2012年09月04日

「明けの明星」


皆さま、こんにちは。

もう9月ですね、過ごし易くなりそうです。

いつもながら、あっという間だった感覚と同時に
何年もの時間を過ごした充実感も得た夏でした。

たくさんのことを考え、感じ、取り入れた日々を
思うと、たった1月しか経っていないことに驚きです。


8月末から学校が始まるので、少しのんびりするか、
というところでしたが、天は怠惰を許してくれず、
何だかんだで授業続きの日々でした。

ただ、本当に進化を続けてくれる生徒さん達を
見ると、「人を育てる」という高尚な営みに
関与できる日々をこの上なく貴く感じます。


先の日曜にも、聡明なご縁に恵まれました。

日本の受験最高峰を目指す「覚悟」を持つ者と
真剣に「己の真価」を問うていく試みは有益です。

各々の「天才性」を開花させる一助になるなら
私の怠惰な人生も無為ではないことでしょう。。

(指導時間に空きはないとアナウンスしていますので
 お問い合わせ自体を控えて下さる方も、中には
 いらっしゃるかもしれませんが、希望時間帯を
 問わなければ、お受けできる場合もあります。。)


さて、先週末は、月が満ちて荘厳な夜空でしたね。

明け方の頃には、冬の大三角形と明けの明星が
太陽がいない中で各々の輝きを主張し合っています。

ただ、同じ光でも2次元平面で散らばっている訳では
ないので、それぞれの距離感は全く異なります。

地球上で観える恒星で、太陽の次に明るいシリウスは
たった8.6光年という近い距離にありますが、
北極星は約430光年という距離まで離れます。


同じ「光」として見えていても、シリウスの光は
約8〜9年前に解き放たれた光エネルギー、

北極星の光は、約430年ほど前の煌めきが、
長い時を経て「今」やっと到達しているわけで。

そうやって考えながら夜空を見ていると
「4次元のアート」の荘厳さに時間を忘れますね。

「明けの明星」「宵の明星」というものが
どちらも同じ「金星」だということに気付くには
どれだけの知性が要求されたのだろう!?

その忍耐強い観察眼に敬服します。


あらゆる可能性を考え、天地を覆すほどの発想・
仮説を見出し、辛抱強く実証していくというのは。


(…と、ここで時間切れです。

 ちょっとまとまりが悪いので、
 また24時以降に追記しようと思います。)



・・・と、追記ですが(@25:30)、

紀元前500年頃、天才ピタゴラス(Pythagoras)は
「明けの明星、宵の明星は金星そのものである」
ことを知っていたとされています。


ピタゴラスについては語るべきことが多過ぎるので
(哲学・数学・天文学のみならず魔術的にも)
また機会があれば記すことにしましょう。。


また、あえて記事テーマを「明けの明星」とした点、
「ルシフェル」について書くのではないか?と
推察される知己もおられることでしょうから、
軽く触れておきますと。

「明けの明星」のラテン語訳 Lucifer は
「光をもたらす者」の意もありますけれど、

キリスト教の伝統的教義においては、
ルシファー(ルシフェル)は「知恵・美の極み」
「比類なき光」でありながら、神に反逆し
堕天したサタンとして語られます。。


この辺りの解釈は、文学上も意義深いのですが
この「ラルースの塔」では、宗教・政治テーマに
深く立ち入らないつもりなので、この辺りで。


ともかく「金星」は、古代の天才の思考から
「堕天」にさえも思いを馳すことができます、

思いを馳せたからと言ってどうということも
ありませんが、のんびりライフには良い題材です。

日常と非日常という「境」などありませんが、
日々新しい視点で過ごすと「脳」が喜びますからね。。


…久しぶりの記事というのに、相変わらず
よく分からない文章ですが、今回はこの辺で。

いつもありがとうございます。


posted by laluz at 15:00| Comment(0) | 「脳」の使い方

2012年07月09日

誤答とユーモア


皆さま、こんにちは。

期末考査が終わった人も最中である人も
おられるでしょうけれど、復習は怠らないように。

(復習を超えて「復讐=リベンジ」しなければ
 ならない人は、この夏に頑張って下さいね?)


さて、数学の誤答も興味深いものがありますが
英語というものは数学より教えるのが難しい分、
(必ずしも「間違い」ではないことが多い点で)
誤答についても秀逸なものに出会えます。


異次元ないしは幻想世界の描写になったり、
コメディそのものだったりお互い爆笑することも。

例えば、このような文章について…

お母さん、この土曜日に友達と遊びに行っていい?

それはあなた次第ね、宿題は終わりそうなの?

多分ね、もう半分は終わってるから。

早く片づけてしまった方がいいわよ。

うん、金曜日には終わらせているわ。


日本語では何の変哲もない会話ですけど、
この文章を英訳していく時、下線部を

I'll have finished your homework by Friday.

このように書いたらどうでしょう?

あなたの宿題=「お母さんの宿題」を問題にしている
という流れになって、コメディライクな話になりますね、

お母さん、自分の宿題は自分でしようよ!ってことに。。

もちろん「宿題」ではなくて家事かもしれませんし
この点だけ見ても「間違い」ではないですけれど。

あと、良くある誤答は「分詞」の置き方で発現します。

1) I found all the dishes eaten.
2) I found all the dishes eating.


(1) 全ての料理が食べられているのが分かった。
(2) 全ての皿が、食べているのが分かった。


お皿が料理(あるいは諸々)を食べたりとか、
不思議の国の世界ですよね?

とはいえ「英語の文法」として間違ってはいないので
前後関係が明らかではない場合、誤答でもありません。

別に「あり得ないこと」ではないですし
「不思議の国」的な文章ならむしろ正解です。

そんなこんなで、英語を教える時は(主に中学生)
興味深い非日常世界が不意に現れたりするので、
なかなか不思議な感覚が味わえます。


それはそれで興味深いし、間違いではないけど
日常英語としては訂正しておこうかな、と言いつつ。

…というわけで、楽しく学ぶのは良いことです。

ユーモアを持って、誤答の世界を考えていくのは
なかなか趣深いものだと思います。


それでは、今回はこの辺で。

いつもありがとうございます。



posted by laluz at 23:30| Comment(0) | 「脳」の使い方

2012年07月03日

「受容」について


皆さま、こんばんは。

このところ更新がランダムにも関わらず
日に日にご訪問者数が増えていまして、

ちょっと申し訳ない感じなのですが、
いつも本当にありがとうございます。

指導時間を「生産的に抑える」など
良い方向で時間整理できましたので、
多少はスマートに過ごせる気が致します。

あまり慌ただしいのも好ましく思えませんし、
ご縁ある方々への配慮が疎かになっては
私にとって本末転倒ですからね。。


さて、今回は「受容」について考えます。

以前の記事でも「絶対肯定」という表現で
「在るがまま肯定する」意識について
簡単に述べたことがありますけれど、

要は「否定しない」ということです。

このブログをお読み下さっている皆さまには
釈迦に説法でしょうが、一応触れておきますと

「否定しない」ということは
「諦めて受け入れる」ことを意味しません。

困難な局面であっても、それは事実として
「直視する」という意味でしかなく、

事実として認識した上で、それを前提として
いかにその局面を打開していくか?それを
考えていくことが大切なわけです。


いわゆる「ネガティブ思考」の方は
悪い方、失敗する方に意識を向けてしまい、
エネルギーを生産的に使う前に諦めてしまいます。

しかし、そのようなネガティブ思考の方に対して
「そんなのだからダメなんだ」など言っても
何らの効果もないでしょう、、

ダメと言われて余計に自分はダメなんだと
ネガティブ傾向を加速させるだけです。

いわゆる「ネガティブ思考」タイプの場合、
「ネガティブ思考」が全ての元凶だよ、
「ポジティブ思考」にならないとダメだよ、
などと言っても心に響きません。

そんなことは百も承知だからです。
それが出来たら実行しているわけで。


それより「自分の思考をネガティブ傾向と
思うこと自体がネガティブ」なので、

リスクを考えて慎重に行動するのは知的だ、とか
自分の欠点や修正点を自覚して直そうとしているのは
それだけでも前進の一歩だと思う、とか、

相手の「心理的障壁」を柔らかくすることが
有効なことが多いでしょう。

心理学的には「受容」と「共感」ですけれど、

これは別に「ネガティブ思考」の方に限らず
広く人間関係において適用可能な態度です。


臨機応変に、細部調整するのが難しいだけで。

相手によっては「怒って欲しい」場合も
ありますからね。その場合「それでいいよ」
と言われるより、突き放す方が有益だったり。

相手の「己に怒りたい気持ち」を共感して
「一緒に怒ってあげる」のは高難度ですけど。。

対人関係だけでなく、自分自身の意識においても
「受容」と「共感」は大切でしょう。

運命ゲームの中で困難な局面となったとしても
まずは状況を直視し、自分に共感すること。


(泣きたい時は泣けば良いですし。)

それから局面打開の「一手」を探します、
自分の頭脳や、周りの智恵で。

「脳」というのは「正確な情報」を与えて
冷静な判断を下せる「自信」さえ持てば
必ず「最適な一手」を弾き出してくれます。


「受容」というのは「脳」が最適な手を導く上で
「必要だからこそそうする」というものです。

事実を直視せず、狂った情報を脳にインプットし続けても
最適解はいつまで経っても導かれないでしょう。

現状を正確に把握すればするほど、次の一手を
「脳」は早期に導こうと尽力してくれます。

とりあえず「自分の脳を賞賛」してあげましょう。

褒めて育つ子ですからね、脳は。


(もちろんお子様の「脳」も。)

新しいことが出来たら褒めてあげる、
間違っても間違いに気付けたなら励ます、

「脳・育成ゲーム」だと思うと日々楽しいですよね?


…長い割に内容に乏しいですが、
今回はこの辺で終わりましょう。

いつもありがとうございます。




posted by laluz at 23:55| Comment(0) | 「脳」の使い方

2012年05月23日

「対価」について


皆さま、こんにちは。

これから定期考査だ!という方もおられますが
多くの教え子においては概ね「峠」を越えたので、
私としても少しずつ平穏を取り戻せそうです。


小学生〜中1生から私が教えている子の多くは
実際のところかなり先取りしていたりするので
定期考査前でも悠然と難関演習など解いていたり
あえて試験前の授業をお休みにしたりしますが、
(定期試験対策は私としなくても出来るので…)

高校生から指導担当した生徒さんの場合は、
どうしても定期試験対策の時間が増えます。。

進学校の場合、定期考査であっても大学入試問題が
容赦なく出題されますので気が抜けませんけど、

その分、定期考査対策をしっかりして理解を確実に
していけば入試対応力が付くということなので、
頑張ってフォローアップして欲しいと思います。



・・・前置きはさておき「対価」について。

「対価」とは…

「ある給付の代償として相手方から受け取るもの」


…このように定義しておきます。

事物の売買・賃貸借など日常契約においても
正当な「代価」の支払いは必要でしょう。

その「代価」「対価」とは如何ほどか?
という点については、個々人で異なります。


経済学のお話になるので深入りしませんが、
「需要と供給」のバランスで価額は決まりますね、

その価額でも適正だ(むしろ安い)という人は
合意すればよいですし、高価だと思えば
契約しなければよいだけのこと。

(情報の非対称性や経済心理学・経済行動学的には
 そう単純化できないことも多いですが原則的には。)


ただ、「対価」を適正評価するための情報が偏在せず、
消費者に対して広く提供されている条件下でも、

情報がここまで多量に溢れている場合は
情報の真偽を判断し、取捨選択するコストが
想像以上にかかってしまうことになります。

(この辺りは昨年6月の記事「Rankingの意味」でも
触れましたので、ここでは繰り返しません。)

(…導入部分があった方がいいかなと思いましたが
 ちょっと時間が足りなさそうなので、本題に!)


今回の記事が想定する「着地点」は、

「対価」は過不足なく、喜びを持って支払う、

ということの重要性です。


「対価」というものは必ず発生します。

それがどんなものであったとしても。

自ら自主的に「対価」を喜んで支払えば、
その対価の給付は必ず得られることでしょう。

(一般的な「善行」もここに含まれます。)

逆に、何らかの利得を得たにもかかわらず
「対価」を支払わないならば、それがどのような
形態をとって現れるかは別として、必ずその
「対価」を否応なく支払わされるものです。


「質量保存法則・エネルギー保存法則」をここで
持ち出すのは非科学的との誹りを受けましょうが、

案外、理に適っている法則のように思います。

支出については嫌々ではなく「喜んで支払う」
その意識だけで、その対価・行動についても
一層の意味を持ち出すことでしょう。

一時的な「損失」を愚かしく嘆くのではなく
その「対価」を自主的に支払ったと捉えるだけで
事物の移り変わりは驚くほど好転するものです。


支出についても感謝しながら行うことで
更に多くの友を連れてその対価は戻ってきます。

その「対価」をまた、人々が豊かになる方向で
感謝して送り出してやれば、また里帰りしてくる、
その繰り返しのような気はしますね。。

輝く知性が、金銭に振り回されるのは本末転倒です。

かといって金銭を蔑視するのも浅ましきこと。


接し方を正しく理解すれば「お金」というものは
「自分」「社会」を高めてくれる強力な武器です。

「自ら」に対する敬意と同様の敬意をもって
「対価」を考えていくことは、自分自身を支配する上で
間違いなく不可欠な要素と感じます。。


…相変わらずまとまりに欠けますが、
今回はこの辺りで終わりとしましょう。

いつもありがとうございます。


posted by laluz at 15:00| Comment(0) | 「脳」の使い方

2012年05月09日

「 自己愛 」


皆さま、こんばんは。

今日も更新が遅くなってしまいました…

「書かなければならない」とか「遅れないように
 更新しなければならない」とかいう意識はないので、

( 義務感を伴うと楽しめませんからね。)

皆さまものんびりお付き合い下さればと思います。

正直、このブログの「意義」は分かりません。

一応「塾ブログ」という形になっていますが
宣伝や勧誘などするわけでもありませんし、

(基本的には「遠ざけている」でしょう!)

じゃあ個人ブログかと言えば、そうとも言えません。

(私の個人ブログなら対象テーマが広範囲に
 なりますし、より「非日常」にシフトします。
 読みたいというお声はたくさんあるようですが。)

「何のために書いているのか分からない」けれど
「毎日書き続けてみる」という試みは
 なかなか面白いものだと楽しんでいます。

今まで合理的にしか行動しなかったので
「合理か否かの判断を越える実験(遊び)」です。


「今日の食事メニューは何にしようかな」と
日々考える方々のように、「今日の記事は何に
しようかな?」と考えるのは、創造的思考を
遊ばせる上では悪くない習慣というか。

その延長線上で、ブログを楽しんで下さったり、
知的栄養を得て下さる方々が多くおられるなら
それはプラスアルファで嬉しいことですし。

さて、前置きが長くなりそうなので本題に。

「自己愛」という言葉は、日本ではあまり
歓迎されないような、微妙な雰囲気を感じますが、

このブログを長期間お読み下さっている方々、
「現実世界」で私にお付き合い下さっている方々は
既にご承知のように、私は「自分」が大好きです。


(私を実際ご存じない方々にとっては「はあ…」と
 微妙なリアクションしかできないと思いますが)


「自己愛」というのは、なぜ消極的イメージなのでしょう?

まず「自己愛」の定義を一般的辞書で確認しますと、

【 自己愛 】
 1 ナルシシズム。自分自身を愛の対象とすること。
 2 自己陶酔。


…というような意味合いです、なるほど
これはちょっと困った感じですね。。

「自己愛」と一口で考えずに、健康的・適応的な側面と
不健康的・不適応的側面とで区別すべきでしょうに。

要するに、健全な形での「自己愛(self-love)」と
不健全な形での「自己愛(narcissism)」に分けて
考えていくことが大切なのではないかと思います。


精神が未熟であれば、「自己愛」の形質もネガティブ、
すなわち自己中心思考・行動や、過剰な自己顕示、
他者を受け入れない批判傾向、といった形で
「残念な方向」で現れてしまいます。

一般的に「自分大好き」人間が嫌われるのは自己顕示が
強すぎたり、同意が得られないと不機嫌になる、
相手の批判をするくせ自分への批判には耳を貸さない…

などの人格的未熟性を有する傾向が多いことが
その原因なのだろうと推測します。。


「自分の世界」だけに耽溺してしまい、
周りが見えないというのは悲しいものです。

そのような未熟で不完全な傾向は、
この記事でいう「自己愛」ではありません。

自己を愛するというよりは、未熟な自己を外敵から
守るための「鎧」「殻」でしかないでしょう。


(精神疾患としての「自己愛性人格障害」として
 自分と戦っておられる方々については、もちろん
 配慮が必要だと思います。無事に克服されますように。)


健全な「自己愛」とは「在るがままの自分を
絶対的に信頼し、心から感謝し、愛すること」です。


今までの記事でも何度か触れてきましたが、

「運命を支配する」ことは「自分を愛すること」から
始めるといっても過言ではないと思います。

「この世界に存在していて良い」と決めるのは
他者でも、ましてや「神」でもなく「自分」です。


絶対的「肯定」。

健全な「自己愛」に充たされた者においては
遍く存在のすべてが「肯定」されたものです。

自分が自分を愛するように、他者のそれぞれも
等しく愛されるべき存在であると知る者。

それこそが「自己愛」の本質だと思います。



弱い自分を守る「鎧・殻」としての自己愛ではなく
自分を含めた人々を優しく包み込める「自己愛」なら、

とても印象的に受け入れられることでしょう。

この「私」についても温かく受け入れて下さる
皆さまのご高徳には、いつも感謝しています。

それでは、今回はこの辺りで。



posted by laluz at 23:00| Comment(0) | 「脳」の使い方

2012年05月01日

「ネガティブ思考」?


皆さま、こんにちは。

一週間以上の連休の方もいれば、
1〜2日は平常通りという方もおられるでしょう。

連休前半は有意義にお過ごしでしたでしょうか?


さて、先日「対極思考」というものに
触れましたが、その点に関して質問がありました。

「対極思考とネガティブ思考、どう違うの?」

…というものです。

確かに両者は似て非なるものですが、
ネガティブ思考が悪いとは思いません。

私個人としては「ポジティブ思考」者の
世界ランキングがあれば、世界10位に入る
自信(根拠なき自信)がありますけれど、


ネガティブ思考が悪いとは思えません。

「ネガティブ思考が悪い」と思うこと自体が
ネガティブ思考なのではないでしょうか?


デメリットを考えて、慎重に行動する
という思考原理が核心にあるとしたら、
それはそれで悪くないはずです。

傲慢で高飛車で、自己中心的・独裁的よりは、
自己嫌悪に陥るくらい自己否定的なのも
他者に迷惑をかけていないなら良いと思います。

レシピ自体は悪くないので、あとはほんの少し
塩加減や熱の通し方、水加減を調整すれば
慎重思考ということで開花するはずです。

一般的に「ネガティブ思考」といわれる
思考パターンの人に、ネガティブ思考はダメだ、
ポジティブに考えないと!とか言うのは
ナンセンスですし、効果的でもありません。


リスクを考えて、慎重に行動するというのは
大切な才能です。慢心せずに自己を卑下するのも
飽くなき向上心に繋げれば美徳に変わります。

料理でもそうですが、他人の「美味しいレシピ」を
そのまま作り直しても、意外と同じ味になりません。

どうしても微細なクセが現れます。

それよりは、自分の持ち味を活かしながら
他者のアイデアや味付けを少しアレンジしながら
自分のレシピを完成させていく方が近道でしょう。

そういうわけで「ネガティブ思考」というものが
あるとすれば、「ネガティブ思考は良くない」と
思いこむこと自体にあります。

ネガティブ、大いに結構じゃないですか。


気が進まないのに選択していたら、
ハプニングに巻き込まれていたかもしれません。

確かに「甘い蜜」は吸えないかもしれませんが
リスクを回避することは知的行動ですよ。。


・・・と、前置きが長くなったので、
今回も十分には書けないかもしれませんが…

どう違うか?を簡潔にまとめると、

「ネガティブ思考」は主観的な判断、
「対極思考」は客観的判断(を目指す)、


という点に集約できます。

自分の中で、感情的な裁定を下さないこと。

感情論としてはNO だけれども、YES の立場に
なり切って考えてみると、状況はどう見えるか?
そのように変化していくと考えられるか?

現状で存在する(と考えられる)メリット・
デメリットというものは、どう変化するか?

ということを「壮大なスケール」で考える試み、

それが「対極思考」の核心です。


自分が「反対」だと感じる理由は何か。
相手が「そのように行動する原因」は何か?

ということを各プレイヤーの特質や知力・
行動パターンなどを計算しつつ(それは、
あくまで中立的な立場から多めに見積もる)、

自分の行動がどのように状況を変化させるか?

というのを各プレイヤーの視点から
(対極的あるいは大局的に)考えるわけです。

「ネガティブ思考」は、これは無理なんじゃないか、
行動するだけムダなのでは…という消極主義だとすれば

その立場を全体の中で考えること自体は
「対極思考」フレームに(必然的に)含まれます。

そのネガティブかポジティブかという境を
自由に行き来して考えるのが「対極思考」です。


なんとなく伝わったでしょうか?


「対極思考」の究極系は、
「人間」対「人智を超えたもの」でしょう。

「人間」ならこう考えるだろうけれど、
「運命」はどのような「手」を打ってくるか?

…を考えるのが「神とのチェス」です。


(IQセミナーでお話しかけたテーマですが)


・・・それでは、今回はこの辺で。

5月もよろしくお願い致します。


posted by laluz at 15:00| Comment(0) | 「脳」の使い方

2012年04月25日

「対極思考」


皆さま、こんにちは。

先日のマキャヴェリの記事で

「ユートピア的理想論・平和主義も大切ではありますが
徹底的な冷酷主義という真逆の思考も等しく大切です」


と書いたせいか「先生は二面性を持っているのですか?」
と尋ねられましたが、二面性どころか多面性と思います。

それは八方美人的にコロコロ変わるという意味ではなく
プリズムのように光をどの角度から照射するかで
その反応は変化するという感じに近いでしょう。

その屈折率や発色の仕方は常に一定です。

私は基本的に「優しい」タイプではありませんが、
私のことを「優しい」と感じるならば、それは
その方自身が「お優しい」ので、その性質が
そのままご自身に反射されているだけです。。



さて、「対極思考」というものを持っていたとしても
それは悪い意味での二面性を持つことにはなりません。

信頼する人の行動について疑心暗鬼になって疑う、
という態度は、「対極思考」ではありません。

要するに、今まで見ていた景色や状況を、正反対の
立場から眺めてみると、今までの思考スタンスは
変わりうるのかどうか?という思考の検証です。


一面だけしか見ずに判断して、後になって
騙されたとか裏切られたとか言うのは浅はかです。

自分の意見と違う立場の人についても、
自分が見えていない要素があるかもしれないし、

それを考慮に入れずに一方的に相手を
否定するのもまた愚かしい行為でしょう。

(考慮した上で反論するのは良いとして)

「対極思考」のポイントは、あらゆる事象に対して
さまざまな思考が存在するということを知り、

そのどれについても執着することなく自由に
思考を行き来することができるかどうか?が

「脳の柔軟性」を極端に高めるということです。


先入観に囚われることなく、自由な発想で
色々な角度から事象を探究してみることは

(もちろん人間心理についても同様です)

今まで気づきにくかったことを浮かび上がらせ
物事の微細な美しさを知ることにも繋がります。


「対極思考」を自由に行き来できるようになれば
「自分の感情」も支配できるようになるものですが、
 その辺りについては、またの機会に。

(皆さまも、のんびり考えておいて下さいね)

…中途半端な内容ですが、今回はこの辺で。

いつもありがとうございます。



posted by laluz at 16:00| Comment(0) | 「脳」の使い方