2013年01月09日

「 暗示力 」


皆さま、こんにちは。

1月7日には「七草粥・七種粥」のことを
ゆるやかに書いておこうと思っているうちに、

1月8日(今や9日)になってしまったので、
また2014年にでも書くことにしましょう…。

というわけで、今回は久々の「力を考える」、
「暗示力」というものでも考えてみます。


「暗示力」=「暗示する力」なのでしょうから
「暗示」というものを少し見てみますと、

「暗示」とは・・・

(1)直接的にはっきりと示すのではなく、それとなく
  分かるように示すこと、手掛かりをそれとなく
  示すこと。そのための行為・物。

(2)知覚・観念・意図・行動などが、言葉その他の
  シンボルなどにより、理性に訴えることなく
  無意識のうちに伝達・受容される現象。
  また、そのきっかけとなるもの。suggestion


・・・というような意味といえるでしょう。

字義的には(1)(2)どちらとも「暗示力」の意味で
使えると思いますが、「自己暗示力」など一般用法
としては(2)の意味で用いられる方が多いはず。

要するに「暗示力」とは、言葉・象徴・サイン等により
自己あるいは他者の思考・感覚・行動を操作・誘導する力、


このように定義することができるでしょう。

さて、この「暗示力」を「自己に対して暗示をかける力」と
「他者に対して暗示をかける力」に分けて考えてみますと、

前者は「自己暗示力」とよく言われるもので、
イメージトレーニングなどもここに含まれます。

当ブログでも以前に述べてきたことですけれど、
「自分は頭が良い」と確信することも自己暗示です。

「脳の使い方」でも触れたので詳述しませんが、
自分の目標や成功イメージを明確に描けている人は
確実にその目標に近付きます(時間がかかるとしても)。


(もちろん物理的障壁がなければ…の話です。
 翼が生えているイメージを明確に持っていても
 物理的な翼が、ある日突然生えては来ないように。

「精神的な翼」を獲得することは可能ですけれど。)


自己暗示とポジティブ思考とは違うものです。
自己暗示は、ポジティブにもネガティブにも働きます。

要するに、人間というものは強力な暗示イメージに応じて
容易に左右されてしまうので、肯定的な暗示なら肯定的、
否定的暗示なら否定的な影響を受けるという意味です。

暗示力が強いと言っても、破滅的傾向の強い人なら
ネガティブな暗示を自分にも他者にも投げかけます。
まるで「呪い」のように。

明朗な未来志向型の人なら、肯定的な暗示を
自他ともに投げかけることでしょう。

その力が神聖にまで高められれば、その暗示は
まるで「祝福」のようになります。


強力な言葉の力で、雰囲気を飲み込む力がある人は
容易に他者を「暗示」にかけることができます。
マインドコントロールと言っても良いでしょう。

占いによる「暗示」あるいは催眠状態による「暗示」は
その最たるものですが、「あなたに危機が迫っている」
と鬼気迫る様相で暗示にかけると、不幸なことに実際
そうなったりします。自分で危機を引き寄せるわけで。


(多くの霊感商法もそうでしょうね。
 不安の暗示をかけるのは一種の呪いです。)


ああ、不安で仕方ない、とか。
失敗したらどうしよう、とか。。
人生、上手くいかない、とか。。。

それは見事な「暗示」、きっとそうなるでしょう!

それを自分自身でオーダーしているのですから
その注文結果が確実にお届けされるのは必然です。

逆に「信念が本物なら、確実に実現するよ」と優しく
肯定して背中を押すなら、その「暗示」は「祝福」となり、
その者を目標へ引き寄せることでしょう。



そういうわけで、人の生は「言葉」で左右されます。

「感謝の言葉」で充たしていれば、日々そうなりますし、
「不平不満の愚痴」で充たせば、日々そうなります。

相手(友人・家族・恋人や配偶者でも)は「ダメだ、
上手くいくはずがない」と思えば、そうなるでしょう。

「いつも、いてくれてありがとう」と思えば
傍にいてくれてありがたい存在に近付きます。



「暗示力」とは万人が持っている能力ですが、
その力を上手く効果的に使えるかが明暗を分けます。

自分だけでなく、周りの人々に対しても、
ネガティブな「呪い」をかけるより、幸せなる
「祝福」の言葉を投げかけるようにしたいものです。



…というわけで、「暗示力」でした。

皆さまの2013年は、良き暗示をもって
さらに「祝福ある日々」となることでしょう!


いつもありがとうございます。


posted by laluz at 01:30| Comment(0) | 「力」を考える

2012年11月07日

「 基礎力 」


皆さま、こんばんは。

今回は久々に「力を考える」ということで
「基礎力」というものについて。

「基礎が大事だ」とか「基礎力がない」とか
何となく言われている言葉ですが、その実は
「どういう意味」なのでしょうね?


「基礎」とは何か?というものを分からずして
「基礎が大事」とだけ言われても困りましょう。。

「自分に必要な『基礎』が何か」分かれば
目標達成は近いことは間違いありませんが、

そもそも「基礎って何?」というところが難問です。。


「神は、愛そのものなのだ。」と仮に言われても
「そこでいう『愛』って何?」となるように。

「その実、何も言っていないに等しい」わけで。

(知識の容量が増えれば、どんな人とでも
「近似値」を推論して共有できますけれど)


さて、「基礎」とは・・・

・物事が成り立っているおおもと、根本。
・建築物などを安定させるために設けた土台、礎。
・建築に先立って地面をならし、固めること。


・・・と、このような意味で使われていますね。

とすれば、「基礎力」というのは、

1.物事を成り立たせるための根本となる力、
2.より大きな物を安定させるための土台となる力、
3.建築に先立って地面をならし、固めていく力。


…と、このようなニュアンスで理解できるでしょう。


その上に、何を発展・展開させていくか?に応じて、
支えるために必要な「基礎力」の内容も変わります。

ここで「数学における基礎」を考えてみましょう。

(「人生における基礎」でも本質的には同じです)

まず、対象となっている「基礎」がどの部分か?
それを意識することが最も重要です。

東京大学を志望する人にとっての「基礎」と、
小学生で九九の計算がまだ完璧ではない子にとっての
「基礎」とは、その内容に大きな隔たりがありますが、

九九が重要な基礎であることに変わりありません。

数理的土台を組み上げていくパーツとして、
加減乗除の四則演算は、最重要な基礎です。

それだけでは東大数学は解けませんが、
それがなければ絶対に合格することもできませんね。

要するに、どこまでが最小限必要なパーツかは
自分の目標レベルによって変わってきます。


ただ、必要最小限のパーツ(標準問題の公式・解法)を
覚えただけでは、難関数学は解けません。

「基礎を使いこなす」練習が必要です。

九九を覚えたという小学生でも、順番に最初から
数えないと分からないようでは理解したと言えません。

また、四則演算を覚えたと言っても、

(2÷3)+5÷(2+4×4-3) などのように、複雑になると
解けないというのでは、理解したとは言えませんよね?

基礎公式は覚えたけど、自由に変形できないのでは
「基礎」が築けたとは言えないわけです。

(上手な話し方、書き方などをマニュアルで学んでも
 臨機応変に使えないようでは意味がないように。)


それでは、「基礎」を使いこなす練習を重ねれば
どんな難関数学でも解けるようになるか?と言えば、
「そうです」と断言できない面もあります。

「問題を解く」という形式には、大きく2種類あります。

1つは、与えられた「条件」を上手く崩したり
変形させたりして、「解」にバラしていくパターン。

もう1つは、基本パーツを積み重ねていって、
想定される「解」を完成させるパターン。


一般的には「問題を解く」という文字通り、
前者のパターンを練習することが多いでしょう。

このような「形」が出たら、このように崩していって
それから、その崩したパーツを組み合わせていって…
というように、解法リズムを練習していくわけです。

しかし、それは「完成形」を崩していくだけで
本来的には「創造的」行為ではありません。

「基礎」というものが、その上に築かれるための
土台であるように、数学というものも基本パーツを
積み重ねて、更なる高みに到達する営みです。


従って、難関数学においては、単に「解く」よりも
基本パーツを使って「解を探す」「証明する」という、
より創造的な思考を要求してくることになります。

「創っていく」のか「崩していく」のか。

このアプローチの違いを意識することです。


この模型を、壊れないようにキレイに崩して下さい、
というのと、このパーツを使って上手く組み立てて
下さい、というような違いですね、例えてみると。

どちらも「基礎」の理解が必須です。

しかし、何もないところから「組み立てていく」のは
形あるものを「崩していく」より遥かに難しいもの。

同じ「基本パーツ」を使っていても。

東大・京大であっても、時間内で解く「入試」である点、
小問形式による誘導などがあったりしますが、
難関を志望する上で「基礎」を固めるというのは

「基本パーツを正確に理解し、その基礎の上に築かれる
議論を意識した上で、組み合わせを学ぶ」ことです。


青チャートだけで東大理系数学をクリアできるか?
というような不毛な議論も古くからありますが、

結論を言えば「その基本を自由に組み立てられるよう
意識した実戦演習」を進める方なら合格できます。

逆に、そのような「組み立て方」を意識しない限り
どんな演習テキストを使っても、数学力は付きません。

(入試数学をクリアするだけなら可能としても)

自分にとっての「基礎」とは何か?

目標達成のために必要な土台は何かを考え、
その土台をしっかり築くための「基礎」は何かを
逆算して、現段階で必要な「基礎」を把握すること。

この思考は、何も受験・学問に限らず、
人生全てにおいて有意義なものだと思います。


「基礎力」とは、

自らの目標を実現させるために必要な土台を築き、
その土台を積み重ねていくことで地盤を固める力、

そして物事を成り立たせる根本となる力は
他ならぬ各人の強い意志です。


「全ては基礎あるのみ」という言説は
究極的には「意志があるか否か」に帰しますね。


…と「何も述べていない」に等しいわけですが、
実際そうなのですから仕方ありません。

逆に言えば、「強い意志」という揺るぎない基盤が
自己の深奥に築かれるなら、もうブレることはないはず。

どのような試練でも支えきれる
究極の「基礎」があるわけですからね。



・・・と、長くなったのでこの辺で。

不定期更新ながら多くの方々にご訪問頂き

いつもありがとうございます。



posted by laluz at 23:45| Comment(0) | 「力」を考える

2012年09月26日

「 支配力 」


皆さま、こんばんは。

今回は「力を考える」ということで
「支配力」を取り上げましょう。

このブログ記事でも「自分を支配」やら
「時間を支配」やら「運命を支配」やらと…
「支配」という単語は頻繁に用いられていますね?


故に、「先生は支配したいタイプなのですか…?」

…というような俗な質問を稀に受けたりしますけど、
「他者を支配したい」という発想はないです。。

You can have no dominion greater or less than that over yourself

(あなたは「自分自身に対する支配」の他には、
 どのような支配権も持つことはできない。)


…というのは真理だと思うからです。
(ダヴィンチの名言で述べましたように。)

「自律」できていれば、他者を支配しようとも
他者に支配されたいとも思わないはずです。。

…と、本題に流れを戻しますと、

この「支配」という意味は・・・

1. 分け与える、分け配ること。負担を分担すること。
2.統治すること、治めること。
3.組織に勢力・権力を及ぼして、意のままに動かせる状態に置くこと。
4.人や物事に影響を及ぼして、その考えや行動を束縛すること。


・・・と、概ねこのような意味合いです。

「支配する」というのは、自らの力の影響下に置くこと
という意味が一般的に強いですが、本来的には
「分け与えること」にその本質があるわけですね。


物資や義務・負担を分け与えることを司る、
すなわち「配分を支える」から「支配」という…。

仕事や給料などを配分する者に逆らえば
それは人生を左右されてしまうということで
現在的な「支配」という意味合いが強くなったと。


さて、このブログでいう「自分を支配」とは?

そうです、自分に必要なものを過不足なく
自らで配分していくことを担う、という趣旨です。

「運命を支配」「時間を支配」全て同じです、
自ら分け与え、分け配ることの統率。


この意味で「相手を支配」することを考えると
「相手のニーズに必要な要素を分け配ること」、
ここに主眼が置かれるのだと気づくでしょう。

高圧的、強権的に抑圧下に置くのとは違います。
それは誇り高き知者の態度ではありません。

相手・運命の挙動を予測計算し、それに必要な要素を
臨機応変に「配分・配置・配材」すること。

「支配力」とは、発展的未来への配慮の力。

それこそが知者としての「支配」の在り様かと。


「相手を意のままにする」ことへの欲望、
それらは自律できていない精神弱き者の
コンプレックスの具現とも言えましょう。

「相手に服従する」ことへの傾倒、
それらも自律できていない弱さからくる
精神的安楽・安逸への欲求の具現でもあります。


時間の配分・エネルギーの配分・愛情の配分etc.
様々な局面において「配分」の意思決定は関わりますが

それら「配分」を支えることこそ「支配」とすれば
周りの潜在性を高める方向で、助力できる者は
優しく「支配」していると評価できると思います。

(「包容」に近いかもしれませんけれど。)

まずは「自分の支配」から始めましょう。

(以前にも述べましたが)
「自分を支配すること」さえできれば、
あらゆる門を開く「鍵」を手に入れたようなもの。

ラルースで、私が伝授したい唯一の智慧は、
この「鍵」です(英語・数学など副次的です…)。


「縁」あって、私とお話しすることになった
生徒の皆さん全てに伝えられる自信はありませんが、
エッセンスだけでも感じ取ってくれると幸いです。


…というわけで「支配力」でした。

いつもありがとうございます。


posted by laluz at 23:55| Comment(0) | 「力」を考える

2012年09月12日

「 発言力 」


皆さま、こんばんは。

今回は久々に「力を考える」を更新します。

(前回の「表現力」が、7月19日付けでしたので
 約2か月ぶりということになりますね。。)


テーマは「発言力」ということで。

「発言力」とは・・・

発言によって他人に影響を及ぼすことのできる力
[精選日本国語大辞典]

発言で他人の意思に影響を及ぼす力[広辞苑]

・・・というように定義されています。


「発言力がある」とは「影響」の
大きさでもあるようですね。。

発言音量の大きさとかではなく。
発言内容も、さほど重要ではないかも…。

その言葉に込められた力というか、
威厳というニュアンスもあるでしょう。

英語では、「発言力」というものは、
a voice, a say などで表現できますが、
まさに「声」という意味そのものに通じます。

相手の「耳」に、正確に言えば「心・精神」に
自らの「声」すなわち、意見・主張を
いかにして届けることができるか?

というのが「発言力」の核でしょう。


武力や威圧によって相手を物理的精神的に抑圧し、
反論・反抗を許さない状況下で「発言」すれば
その主張は通るでしょうが、「発言力」があるとは
言えないでしょう。それは単なる「命令」です。

「相手の精神」に響かせるように
「相手の行動」に浸みわたるように
「発言」するには、発言内容も重要ながら、

声のトーン・リズム、発言に相応しい表情、
を含めた立ち居振る舞いも大切になると感じます。


私自身「演説」というものは苦手ではないのですが、
(東京にいる時はそのような機会に恵まれていました)

私の演説を聴いた方々が褒めて下さった時に
「どの辺りの内容が良かったですか?」と尋ねると、

「内容は良く覚えてないけど(笑)引き込まれます」
という感想をよく頂いたことを覚えています。

これは別に「自慢」とか下らない意図ではなく、

演説というのは「内容より、もっと感情的な部分」で、
聴衆が話者と「対話」していると感じるかどうかが
鍵だと、それらの経験から結論付けました。


表情豊かに、身体を使って表現するというか。
ある種のパフォーマンス能力に近いと思います。

「発言」とは、単に「言葉」を発するに留まらず
いかに相手の精神までメッセージを届けるか?

そこまで意図されたものであるべきです。


相手の心にいかに届かせるか?という視点を欠く
言葉などは、ただの「ひとりごと」であり
「ぼやき」でしかないでしょう。

自分の精神に強く言い聞かせる場合も含め、
「発言」の先にある意志が明確にあるならば、

その「発せられた言」は強い力を有するでしょう。


その力強い「言」を放つ人は「発言力」があると、
そのように評すことができるのだと思いますね。

いかに「伝える」かということまで意識しないなら
「発言」というのは無意味ですし、有害ですらあります。

「口は災いの元」と言われるように。

しかし「口」ではなく「心」から発せられるなら
それは災いになるはずがないと私は考えます。

明確な意志で、力強くも柔らかな「言葉」を
発する人は、その先の「心」を響かせることでしょう。


「始めに、言(logos)があった。」の福音の如く。
(一個人だけでなく、各々の運命さえも!)


…と、長くなりましたし、
更新が遅くなるので今回はこの辺で。

いつもありがとうございます。


posted by laluz at 23:55| Comment(0) | 「力」を考える

2012年07月19日

「 表現力 」


皆さま、こんばんは。

日に日に暑くなっているようですが
皆さまご自愛下さいますように。

さて、今回は「力を考える」ということで
「表現力」というものをテーマにしてみます。

『日本国語大辞典』によれば「表現力」とは
「表現する能力。表現する働き」とあります。


うーん、それは分かるのですけど…
という感じなので、「表現」の項目を見てみると、

「内面的・主観的なものを、表情・身振り・言語・音楽・絵画・造型など、外面的・感性的にとらえられる形式によって、伝達するようにすること。[日本国語大辞典]」

「心的状態・過程または性格・志向・意味など、総じて内面的・精神的・主観的なものを外面的・感性的形象として表わすこと。[広辞苑]」


…というように記されています。

とすれば、「表現力」とは・・・

「心的状態・過程または性格・志向・意味など
 総じて内面的・精神的・主観的なものを、
 表情・身振り・言語・音楽・絵画・造型など
 外面的・感性的にとらえられる形式によって
 表わし、伝達することのできる能力」


と、このように言うことができるでしょう。

さて、この「表現力」なのですが、

「表現」というものが「他者」の存在を
前提にしているのならば、その表現を受け取る者の
「表現受領能力」も大きく問われてきます。


一般的には「気付かれていない」だけで
感知できる者が見れば「類稀な表現」だと
評価することは、歴史上も少なくありません。

この観点からすれば、「表現」というのは
それをキャッチしてくれる者があるかどうか
によって大きく左右されてしまうでしょう。

「表現」の相手は様々で、周囲や観客だったり、
コンクールの選者だったり、自分自身だったり。

あるいは「時代」そのものへ、あるいは
「神」に対して自分の存在を開示する、
というスタンスの表現者もいるでしょう。


「表現」しようとする者にとっては
誰に対して表現したいのか?は重要です。

「表現相手がない表現」など成立しないでしょう。

「表現」を受け取ろうとする者にとっては
その表現が何を意図しているのか、何に対して
表現されているものなのか?を考えることが、
その表現を読み解く鍵となります。

その者の「表現力」をさらに伸ばしたいなら
その観点からアドバイスしていくことが重要です。


この「表現」には芸術的性質に限らず
もちろん個々の内面性・願望・欲求などが
日々の態度・言動に表れることも含まれます。

それらの場合、表現力がないからできない、
というよりも「表現したくない」とか、
「表現すべきではない」と考えていることも
少なくないでしょう。

内面を表現したいなら、それを外部に分かり易く
伝えられるように「表現力」を磨きなさい、
…と片づけてしまうのは、とても簡単です。

しかし、それが未成年なら幾分酷でしょう。


そのようなスタンスでは、表現力も養われません。

表現することの喜びは、自分の表現によって
周囲の反応、ひいては世界が変わることの実感です。


人間は本来「表現したい動物」です。

個々の荒削りな「表現」を読み取り、
もっと自分を世界に開示せよ!と導くこと、

その「表現受領能力」という「対」があってこそ
「表現力」というものは開かれると感じます。


その相手が、「宇宙」や「神」であれば
孤独の中でも「表現」することはできますが、

一般的には、理解者を要求しますし、
その方が「表現力」も健康的に養われます。

まず、ご家庭が「理解者」となりましょう。
そうすれば、「非凡の芽」は開かれます。


この「表現」が受け入れられるのかどうか…
と計算的配慮が先行するのではなく、

(もちろん他者加害禁止法則は働きますが)

「表現」することが「私そのもの」だ!
 という「生」の純粋発現が根幹にある方が、
 やはりエネルギーを感じるものです。

「人生」というのは自己表現の舞台、

各々の表現相手に対して、大いに
喜怒哀楽を表現して行かれればと思います。



というところで、今回はこの辺で。

いつもありがとうございます。


posted by laluz at 23:55| Comment(0) | 「力」を考える

2012年07月11日

「 包容力 」


皆さま、こんばんは。

今回は「〜力を考える」ということで
「包容力」というものについて。

「包容力のある人」というのは 褒め言葉の中でも
レベルが高いものだと思いますけれど、
一体どういう意味なのでしょう?

「包容力」とは・・・

「過ちや欠点なども含め、相手の様々な点を
 受け入れることができる心の大きさ」


…と、大体このように集約できるでしょう。

まさに相手や事象を包み込む器量を
示唆しているわけですね。

(欠点の場合は、包み込んだままではなく
 一旦受け止めつつも、相手が進化できるよう
 フォローしてあげることまで要求されるでしょう。)


「優しい」けど物足りないというのは
そこについてのニーズに対応できていない、
おそらくそういうことだと推察されます。。

「基本的に少しのワガママは許してくれて
 でも、ダメなことをした時は叱ってくれる」

というニーズ(主に女の子からの)に
男の子たちは対応できるのでしょうか?


精神が成熟してきた年齢においては
ワガママというよりは心が不安定になる時に
大樹に寄り添う如く落ち着かせてくれる器量、
強い日差しや豪雨から静かに守ってくれる器量、


そういうニュアンスを含むでしょう。

積極的な「優しさ」ではないものの
相手が必要な時に「頼りになる」というのは
なかなか高度なスキルだと思いますね。

自分自身を支配できていなければ、
相手を包み込む安定感もないでしょうし、

余裕のある時は優しいけれども
疲れていたり余裕がない時は違うというのは
「包容力がある」とは到底言えないでしょう。



あらゆる変化についてうろたえることなく
知力をもって臨機応変に対処できるスキル、

それらを磨いていかなければ「包容力」
というのは身に付かないものかもしれません。

人生そのものを感謝して受け入れることで
あらゆる全てを「包容」することができる、
そういう構図があるように思います。


自分の人生を笑顔で楽しんでいる人に
人々は惹かれていくものですし、

その時空の半径内に入った人を
和やかに微笑ませることができるなら
それはそれで知的な包容力でしょう。

自分周囲の遍く全てに思いを馳せて
自分の意識半径を拡大させていきながら
お互いに包容しあえると良いですね。


それでは、今回はこの辺で。

いつもありがとうございます。



posted by laluz at 23:30| Comment(0) | 「力」を考える

2012年07月05日

「 視力 」


皆さま、こんにちは。

「更新に代えて」さえ書けていないのは
怠慢かもしれませんけれど…

今回は「力を考える」ということで
「視力」について取り上げてみます。

「視力(しりょく)」とは、
 目で物体を識別できる能力、とされます。

ただ、「視力」と一口に言っても、
どのような状況で物体を識別するかで
静止視力・動体視力・深視力などに
分類されていきますね。


(…と、15時から授業なので中断です。
 続きはまた23時以降に。。

 いつもありがとうございます。)


…と、続きですが、

動体視力は「動いている物体を
(視線を外さず)持続して識別する能力」

深視力は「遠近感や立体感を正しく把握する能力」


とされています。

一般的にいう視力の善し悪しは
「静止視力」で最小視角の逆数で表され、
1分(1分は角度を表す単位で、1度の60分の1の角度)
の視角を確認できる能力を、視力1.0といいます。

視力表から5メートル離れて行われる視力検査の場合、
視力表で視力1.0に該当するランドルト環(C文字)は
「高さ7.5ミリ、文字の太さ1.5ミリ、切れ目部分の幅
1.5ミリ」で、この「切れ目部分の幅」が視角1分と
されています。5メートル離れた地点から、この1.5ミリの
切れ目を確認できれば(ランドルト環の向きがわかれば)
1.0の視力がある、ということになります。


確認できる最小視角が2分なら視力はその逆数
1÷2で0.5、10分なら1÷10で0.1というわけです。

さて、このような静止視力だけでなく
動体視力や深視力・視野など総合的な「視力」
というのは、脳を刺激する上でも大切です。


視力回復トレーニングというものも
少なからぬ需要があるように、

日本においては小学生の時から視力が低下している
者が多いとされ(文科省の学校保健統計調査に
よると小学生で視力1.0以下の子供は約3割で、
中学生になると50%を越し、高校生では55%〜)、


勉強をしていく上で、静止視力は
犠牲となっているのかもしれません。

ただ、基本的には訓練やリハビリで獲得できる
ことも少なくないので(もちろん回復不可能な
ケースもありますけれど)、その場合は
「視力が悪い」と規定せずに回復する意識は
持っていた方が良いでしょう。


「頭が悪い」と思っているよりは
「頭が良い」と内心で思っている方が、
 脳力は伸ばしやすいのと同じように。

(もちろん慢心が愚かしいのは以前も述べた通りです)

レーシック手術で矯正すればいいんじゃない?
あるいは、実際にレーシック施術済みだけど?

という方も意外と多い昨今ですが、

事前に予防ないし自力で克服できるなら
それに越したことはないでしょう。

目を酷使しない配慮を持たなければ
目に負担がかかることに変わりはありませんし。


…ということで、視力が健在な方は視力に感謝し
日々支えてくれている眼を労わってあげましょう。

人はいつ視力を失うか分かりません、

視力を失ってしまった方の世界を想起し、
最低限、配慮できるよう心がける責務もあります。


(中途半端で使えない知識を義務教育で教えるより
 目隠しで街を歩く盲導訓練や車椅子移動体験など
 していく方が、知力を伸ばせるでしょうね。。)


それでは、今回はこの辺で。

いつもありがとうございます。




posted by laluz at 14:00| Comment(0) | 「力」を考える