2012年04月18日

「見えざる手」


皆さま、こんにちは。

最近、更新内容が疎かになっていますが…
多くの方々にご覧頂いているようで光栄です。

読者層が広いというのは嬉しい反面で、
記事内容に焦点が定まらず散漫になりやすい
というジレンマもありますが、良い意味で
好きなように書いていこうと思います。


さて、「頭が良くなる方法」という検索結果から
「「頭が良くなる方法」は存在するか?」
の記事に辿り着いてしまう場合も少なくない
ようですが、大したことは書いていませんので…

ただ、「思考を柔らかくする」というのは
とても大切であるのは間違いありません。

肉体でもそうですが、凝り固まった状態では
物事に対して臨機応変に対応できません。

固いままの粘土では上手く造形できないように
水を加えたり、よく練って柔軟にして初めて
創造的な造形に変えていくことができます。


「イメージトレーニング」の記事で、続きを
書こうと思ったまま放置していましたが、
「見えざる手」のイメージはなかなか有効です。

別に「オカルト・霊的なもの」でもありませんし、
あるいは「神の見えざる手」でもありません、
私が勝手にそう命名しているだけですが、

仮想的に作り出した「見えない手」の利用です。

例えば、血液の流れが良好か否かは健康に大きな
影響を及ぼしますが、肩こりや倦怠感がひどい状態
では、脳のパフォーマンスも低下するでしょう。

自分でマッサージや血流を意識した姿勢をとることで、
軽微な問題はおおよそ回避・改善できます。

もちろん自分の「見える手」でマッサージなど
行なってもいいわけですが、「見えない手」で
行う方が、脳への創造的刺激にもなります。

見えない手があると思って、肩でも顔でも脚でも
柔らかにマッサージするイメージを持ちます。


(その時、見える手は動かさないで。)

慣れるまでは、見えない手の感覚が分かりませんが
最初は「そんなつもり」で構いません。

柔らかくほぐれていっているイメージで。

肩やふくらはぎなど外部マッサージができるように
なれば、見える手では不可能な箇所、例えば
体内の血管や脳などについても柔らかに
マッサージしているようにイメージします。


確かに「科学的」ではないでしょうが、
確かな「効果」はあることと感じますね。

(少なくとも、不利益・害は何もありませんし。)

単に「血流が良くなっているイメージ」を持つ
だけでも十分ですし、あえて「見えない手」など
クレイジーな思考を取らなくてもいいとは思います。

脳に対して変化球を与えるという意味合いですが、
いつもと違う思考をするのは脳にとって何よりの
栄養となるので、思考実験としては悪くないでしょう。


バカバカしいと思って試みないのが正常でしょうが
このブログを読まれている皆さまは良くも悪くも
非凡・特異な方々でしょうから、春の一興として
緩やかに試みられてはいかがでしょう?


それでは、今回はこの辺で。。


posted by laluz at 16:00| Comment(0) | 「脳」の使い方

2012年03月12日

believe that you've received it,


皆さま、こんばんは。

今日もずいぶん遅くなってしまいました。。
ですので、簡単に一言だけ。


ウェブサイトで「座右の銘」として

Whatever you ask for in prayer,
believe that you've received it,
and it'll be yours.


という言葉を記しています。

クリスチャンではありませんが(以前にも述べた通り
そもそも特定の教義・宗派に帰属していません)

この言葉は真理を秘めているので銘記しています。

「祈り求めるものは全て、既に受けとっていると信じなさい。
そうすれば、そのとおりになるだろう。 」


とてもシンプルな理です。それが実現する仕組みを
問うのは難しいですし、解釈も様々ですけれど、

一々CPUの構造を物理学的に把握していなければ
パソコンが扱えないわけではないのと同じです。

その「詳しい仕組み」はともかく置いておいて
「実現したいものを現実化する」こと自体は
シンプルに実行すればよいかなと思います。


車に乗る練習をする前に、自動車の構造を
工学的に分析するのは悪いことではないですけど、

まず乗れるようになるためには、その仕組みは
前提条件として受け入れてしまうことが近道です。

十分に乗りこなせるようになってから
その「仕組み」を深く理解していけば良いわけで。


…と、婉曲的表現に終始してしまいましたが、

万人に利用可能な「智慧」の一つと
個人的には思っています。

それでは、今回はこの辺で。。


posted by laluz at 23:55| Comment(0) | 「脳」の使い方

2012年01月30日

Image-training


皆さま、こんにちは。

多くの方々に日々ご訪問頂き、
いつも嬉しく感じています。

(更新しない日もご訪問下さる方が多いので、
 土曜日くらい更新した方が良いかなと
 思ってしまうくらいです。)


今日はお昼から授業があったので更新遅れましたが
(本日、高校入試がある私立高も複数あったようで)

今回はイメージトレーニングについて
ご一緒に考えてみましょう。

三省堂『大辞林』では・・・

イメージ-トレーニング (image training)
「実際に体を動かさずにイメージを思い描くことによって
 スポーツの技術や戦術を習熟させるトレーニング方法。」


・・・と書かれています。

これだけ読んで、イメージトレーニングのことを
理解して、実践できる人はいないでしょうね…。

イメージトレーニングを効率実践している人が
読めば「その通りですね」と言えるとしても。

ただ、イメージトレーニングを行えるかどうかは
人生の「時間」を効率的に使えるかどうかを
大きく左右すると個人的には思います。


このブログでも触れていますが、
人間は基本的に「怠け者」です、

私も例外ではなく(むしろ平均以上に)
怠惰な傾向を併せ持っています。

数時間かかる作業なら、如何に短縮するか、
面倒なことなら如何にショートカットするか、
ということを、前提として必ず考えます。

浮いた時間は、のんびりしたいので。。


その結果、行き着いたのが「イメージ
トレーニングの徹底的活用」です。


「実際に体を動かさずに」イメージを思い描く
ことによって、技術や戦術を習熟させること、

もっと言えば目的を達成することが出来れば
「とっても効率的」ですよね?

例えば、運動不足になるから「適度に運動した方が
健康に良い」という意見は理に適っています。

ただ、ウォーキングとかジム通いとか
面倒なのでなかなか継続できないものです。

人間は基本的に「楽をしたい」からです。
(その性質があるから科学は発展したわけで)


じゃあ、イメージトレーニングで運動すれば…
身体にそうイメージさせれば良いだけでは?
と考えてしまえば、どうでしょう。

慣れるまでには「コツ」が必要ですが、
まさに運動しているようにイメージするのです。

周りの風景や空気の感触、匂い、筋肉の動きなど
イメージが具体的であればあるほど効果的です。

適切に行えるようになれば、実際の効果と
遜色ないどころか、より実効的とさえなります。

(実際の運動だと怪我のリスクもありますし、
 イヤイヤ行っていると逆効果でもあります。

 この私は、運動という運動をしていませんが、
 イメージトレーニング運動(?)のお蔭で
 腹筋は変わらず割れていますし、筋肉も
 恥ずかしくない程度には維持しています。。)


もちろん、楽しんで運動・スポーツを行うのは
言うまでもなく素晴らしいことと思います。

(あくまで嫌々行うくらいならイメージ
 トレーニングの方が良いという趣旨です)



さて、運動だけでなく学習・知能面においても
イメージトレーニングの効果はあります。

学習面については身体を動かすよりはそもそも
思考を動かす領域であるところ、その思考過程
自体は変わらずショートカットできないため、、

運動や身体機能の強化ほどの「圧倒的効果」は
期待できないかもしれませんが。。


ちゃんと解けた時のイメージを、脳内で反復
させることで、解いていく感覚が定着していきます。

イメージトレーニングというよりは
メンタルトレーニングというべきものですが、

解けているイメージ・成功イメージを反芻することで
思考に望ましい基本型を浸透させていくわけです。


これは全ての分野に適用できます、

健康や学習面など文字通り全てに。


具体的には・・・というところまで
簡単に触れておきたかったですが、

残念ながら今回は時間切れです、

また日を改めてご紹介しますね。。

(明日は「1月の終わり」なので)



posted by laluz at 17:00| Comment(0) | 「脳」の使い方

2012年01月12日

「百聞不如一見」


「百聞は一見に如かず」(ひゃくぶんはいっけんにしかず)

人から話を聞くことは、自分の目で実際に
見ることには及ばない、という意味ですね。

『漢書・趙充国伝』に「百聞は一見に如かず。
兵はるかに度(はか)り難し。臣願わくは馳せて
金城に至り、図して方略を上(たてまつ)らん」

(自ら金城に馳せ、戦局・兵力をこの目で
 把握してから戦略を奉りましょう)
 

とある故事からとされています。

これはどのような場合にでも当てはまるでしょう。

「見」という意味合いを拡大していけば
「学問」全てに言うことができると思います。

学校等で説明を何回も聞くだけに比べて、
問題の本質を「自分で見る」ことができれば
より鮮明に分かるようになるのと同じです。

勉強・学問でも「聞いただけ」では
理解できていないことが多いものです。

「知っている」のと「理解している」のとは違います。

本質が「見えている」ことが伴っていないと
「理解している」とは言えないでしょう。


例えば、「ゾウ」というものについて話を聞いたり
図鑑でみただけでは「理解している」とはいえませんね。

実際に見て、触り、臭いや声を感じるという体験が
あって、少しずつ「理解」に近づいていきます。

(「本当の理解」に至るにはゾウの研究者として
 生態観察しながら何十年もかかるでしょうけど)


我々は「知っている」ことは多いですが、
それを「理解している」とは限らないという点
常に意識しておく必要があります。

むしろ分かっていないことだらけです。


自動車の仕組みを分かっていなくても運転はできますし、
人体メカニズムを理解していなくても生きていけます。
(それで「存分に生きている」かは別としても)

ただ、新しい物事を思索し創造していく者は
先入観に囚われず、本当にその理解で正しいのか
という問題意識を常に持っていなければなりません。


知能テストや、難関入試の問題というものを
この視点から逆算してみると、非常にシンプルな
原理で創られていることが多いものです。

(1)一般的定理・原則の理解を最初に問う、

(2)次にその知識・原則を具体的に適用できるかを問う、

(3)本題として、一般的な適用・通常の考え方では
   不都合が生じる場合の解決策について問う


芸術・音楽といった実技的試験は別としても
知能や学力を問う形式のテストではまず間違いなく
上記のような段階で被験者を試します。

(1)だけ、あるいは(2)までというのは
理解定着度を試すもので、学校テストは大体
そうなっているはずです。

学校定期テストでは好成績だけど、模試や過去問では…
という人は(3)の勉強が不足しているかもしれません。

ただ、難関校の入試でも部分点に分かれていて
(1)(2)が解ければ合格点が付くことも多く
(3)まで十分に押さえ切れなくても受かります。

そういう意味で「受験生の質が下がっている」と
嘆かれる要因となっているでしょうけれど、

本題としては独自的解決能力・発想力を試したい
というのが出題者としての本音であります。


知能診断などではそれが顕著で、最初は皆が分かる
一般的法則を問うてきますが、徐々に応用力が問われ、

最終的には「そもそもの問題の所在を見つけ出し、
その法則を整理して、解決策を自分で考え出すこと」
という知的能力が問われることになります。


大学入試・大学院入試の小論文でも同様です。

出題者が「どの階層で、聞いてきているのか?」
「どの当たりの能力を試したいのか?」を先読みし
それに合わせた解答をすることができれば、
ペーパーテストでは百戦危うからずです。


…と、ちょっと脱線しましたが、

「一見」という意味を深く捉えてみると、
ただ「聞いて知っている」だけで実際は
「本質を見ていない」ことが多いものです。

だからこそ、学力試験etc.というものは
その本質の理解を問いたいわけですね、


本質を見たことがありますか?
本質を見ようとしていますか?

という問いを意識した日々の研鑽こそが
深みのある知力に導いてくれます。


目標や志望校というのは、その過程で
必然的に通過できることと思います。


それでは、今回はこの辺で。

ご訪問下さり、ありがとうございます。


posted by laluz at 15:00| Comment(0) | 「脳」の使い方

2011年12月20日

「ジグソーパズル」


昨日も書きましたが、最近ご訪問下さる方が
増えているようで、光栄に思います。

(ブログランキングなどに登録していないので
 偶然訪れて下さった方が多いはずですが)


基本的に月〜金曜の更新としていますので、
土・日にチェックされても記事更新はありません…

お役に立つ情報はあまりないとは思いますが、
(一般的な「受験情報」など書いていませんし)
のんびりご訪問下されば幸いです。


さて、今回は「ジグゾーパズル」について考えましょう。

wikipedia の情報によると…

ジグソーパズルのジグソーとは、英語のjigsaw(糸鋸、いとのこ)
のことであり、元々このパズルが木の板を糸鋸で切って作られた
ことからこの名がついた。1760年頃に、ロンドンの地図職人で
技師のジョン・スピルズベリが、子供の教育のためにピースが
国の形のジグソーパズル(完成すると地図ができる)を作った
のが最初と考えられている。


…とあります。wikipedia の情報が「常に正しい」
訳ではないので真偽のほどは分かりませんが、
1760年頃とは比較的新しいパズルのようですね。

このジグソーパズルというもので遊ばれた方は
皆さんの中にもおられるでしょうが、この私も
幼い頃からジグソーパズルが大好きでした。
(正確には「パズル」なら何でも好きでしたが)

1,000ピースのジグソーパズルで初めて作ったのは
「ジャック・ルイ・ダヴィッド『皇帝ナポレオン一世と
ジョセフィーヌの戴冠式』(50cm×75cm)」
ですね、
小学校3〜4年くらいだったと記憶しています。

000-.jpg

あとは名画モチーフのパズルを結構作りましたが、
(パズル好きだということで方々から贈られたため)

4,000ピースの「ピーテル・ブリューゲル『バベルの塔』」
いつか作りたいな〜と小学生の時に思ったまま、
今に至るまで「バベル」には結局手を出していません。

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今は 10,292ピース(147×216cm :畳2畳分?)の
「バベルの塔」が出ているようなのですが…

純粋に挑戦しようという「純心」はなくなったの
かもしれませんね、そこまでしなくてもいいか
と思ってしまう自分に「諸行無常」を感じます。。


(正確には物理的パズルより「智慧」という無限のピースを
 慎重に組み立てていく「現実世界パズル」の方が何倍も
 面白いと思っているからなのでしょうけど。)


市販パズルの世界最高は「LIFE: The Great Challenge」
24,000ピース(157×428cm)らしいですね、amazing!


…と、いつもながら非生産的な話に終始していますが、
ジグソーパズルは知育上プラスの気がします、多分。

「自分が好きだったから」というだけの根拠ですが、
注意深くピースの「同一性・異質性」を観察しますし、

分類力・集中力も付く気もしますし、テーマによっては
名画の細部まで覚えていきますし(絵も好きでした)、
全体把握と断片把握の双方が養われる気もします。


…全部、後付けの理論ですけれども。

唯一の欠点は「邪魔になる」これに尽きますね。
(何だかんだで、かなり廃棄しましたから)

名画パズルとかなら何点か子供部屋に飾るのも
良いと思うのですが、子供的には作った完成体は
どうでも良くなりますので、またバラバラにして
組み立てるという使い方でしょうか。

…というわけで、小学生でジグソーパズルとか
好きな教え子には贈ったりもしてきたわけです。

その中には3Dの球体パズルというものもあって、
私も以前「天球儀」を組み立ててみたのですが、
これがなかなか意外と面白い代物でして。

3D球体パズル「天球儀 セレスティアルグローブ
(960ピース)」というものですが、楽しめます。

0286.jpg

球体なので平面パズルより難度が高そうですが、
慣れれば平面パズルよりは組み立てやすいです。

パズルが好きなご家庭では、親子ご一緒に
組み立てられたらいかがでしょうか?

意外と大きいので将来邪魔にはなるでしょうが
「天球儀」として星座の勉強にはなります。

(追記:現在は入手不可だそうです…すみません)

ともかくも、遊びやゲームにムダなものはありません、
大切なのは「どう取り組むか」だけであって。

読み方次第で「マンガ」「アニメ」も
優れた勉強素材になりますからね。

「どう勉強させるか」ということに腐心するよりは
「どうやって遊びながら学ばせるか」を考える方が
効率的じゃないかなと個人的には思います。


…というわけで、昨日の分まで書こうとして
長くなった割に内容に乏しい気もしますが
今回はこの辺で。。


posted by laluz at 15:00| Comment(0) | 「脳」の使い方

2011年12月15日

「流れ星」


2011年で「ふたご座流星群」がもっとも流れるとされる
極大時刻は、12月15日2時と予想されていましたので
皆既月食に続いて観測された方も多いかもしれません。


それらについて深く考えてみるつもりでしたが
毎回「長文となる」のも変化に乏しいので
今回はゆるやかに考えてみようと思います。


「流れ星とは何か?」という定義はさておき
「流れ星に願いを伝えると願いが叶う」という
メルヘンチックな言い伝えがありますよね。

そんなの幼稚なファンタジーでしょ?とか
流れ星の流れる間に3回も言えるわけないだろ?
とか思う人は多いことでしょう。

ただ、じっくり考えてみますと「あながち
荒唐無稽なことでもないかな」と感じます。

「あなたの夢は?」「目標は?」と急に聞かれて
どれだけの人が「即答」できるでしょうか?

夢や目標を持っている人でも「即答」できる人は
なかなかいないんじゃないかなと推測します。


「流れ星」もいつ流れるか分かりません。

その不意の一瞬にさえ、夢・目標を即答できるというのは
それだけ「自分の目標を、常にイメージしている」
ということに他なりません。

それも、その一瞬に3回も願い事を唱えようとすれば、
その内容を明確かつ簡潔に保持している必要があります。

「流れ星」という話はひとつのキッカケと思いますが
いつどんなときに夢・目標を問われても、即時に3回も
唱えられるくらい、明確に意識している夢というのは、
確実に自分の精神に日々充満していることでしょう。


不意に湧き上がる疑念や不安感、将来への迷いというものに
対しても、「自らの夢・目標」を明確に即答できる意志、
それこそが「願いを叶えるメカニズム」なのだと感じます。


スポーツ・学問など、どの道のプロでも「目標は?」と
問われて「〜です」と即答する方々は、大きなパワーを
持っているはずです(スポーツ分野は知人がいないので
確かな経験に基づいてはいませんが、おそらく)。


古くからの「伝承・言い伝え」には、あながち
論拠がないわけではないものが多いですが、

その趣旨を解きほぐすと、時代変化を問わず
含蓄のある言葉だったことに気付くものです。

(もちろん「流れ星」はあくまで私の解釈であって
 それが「伝承の真意」だというつもりは全くありません。
 あくまで「そういう捉え方もできる」という程度に
 お聞き流し下さればと思います。)


…ということを考えさせられる流星群でした。

それでは、今回はこの辺で。。


posted by laluz at 17:00| Comment(0) | 「脳」の使い方

2011年12月12日

「不安」と「安心」


こんにちは。週明けの記事ということで
「おそらく皆既月食のことを書くであろう」
予測されている方もおられるかもしれません。

相手の予測通りに動くよりは、予想外の行動を
あえて取ることを旨としてきた者ですので、、
今回は違う記事にしようと思います。

しかし、私の特性を把握しようとするチャレンジングな人
においては「哀れな…そう来ると読んでいましたよ」
言わしめることになるかもしれません。

そうなれば「…と先読みされたことも計算済み」という
トラップを、少し先に置いておく必要もありますね。

…というような頭脳戦はなかなか面白いものです。

たまに、「先生の思考を読んでやろう」とする子も
いますが、それはそれで観察眼が養われるでしょう。
(人間把握なら、私以外の方が良いと思いますが)

まあ、「…ということも予測していた」という読合いは
相手を選びますし、日常的には「別にどちらでも良い」
ですよね、私も常時そのようには考えていませんし。

(むしろ、あまり考えてないように映るようです、
 「何を考えているか全く読めない」という意味で)


さて、こんなどうでもよい話を長々続ける意図はなく。

「AかBかCか」という読み合いは他者との間だけでなく
「自分自身との対話」でもそのまま当てはまるという
ことが今回のポイントです


「AかBか、それとも?」という自問・葛藤。

Aを取りたい自分と、Bの方が良いんじゃないかと
囁く(ささやく)自分、その内心での対話は、上記の
「頭脳戦」そのままです(その「難度」は別として)。

Aを取りたいけど、もしかすると〜かもしれないし
それならBの方が将来的にはいいんじゃないかな…
でもやっぱり〜のことを考えると…

というような情報錯綜下での「やり取り」で、
人は悩み、不安を覚えます。


自問自答で「ワケが分からなくなる」と仲裁者を
求めます(すなわち、人に相談するわけですね)。

私も、そのような人生相談の大小様々を昔から
よくされましたが、本質はその「頭脳戦」の補佐です。

相談者として「結論は決まっている場合」には
本当にその決断で良いという「後押し」をし、
(自ら結論した道を行く上での注意点のみ示せば)

どこで悩んでいるのかさえ分からない場合については
当面の目的と最終ゴールは何か、その為の時間コストは?
というような乱雑に散らかった情報を集約化させて、
選択可能な道筋を、ぼんやりと示すこと。


私のことを「軍師」といって各々の重要局面で
アドバイスを求めてくる人もいたりしますが、

一番重要な助言は「自分を確信せよ」です。

自分自身で「上手くいかないんじゃないか」など
思っているようでは、「頭脳戦」では勝てません。

「勝利を確信していてダメだったら余計苦しい」とか
そう思うんだったら、挑戦しない方が良いでしょうね。

ずいぶん昔の記事でも書きましたが、この世界で
自分だけが自分の最大の理解者であり、自分を
信じている者でなければなりません。


「安心」も「不安」も、どちらを選びたいかだけの話。

「安心」とは他者が与えてくれるものではなく、
「不安」と向き合ってそれを克服した者にのみ
与えられるものです。


「皆既月食」も古代の人々は、不吉の予兆として
「不安」を覚えたり、逆に天恵と捉えて「安心」したり、
と、その捉え方は様々だったことでしょう。

全ての事象を、どのように捉えるかは自分次第です。
(時代の解釈に流されることなく自分の解釈で)

同じ事象を捉えて「不安」になるのも自由、
「安心」するのも自由。シンプルな理です。



…と、ちょっとまとまりが悪いですが
時間切れなので、今回はこの辺で。。

今週もよろしくお願い致します。




posted by laluz at 16:00| Comment(0) | 「脳」の使い方