本棚に、この本があったので
懐かしく思いながら読み返しましたが、今読んでも
とてもスケールが大きくなる本でした。。


「日常」に生きるというのは大切ですし、むしろ
「普通に生きる」というのは重要な才能の一つです。

ただ、あまりに日常視点にのみ囚われてしまうと
「創造性」を鈍化させてしまいます。

「非日常」を考え、クリエイティブに想像し、
(それが突拍子もないアイデアだとしても)、

自由に思考の赴くまま創造していくことは
年齢を問わず、大事な時間だと私は感じます。


(あまりに「非日常」の世界に浸り過ぎると
 日常世界に戻れなくなるかもしれませんが)


このような図鑑や本を毎日飽きずに読んで、
動物園や水族館・博物館に行き、絵を描いたり、

いろいろと想像する時間のあった幼少期が
今の「私」を創造したのだと確信します。

(少なくとも「私」はそれに感謝しています。)

特定の世界観に囚われない大きなスケールで
自由に考えていくことは、思考力を伸ばし、
脳力も良い意味で刺激されるからです。


…「動物を飼う」ことの是非という問題は
それはそれでありますが、その問いを含めて
個人的には「興味深い本」だと思いますね。

動物好きの小さなお子様がおられるご家庭では
一緒にお読みになってはいかがでしょう、

自由で楽しくクリエイティブな時間が
親子で得られるかもしれませんよ?



それでは、今回はこの辺で。

いつもご覧下さり、ありがとうございます。



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2012年01月11日

『中国古典の名言録』


「健康面について」の記事更新が少ないので…
ということから「亜鉛」について書きましたが、

「書評」についても全く更新していない点、
そろそろ少し触れておこうと思います。

蔵書は大量に眠っているのですが、ブログに
相応しいテーマかどうかが重要ですので、

何かテーマとなるものはないかと適当に漁って
みたところ、懐かしい本が色々出てきました。

中高生の時に手に取って読んでいるものの、
大して理解できていないであろう本も諸々あり、
読み返してみようと思う好機となりそうです。


その中で中学生の方にも有益だろうと思う
本を少しずつ取り上げていきましょう。


今回は 『中国古典の名言録』守屋洋(著) です。

確か、私が中学1〜2年の頃に買ったもので、
繰り返し読んでいた思い出ある書です。

「論語」などを最初から読むよりは、このような
入門書から入ると分かり易くて良いと思います。

1987年4月6日初版「プレジデント社」発行で
赤い装丁のハードカバー版(284頁)ですが、
今では文庫版が出ているのでしょうか?

内容の同一性までは確認していませんが

第一部 人を制する条件
第二部 自分を生かす智恵
第三部 人を率いる者の心得
第四部 円滑な人間関係学
第五部 成功を呼ぶ秘訣


という流れで、名言を解説してくれます。


その中で、当時から印象に残っていたものを
少しだけ紹介してみますと

「毋意、毋必、毋固、毋我。」 [論語]

=「意なく、必なく、固なく、我なし」


主観だけで判断する、自分の考えを無理に押し通す、
一つの判断に固執する、自分の都合しか考えない
(孔子先生は)これら4つの欠点がない、


と、弟子が述べる部分の言葉です。

柔軟に考えよう!と当時思ったものです。
今どれだけ実践できているかは分かりませんが。


「治大国若烹小鮮」[老子]

=「大国を治むるは小鮮を烹るが若し」


(大国を治めるのは小魚を煮るようなものである。)

例えが面白かったのでよく覚えていますが、
「老子」をちゃんと読むと真意は掴めます。

簡単に言えば、小魚を上手く調理するには
手を加えすぎたら形が崩れてダメであるように
国家統治も手を加えすぎてはダメだということです。

政治思想でいうところのリバタリアニズム
(libertarianism:完全自由主義=国家による規制は
最小限に留め、市場での自由取引に委ねるのが最も
良いとするイデオロギー)に近いようながらも、

老子は根底に「道」の思想があるので
総体的には異なってくるでしょうね。

…と、政治論については今回深入りしません。



「過而不改、是謂過矣」[論語]

=過ちて改めざる、これを過ち(あやまち)と謂う。


これについては現代語訳は不要でしょう。

失敗するのは過ちではなく、それを修正せず
次に活かそうとしない姿勢が「過ち」なのだ
というのは、すごく印象に残ったものでした。

生涯が「勉強」と思いますが、自己修正を
繰り返していくことに果てはないでしょう。

ただ、修正をしないまま無為に過ごすなら
その人は「過去」に生きたままかもしれません。

過ちを克服するからこそ次に進めるという意味で。



「不憤不啓、不悱不発、挙一隅而示之、
 不以三隅反、則吾不復也。」[論語]

=「憤(ふん)せずんば啓せず。非(ひ)せずんば発せず。
 一隅を挙げてこれに示し、三隅を以て反えらざれば、
 則ち復たせざるなり。」


「自分で悩み、考えない者にはヒントを与えない。
 自分の頭にある考えを何と表現したら良いか解らない
 という状況でなければ助け舟も出さない。
 一を教えたら三倍の答えや疑問を返してくる、
 そのようでなければ再び指導することはない。」


これが、孔子の指導方針だったようです。

この「啓発」という言葉も氾濫していますが
自分で考え抜くことが根底になければなりません。


私も、先取りで進めている子には「不憤不啓、不悱不発」で
接していますが「挙一隅而示之、不以三隅反、則吾不復也。」
というスタイルはさすがに厳し過ぎるでしょうね。

ただ、一を教えたら二倍の答えや疑問を返してくる
ことも多いので、それはそれで嬉しく思います。


…と、書評というより「漢文の名言」
という感じになってしまいましたね。。

「英語で名言」だけでなく「古文漢文の名言」と
いうテーマもいずれ書いていくでしょうけれど。

というわけで、まとまりに欠けますが、
今回はこの辺で終わりとしましょう。


posted by laluz at 14:00| Comment(0) | 書物・映画etc..