2011年12月05日

暗算について(初級編)


計算能力と、数学的発想は必ずしも一致しませんが
受験数学(算数)においては計算力は大きく関わってきます。

解法につながる発想は良くても計算ミスをしては
せいぜい部分点にしかならないからです。

計算スピードが速いと解答時間の節約にもなり
結果として思考時間を十分取ることにつながります。



(東大理系数学の解答時間は150分ですが、時間が余る
 受験生は通常いません、完答できないのが普通です)


難関中学の受験算数の方が厳しい制限時間でしょう、、
そこでも計算の正確性とスピードは大きな武器となります。

今までの教え子でも、珠算の段位を持っている場合は
計算・暗算スピードがやはり速かったですね
(発想力も伴うとは限りませんでしたが)。

実際、計算トレーニングは年代を問わず、
「脳のストレッチ運動」のように有益なものです。


ということで、今回は「暗算」について
ちょっと取り上げてみようと思います。

「暗算」についての「脳力」的位置づけについては
今回は置いておくとして、私自身も用いている
「誰でも使える計算の工夫」などを書いておきます。

ご存知の方も多いでしょうが、知らない人には有用な
テクニックとして「2桁の2乗」の計算法があります。

たとえば、65 の2乗(65 × 65)の場合は

6×(6 + 1)=42 と (5×5)=25 を引っ付けた 4225 です。

あえて文章で説明すれば、一の位が5の整数の場合…

一方の十の位と、その十の位に+1した数をそれぞれ
掛け(65 だから「6」と+1した「7」をかける)、
下2ケタに(5×5)=25をつけた数が答えになります。


「75」の2乗なら、7×(7+1)と(5×5)→ 5625 ですし、

「25」の2乗なら、2×(2+1)と(5×5)→ 625 ですね。

そして、この方法が「便利」なのは、「1の位」
同士の和が10になる場合も使えることです。
(ただし、十の位は同じである必要があります)

たとえば、48×42 は

4×(4+1)と(8×2)なので 2016 になります。


要するに、前半の計算は一の位が5の場合と同じで
後半部分だけ、一の位同士を掛けたものを付け足す
というように変わったわけですね。

同様にして、

「89×81」なら、8×(8+1)と(9×1)で 7209 ですし、

「27×23」なら、2×(2+1)と(7×3)で 621 です。

「27×23」については因数分解の公式に当てはめて
(25+2)(25-2)=625-4=621 としても良いですね。


上記の他、たとえば 53の2乗(53 × 53)の場合は
少しコツが必要ですが、次のようになります。
(基本は「一の位が5の場合」と同じです)

一方の数字に下1ケタの数字「3」を移して、それぞれ掛けます
(53+3) × (53-3) = 56 × 50 = 2800

この2800に移動した「3」の2乗=9を足して、
53×53 の答えは「2809」になるわけですね。


ちょっと練習してみましょう。

33 の2乗については 1089 となります。

(33+3) × (33-3) = 36×30= 1080
1080 + (3×3)= 1089


67 の2乗については 4489 となりますね。

(67+7) × (67-7) = 74×60= 4440
4440 + (7×7)= 4489

上記にあてはまらない場合、たとえば52×56 などは
上記方法では解けません(因数分解を使えば可能です)が
複雑すぎると「筆算の方が速い」ので不要でしょう。

ただ、2乗の計算場面は意外と多いので、
上記だけでも受験上は便利に使えますよ。


あと、ちょっとした脳ストレッチもあるのですが…
予想外に長くなったので、また改めてにしましょう。。

それでは、今回はこの辺で。


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2011年11月28日

「約束」について


今回は「約束」について考えてみます。

英語で「約束」とは、a promise; one's word;
an engagement という形で表現することができます。

日本語の「約束」は「相手との取り決め」という意味合いが
強くありますが、promise は「こうする」という自分の誓い
・宣言の意味合いが強いと言えるでしょうか。

「約束を守る」というのは、相手のためというよりは
第1義的には「自分のため」であるべきです。

端的に言えば、「自分の発した言葉について、言葉の
発信元としての責任を負う」という一点に尽きると
私は思います。


「〜をする」と宣言した以上、必ず実行する必要があります。

「相手との約束というより、自分との約束」であって
自分が発した言葉を軽く扱わず「荘厳なもの」として
(いわば「天が発した言葉」のように)扱うことです。


自分の発した言葉を、ころころ覆したり「軽く」扱う者は
その「言葉の力・信念の力」も軽いモノとなります。

しかし、「自分の言葉」に信念を持ち、敬意を払う者は
その「言葉」に大きな力が宿るようになります。

どんな小さな約束でも大切に扱ってきた人、やると決めた
ことを確実に実行してきた人が、「これをする!」と言えば
その人の言葉が今まで必ず実行されてきたのと同じように、
「それは実行される」でしょう。

「運も実力のうち」と言われますが、その運は
今までの「言葉の信用力」によるものと私は思います。
(その意味でまさしく「実力」のうちですよね)


小さなことでも軽んじることなく、自分が「する」と
言ったことは必ず実行するように行動していけば、
その人の「言葉の信用力」は確実に高まっていきます。

「大事の前に小事は捨て置かねばならない」と
言われることもありますが、大抵は意味のはき違えです。
小事さえ出来ぬ者に大事をなすこと能わずでしょう。

私の生徒でも「必ずやる」と言って確実に
実行してくる者は間違いなく優秀です。

相手のためだから行うのではなく、自分の言葉を
「貴いもの」として大切に扱うことが肝要で、
それが自然と周囲からの信用にもつながります。

そして、自分が「大丈夫」と言えば
大抵のことは「実際に大丈夫」になります。

自分の持つ「大きな力」を磨くには
自分の言葉を「大きなもの」と扱うことです。



…それでは、今回はこの辺で。


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2011年11月15日

Moon Illusion



「月(moon)」は今も昔も人の心に住んできました。

絵画や音楽、詩(和歌)など芸術・文学において
「月」は頻繁に登場してきます。


身近な存在である「月」ですが、皆さまは
「月」が大きかったり、小さかったりすると
感じたことはないでしょうか…?

「月」は近付いたり遠ざかったりするとか??


確かに、地球と月の距離(約38万km)は多少前後するものの
影響があるほど大幅に遠近移動するわけではありません。

月の大きさ(直径約3,475km)も当然一定です。


これは「不思議と」大きさが変わって見えるのですね、

月の大きさが、地平線や水平線近くにある時の方が
空高くある時に比べて大きく見えるのは錯覚なのです、

これを「月の錯視(Moon Illusion)」といいます。



月の見かけ上の大きさ(視直径)は「腕を伸ばして
持った五円玉の穴の大きさとほぼ同じである」と
中学受験で習った人もいるでしょう。

私も何回かその「知識」を教えましたが、
感覚的にはなかなか納得できないようです。。
(実際に確認してみればそうなのですけど)

このような「月の錯視」を例に出すまでもなく
「錯視」というものは皆さんご存知でしょう。

例えば、

(1)ツェルナー錯視

(2)エビングハウス錯視

(3)Kanizsatriangle

この辺りは有名なので、ご存知でしょう。

(1)はどの直線も平行なのに、歪んで見えますし
(2)は、内側の円は同じ大きさなのに右の方が小さく見えます。
(3)は、実際は存在しない三角形を、脳が勝手に見てしまいます。


このように「目の錯覚」で「本当は存在していないもの」を
「あると思って見てしまう」ことが人間には多くあります。

この「錯視」は文化的要因も大きく左右しますが
視覚野だけでなく「知覚による誤認」があるというのは
前提として計算に入れておく必要があります。

(裁判などにおける証人の証言も「誤認」の可能性が
 少なからずありますし、検証もされています)


我々が「見ている」と思っても見ていないものは
多くありますし、その逆もよくあります。

「自分の脳力」を最大限信頼することは前提ですが、
間違わないよう入力補正していく意識も不可欠です。



ただ、誤認の方が微笑ましい場合もあります。

The road will be repaired by noon.

(その道路は正午までには修復されるでしょう。)

を 「その道路は月によって修復されるでしょう。」

と答えてくれた子がいましたが、とても幻想的です。

The road will be repaired by Moon.

noon と Moon の誤認ですが、美しい誤認ですよね?

「月の錯視」も数千年前から知られているようですが
これも美しい誤認の一つと言えるかもしれません。



それでは、今回はこの辺で。


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2011年11月08日

「意識した睡眠」


「睡眠」というのは不思議な現象です。

(幼い私が「食事」に疑問を持ったように
「睡眠」というものにも疑問を持ちました。)


「先生はどれくらい寝ているのですか?」とか
「ベストな睡眠時間はどれくらいでしょう?」
という質問を受けるのも当然かもしれません。

食事については以前に軽くお話ししましたので
今回は「睡眠」について考えてみます。

「睡眠」の科学メカニズムなどについては
まだまだ十分に分かっていないと言える現状、
専門的解説は研究者の方々のページに委ねるとして


「睡眠との付き合い方」は千差万別です。

「ベストな睡眠時間はどれくらいでしょう?」
と言われれば、3時間睡眠でも8時間睡眠でも
自分が丁度よいと思う時間がベストと感じますね。


食事回数と一緒で、画一的基準はないと思います。
(もっともらしい説は多々ありますが)

ただ、忙しい生活になればなるほど睡眠時間の
優先順位は低くなっていくのは現代の必定です。

仮に1日8時間を睡眠に費やせば、1日の3分の1を
睡眠時間に取られ、いわば人生の3分の1を眠りで
過ごすなんてムダ過ぎる!という考えも分かります。

有限な人生なのにもっと有意義に過ごさないと…
出来る限り短眠で過ごせないか…と考えるのは
極力食事をしない方が不老には良いと思うことと
本質的には同じように映るかもしれません。


ただ、結論から言えば私はそう思いません。

食事を少なくするのは消化器官への負担を極力
軽くするという観点から実践しているのに対して、
睡眠を少なくするのは必ずしも身体器官の負担を
軽くすると言えないからです。


むしろ感覚器官や免疫システムの修復が小さくなり
身体的負担は大きくなることが多いでしょう。

そもそも「睡眠時間」はムダな時間ではありません。

「覚醒時間」と同等以上に有意義な時間であるという
認識からスタートするか否かの違いと感じます。


例えば、車や飛行機などの動力機械について
定期的に点検整備・修復する場合と、長時間
休みなしに修復さえしない場合とでは、どちらが
「長期間安定的」に動くことができるでしょう?

「万物」は「静」と「動」の精妙なバランスで
成り立っていると構成することもできますが、

「睡眠」と「覚醒」もバランスこそ肝要と思います。

「覚醒時」には覚醒時にしかできないことをし、
「睡眠時」には睡眠時にしかできないことをする。


覚醒時で疲労した部分を睡眠時で修復する、
覚醒時に大量吸引したウイルスなどを睡眠時に
体内で浄化していくという回復機能はもとより、

覚醒時にはどうしても「既成概念社会」の中で
思考行動することが多い点(これはこれで必要です)、
睡眠時は既成概念や固定観念を超えた創造的思考
(いわゆる「夢」ですね)を行うことで、独創的な
インスピレーションを得られる時間となります。


「睡眠」は削るべきムダな時間だと思わずに
「意識して有効な睡眠時間とする」ことが
「脳力」においても最重要な要素なのです。

例えば、「ダラダラと暇だから寝る」ことや
「睡眠時間は惜しいけど、仕方なく寝る」よりは、

一日を振り返り、様々な出来事に感謝しつつ、
また覚醒時を支えてくれた諸器官を労わりながら
睡眠時の回復システムに「回復をお願いする」、

このような意識で眠りを楽しむならば、睡眠は
覚醒時と同等それ以上に有益となるでしょう。


睡眠時間を削ってムリをし、その結果風邪で寝込んだり
急遽入院で病床に伏せるというのは、私としては
あまり楽しい「睡眠時間」には見えません。

人生の3分の1を睡眠だなんて勿体ない!と言いつつ
疾病リスクを負うのは…浅学の私には理解不能です。
(もちろん病床でしか得られない何かもありますが)


睡眠時間の「質」を高めるというのは、人生の質を
高めることと同義だという意識で、忙しい中だからこそ
睡眠できることに感謝することが大切だと思います。


(不眠症の方にもアドバイス差し上げたいですが
 またそのうち機会があれば…)


なんとなく眠ってきた方々は「睡眠時にすること・
できること」を考えてみてはいかがでしょうか、
そうすると睡眠中にも進化していくことでしょう。

最後に質問の答えですが、私の睡眠時間は不規則です、
寝たい時に寝て、覚醒モードの時はそのまま集中です。


それでは、また明日に。

学生さんも社会人の方も
休む時はしっかり休んで下さいね。


posted by laluz at 17:00| Comment(0) | 「脳」の使い方

2011年11月04日

人に「教える」


人間は「分かった気になっている」だけの
ことが往々にあります(私も例外ではなく)。

学問・勉強のみならず、対人関係などでも
「自分は分かっている」つもりの結果から
問題が生じ、また問題解決を遅らせることは
古来より人間社会でみられる現象です。


本当に理解していれば「誤る」ことがないはず
なのです(「理解」には何年もかかりますけど)。


確かに「失敗」は成功への下地です。
「失敗」しない人間はいないでしょう。

ここで言いたいのは「失敗内容」です。

安易に理解したつもりにならず、慎重に
目算に誤りがないか再考した結果「失敗」
したなら、その者はさらに修正を加えて
必ず目的を達成していくでしょう。


これに対して「分かったつもり」になって
細部を検討することもなく、その状況に
おいても正しく適用されるか考えないまま
安易に事を進めていった結果の「失敗」は?

後者は「失敗」ではないと私は思います。
ただの愚行・愚策に過ぎません。

分かった気にならず「本質を有機的に探究する」
意識を持つことが、知者への道なのでしょう。


さて、分かった気にならないために「教えている」
わけではないのですが、「人に教える」という
行為は、非常に「良い影響」を与えてくれます。

生徒やご父兄・知人・一般の方からの質問など
自分の視点からは思いもしない疑問について
興味深く考察するきっかけとなります。

また、生徒に教えている最中で、自分自身も
その本質を再発見して、奥深さを感じることも
多いものです。その時ごとに「理解」に近づいて
いるように思い、感謝するばかりです。


…と、ここで時間切れです。。

中途半端ですが、今回はこの辺で。

(16時半から24時まで授業ですので、
 そのあと少し加筆するかもです。。)


【追記】

上記の後、「人に教える」つもりで勉強するのは
分かった気にならず有効ですよ、ということが
言いたかったわけなのです。

私の生徒にも、学校授業は退屈だから半分寝てる
という子は少なからずいますが(成績は優秀です)、

「授業を聴く側」ではなく「授業する側」と思い
「自分ならどう教えるか?」という意識で
授業全体を観察することを勧めています。


「この説明はこうした方が皆は分かり易いかも」
とか、そういう意識で「自分で教える」時間を
過ごすと退屈ではなくなるかもしれません。

「自分で分かる」のと「分からせる」のでは
その難しさが全く違いますので、学校先生方の
ご苦労にも多少は共感できることでしょう。


もちろん、自分の脳内で今までの復習をしたり、
アイデアを創造する時間に徹しても良いですけど
教えるつもりで本質を再考するのも有益ですよ。


というわけで、多くの方々に読んで頂く価値があるか
分かりませんが、いつもありがとうございます。

それでは、また月曜にお会いしましょう。
有意義な週末をお過ごし下さい。



posted by laluz at 16:00| Comment(0) | 「脳」の使い方

2011年10月18日

「美しい」ノート?


9月15日の記事「引き出すことを考えて収納する」で
「脳内の記憶倉庫を整理するためのメモですから
一冊に集約されていることが望ましい」と述べました。

「まだまだ注意事項や応用トレーニングなど書くべき
ことは膨大にありますが」と言っていたせいか、
いくつか質問もありました。その中で、

『東大合格生のノートはかならず美しい』という
書籍ノートが一時期に話題となっていましたが
あれは本当ですか?


…という質問は興味深かったので、取り上げてみます。


結論から言えば、「かならず美しい」とは
限らないでしょう、大方の予想通り。。

大学入学後、試験対策プリントを分担で作るような
場合は、確かに自分の担当部分は丁寧に書きます。

コピーして皆が読むので分かりやすく書く方が
良いに決まっていますし、知的プライドもあります。


しかし、他人が読むことを想定していない
「自分だけのノート」の場合、美しいノートを
取る人の方が少ないような気もします。。

ノートを取らないタイプの場合は、検証すべきノートが
そもそも手元にないわけで、集まったものから判断すれば
確率的に「美しいノートが多い」とも言えますし…。


別に批判する意図は全くなく、何が言いたいかといえば

「じゃあ、見出しをつけてキレイなノートを取らないと!」
と、形式にこだわる必要はないということです。

ある人にとって最高の戦略でも、全ての人にとって
最高・最適かと言えば、そうとも限りませんよね?


実際、私は科目ノートを作らず、弱点ポイントのみ
簡単に記していく「要点メモ」を使いましたが、
全ての人にそれが最適とは言えないはずです。


『東大合格者ならば、そのノートはかならず美しい』
この命題が仮に成り立つとしても、その逆、

『美しいノートであるならば、その人は東大合格者だ』
が、必ずしも成り立たないのは明らかでしょう?


メモ・ノートの「取り方」がこそ重要であって
自分が分かれば「様式の美」は問題ないと思います。


ポイントは「ノートを取る意味」を考えることです。

「ノートを取る意味を考えること」が
「勉強」に他ならないのですね、究極的に。

重要部分はどこか、理解している事項でも以前の分野と
新たに関連付けられるアイデアが得られた場合は
そのようにノートする、その熟考こそが勉強です。

考えないままノートするのは「作業」であって
本当の意味での「勉強」ではありません。


勉強に時間をかけているつもりでも、本質的な勉強に
なっていないなら「時間の割に効果が出ない」のは
当然の帰結です。


「どのようなノートが理想的ですか?」
その明確な答えはありません。

「自分が覚えやすいように」という意識の下で
試行錯誤あるのみですし、その試行錯誤こそが
「脳力」を高めていく重要な過程です。


思考傾向は、その人自身にしか分からないのですから。
(というより「そうでなければなりません」)。

特に数学や理科の場合、単純計算ミスや書き間違い
以外は、消しゴムを使わない方がいいでしょう、

自分の間違いを残すのが「ノート」なのですから、
「正解を書く」ことにあまり意味はありません。


英語・国語も同様です。どこをどう間違えたか、
間違えやすいかを後々のために残すのがノートの役目です。

その意味では、訂正ペンが入って、汚くなっている
ノートであればあるほど「良いノート」と思います。



中間考査が終わった人も、これからの人も復習だけは
しっかりして、解き直せば95点〜100点を取れるように
基礎の定着を確実に図っていきましょう。

いつも1位の人も油断せずに
更なる高み(全国1位)を目指して下さいね。


それでは、今回はこの辺で。


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2011年10月17日

「時間」と遊ぶ


「時」という概念は、不思議なものですね。

星々の周期というところから「暦」を造り上げて
(マヤ暦などはその最たるものですが)

社会の営みと共に有り続けています。


ただ、「時」というものを介して「大きなリズム」に
思いを馳せられる時代ではないのが現代です。

試験までの「時間」、締切までの「時間」など
「間に合う・間に合わない」の感覚で「時」に
人間が翻弄されているような時代です。


かくいう私も、東京在住時は「本当に忙しい」生活を
送っていましたので、それはそれで楽しい面もあります。

ただ、時間に急かされるのではなく、のんびり時間と
遊んでみる生活は、より楽しいものです。

私の家には「正確な時計」というものがありません。

時計はありますが、「どれもが狂っていて」
本当の時間はいつなのか分かりません。

「目覚まし時計」というものもありません。


要するに、私の家は「時が休んでいる」ように
「のんびりした時空間」となっています。

ここで何を言いたいかと申せば、「時間」という
ものは「自分がたずなを握るもの」だということです。


何時に起きよと脳に命じれば、時計に頼らなくても
正確に起きられるようになりますし、5分という長さを
体内時計で正確に計れるか「時計」と競争してみるのも
脳にとっては面白いゲームになります。

人生の趣は「自分で日々の86,400秒をどう使うか」
「それらの時間とどんな感じで楽しむか」と思います。


課題や勉強も「〜しないと」ではなく「〜したい」
という意識で、過度に時間にとらわれずに
今週も日々楽しんでいかれますように。


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