2019年05月17日

「 感応力 」


皆さま、こんにちは。
4月に続いて月2回目の更新です。

5月後半は久々の"「力」を考える" で
(2013年01月09日以来 6年4ヶ月ぶり!)
「感応力」というものを見ていこうと思います。


感応・・人によっては馴染みが薄いかもですが
私はよく使います(大抵は不思議なお話の時に)。
漱石『吾輩は猫である』でも印象的に使われていたり。

感応(かんのう/かんおう)とは
どういう意味なのでしょうか。

著名辞書の定義を総合すると…

@信心が神仏に通じること。(仏教用語)人に対する仏の働きかけとそれを受け止める人の心。
A外界からの刺激によって心が深く感じ動くこと。
B電気・磁気が、その電場磁場の中にあるものに対して作用を及ぼすこと。電磁誘導など。


…といった意味になるでしょう。

第一義が仏教語なのは意外でしょうが、
「感」…仏の救済しようとする心を 衆生が感じる
「応」…悟りを求める衆生の願いに 仏が応ずる
という趣旨に由来します。


現代に通常用いられる場面ではAの意味ですね。
(Bの意味では「誘導」の方が多く用いられます。)

感応=外界からの刺激によって心が深く感じ動くこと
共感=他の考え・感情などに内面的・心情的に同調すること
共鳴=他の考えや表現・行動に内的外的に同調すること


…といったニュアンスですかね、大まかに言えば。

「共感」は対生命ですね、「椅子に共感する」とは言わない。「共鳴」は共感に近いですけど、共に鳴り響くというように 内面的・心理的同調に留まらず、身体的反応も暗に含みます。また「大自然に共感する」と言わないけど「大自然に共鳴する」とは言えるでしょうから対象も幅広い。

その辺り 「感応」は「共鳴」に近いものの
概ね内面的・心理的反応に留まるような印象です。

ただ、「感応」は非日常的・神威といった
人智を超えたモノ、平常は感覚しないような
精妙なる何か、を対象に含むように思います。

各々 何となくの違いが伝わるでしょうか。

この辞書的定義に即していなくとも、
「外的要因を感覚して反応する」という意味で
「感応」を用いていることも多いですけれど。
テレパシー(telepathy)も「精神感応」と訳されますし。

整理してみると、「感応力」とは

「通常は見過ごされているような因子について
 繊細に感じ取り、身体的・精神的作用として
 反応する能力」…もっと具体的にいえば、

「神秘的因子や芸術的・自然的現れに対する直感、
 あるいは他存在の表情・声質など雰囲気から
 相手の感情心理・周囲の状況を敏感に感じ、
 反応・対応する力」という感じでしょうか。



私の教え子には 一風(すごく?)変わった方も
多いですけど、非凡な方向性は多岐に渡ります。
例えば「視えないモノが視える」子とか様々で。

一般的には理解されにくい性質の領域事項であれば
「あまり他者に話せない(話しても意味がない)」ので
真剣に応答・解説すると、妙な信頼関係が生じます。

あまり書くと「先生、とうとうオカルト話題を解禁?!」
となってしまうので、内容には立ち入りませんけども。


私自身かなり奇蹟的な不思議体験を多々しているので
世に「精査なく一笑に付することのできる事象はない」
と心から思っています。

世にいう超常現象・神霊系の類その99.99%は
根拠のない妄言・空想と感じますけど、
その0.01%は未だ人智が追い付いていない
秘奥の一端かも知れません。
(0.01%を秘すための99.99% というべきか)

実際、「音」にしても可聴音域は動物種によって異なり、
経年劣化によって可聴帯域も狭くなっていきますよね?
(モスキート音など高周波はその好例です)

でも、超音波もヒトに聴こえないだけで
音としては確かに存在している。

「『存在している』と断言できるモノなど
人間界には何も無い」と言ってしまえば
その通りですけど…一現象として知覚可能性は在ったというか。

視界にせよ「可視領域」外の不可視光線も
「視えないだけで『存在』はある」ため
ヒトには不可視光でもある種の動物は知覚できたり。

*ちなみに「電磁波」のうち「最も周波数の低い極超長波からマイクロ波まで= 電波」、マイクロ波よりも周波数が高い「遠赤外線から可視光線(+紫外線)までの周波数の電磁波=いわゆる「光」、紫外線よりさらに周波数が高い(波長が短い)電磁波は、X線やガンマ線と呼ばれます。

…と補足が長くなりましたが、

外的な要因を感覚器官を通じて受け止め、
身体的・精神的な作用として照応するか、
すなわち「感応」できるかは個体差がありますよね。

ある周波数の電磁波を受信してそれを正確に
翻訳・変換など出来るかどうかの問題と
そもそも波が来ているかどうかの問題は別、

多数人に知覚できないから存在しない
=有り得ないと思考停止してしまうのは、極めて浅薄な態度です。


ただ、ここに大きな落とし穴もあります。

在るか無いかと問えば「在る」のですけど
その規模・程度が正確でなければかえって有害です。


感応力が高い人というのは、繊細で神経過敏、
いわゆるデリケートな人のことではありません。
それは「感受性」が高いというだけであって、

周囲・対象と同化することでその本質を肌で感じ
そのことで自らがどのように反応行動するのかを
主体的に決めるという図式こそ大切です。

感受性が高くても、その反応が受動的なら
神経がすり減ってストレス過多の生きにくい世界になるでしょう。



私も幼少期は、大変に神経質で気難しい子でした。
その辺りは以前にも触れたので繰り返しませんが、
IQが極めて高いからと原因が分かってからは
その対処を自分なりに修正することができました。

この種の話を自慢と捉える向きも世にありますが
実際誇れることではなく「見えている世界」が
周囲と違うというのは、幼少期ではなかなか
気づきにくいもので、幸運なフォロー理解がなければ
精神崩壊したり自死したり、或いはサイコパス的に
暴走するパターンも珍しくありません。

「そうなる理由」を極めて自然に納得できる人と
そうでない人とではそれこそ「異世界」の如く
相互理解は容易でないでしょう。

高IQ児というのは「情報や刺激で脳が溺れそうな世界」
に住んでいるので、その辺りの実体験を踏まえて、
いかに溺死せず世界を慈しんでいくかという
理解ある導きが不可欠になってくるのです。

欧米ではギフテッド教育が用意されていますが
日本では放置に等しいですからね…



話を戻すと、在るか無いかと問えば「在る」ので
有り得ない!と断言する相手に対して憤る方も
あるでしょうが、ではどれくらいあるか?
といえば無視できるほど些少の時もあります。

0(ゼロ)か0.01かという話を0か1かと
同列に話すのはそれはそれで大変です。


感応力というのは、誰も気づかない0.001の
些少な因子・変化まで感受することが出来ながらも
それについて現状でどのように反応すれば良いか
自ら決することができる能力と言えましょう。

特に問題視・開示するほどのことでなければ
自分だけが密かに認識していれば良いし、
些細でも重要な事実なら然るべく
対応することができる能力。。



…というようなお話を、一般的には
理解されにくい世界に住んでいる子には
相手が望む限り 何となくお話したりします。
(年齢や理解能力に応じて変わりますけど )

随分と長くなりましたが…
最後にこの引用で終えましょう。

-----------------------------------------------------

それら天地万物は人間であるオノレがそのように目で見、心に感応しているからそのように存在しているので、実際にはそんなものはない。〜(中略)〜 要するに、人間が天地万物なるものを認識しているのは、人間の心には天地万物と霊犀相通ずる感応力があるからであるという。いやいや、その天地万象も人間の心も二つのものではない。天地万象も人間の心も、「同体である」という。「だから心をつねに曇らさずに保っておくと、物事がよくみえる。学問とはなにか。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」

-----------------------(司馬遼太郎『峠(上)』)



継之助の陽明学自体には賛否両論あるにせよ
この「感応力」については深みがあります。


「学び」とは一生涯そのもの。

心を澄ませ感応力を澄ませながら
周囲・世界を在るがままに受け止め、

受動的に振り回されるのではなく
主体的に慈しんでいけるように。


…というわけで、「感応力」でした。

皆さまとの時間は、崇高な「感応」を
もたらして下さる一期一会の天恵です。

いつもありがとうございます!


posted by laluz at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 「力」を考える

2013年01月09日

「 暗示力 」


皆さま、こんにちは。

1月7日には「七草粥・七種粥」のことを
ゆるやかに書いておこうと思っているうちに、

1月8日(今や9日)になってしまったので、
また2014年にでも書くことにしましょう…。

というわけで、今回は久々の「力を考える」、
「暗示力」というものでも考えてみます。


「暗示力」=「暗示する力」なのでしょうから
「暗示」というものを少し見てみますと、

「暗示」とは・・・

(1)直接的にはっきりと示すのではなく、それとなく
  分かるように示すこと、手掛かりをそれとなく
  示すこと。そのための行為・物。

(2)知覚・観念・意図・行動などが、言葉その他の
  シンボルなどにより、理性に訴えることなく
  無意識のうちに伝達・受容される現象。
  また、そのきっかけとなるもの。suggestion


・・・というような意味といえるでしょう。

字義的には(1)(2)どちらとも「暗示力」の意味で
使えると思いますが、「自己暗示力」など一般用法
としては(2)の意味で用いられる方が多いはず。

要するに「暗示力」とは、言葉・象徴・サイン等により
自己あるいは他者の思考・感覚・行動を操作・誘導する力、


このように定義することができるでしょう。

さて、この「暗示力」を「自己に対して暗示をかける力」と
「他者に対して暗示をかける力」に分けて考えてみますと、

前者は「自己暗示力」とよく言われるもので、
イメージトレーニングなどもここに含まれます。

当ブログでも以前に述べてきたことですけれど、
「自分は頭が良い」と確信することも自己暗示です。

「脳の使い方」でも触れたので詳述しませんが、
自分の目標や成功イメージを明確に描けている人は
確実にその目標に近付きます(時間がかかるとしても)。


(もちろん物理的障壁がなければ…の話です。
 翼が生えているイメージを明確に持っていても
 物理的な翼が、ある日突然生えては来ないように。

「精神的な翼」を獲得することは可能ですけれど。)


自己暗示とポジティブ思考とは違うものです。
自己暗示は、ポジティブにもネガティブにも働きます。

要するに、人間というものは強力な暗示イメージに応じて
容易に左右されてしまうので、肯定的な暗示なら肯定的、
否定的暗示なら否定的な影響を受けるという意味です。

暗示力が強いと言っても、破滅的傾向の強い人なら
ネガティブな暗示を自分にも他者にも投げかけます。
まるで「呪い」のように。

明朗な未来志向型の人なら、肯定的な暗示を
自他ともに投げかけることでしょう。

その力が神聖にまで高められれば、その暗示は
まるで「祝福」のようになります。


強力な言葉の力で、雰囲気を飲み込む力がある人は
容易に他者を「暗示」にかけることができます。
マインドコントロールと言っても良いでしょう。

占いによる「暗示」あるいは催眠状態による「暗示」は
その最たるものですが、「あなたに危機が迫っている」
と鬼気迫る様相で暗示にかけると、不幸なことに実際
そうなったりします。自分で危機を引き寄せるわけで。


(多くの霊感商法もそうでしょうね。
 不安の暗示をかけるのは一種の呪いです。)


ああ、不安で仕方ない、とか。
失敗したらどうしよう、とか。。
人生、上手くいかない、とか。。。

それは見事な「暗示」、きっとそうなるでしょう!

それを自分自身でオーダーしているのですから
その注文結果が確実にお届けされるのは必然です。

逆に「信念が本物なら、確実に実現するよ」と優しく
肯定して背中を押すなら、その「暗示」は「祝福」となり、
その者を目標へ引き寄せることでしょう。



そういうわけで、人の生は「言葉」で左右されます。

「感謝の言葉」で充たしていれば、日々そうなりますし、
「不平不満の愚痴」で充たせば、日々そうなります。

相手(友人・家族・恋人や配偶者でも)は「ダメだ、
上手くいくはずがない」と思えば、そうなるでしょう。

「いつも、いてくれてありがとう」と思えば
傍にいてくれてありがたい存在に近付きます。



「暗示力」とは万人が持っている能力ですが、
その力を上手く効果的に使えるかが明暗を分けます。

自分だけでなく、周りの人々に対しても、
ネガティブな「呪い」をかけるより、幸せなる
「祝福」の言葉を投げかけるようにしたいものです。



…というわけで、「暗示力」でした。

皆さまの2013年は、良き暗示をもって
さらに「祝福ある日々」となることでしょう!


いつもありがとうございます。


posted by laluz at 01:30| Comment(0) | 「力」を考える

2012年11月07日

「 基礎力 」


皆さま、こんばんは。

今回は久々に「力を考える」ということで
「基礎力」というものについて。

「基礎が大事だ」とか「基礎力がない」とか
何となく言われている言葉ですが、その実は
「どういう意味」なのでしょうね?


「基礎」とは何か?というものを分からずして
「基礎が大事」とだけ言われても困りましょう。。

「自分に必要な『基礎』が何か」分かれば
目標達成は近いことは間違いありませんが、

そもそも「基礎って何?」というところが難問です。。


「神は、愛そのものなのだ。」と仮に言われても
「そこでいう『愛』って何?」となるように。

「その実、何も言っていないに等しい」わけで。

(知識の容量が増えれば、どんな人とでも
「近似値」を推論して共有できますけれど)


さて、「基礎」とは・・・

・物事が成り立っているおおもと、根本。
・建築物などを安定させるために設けた土台、礎。
・建築に先立って地面をならし、固めること。


・・・と、このような意味で使われていますね。

とすれば、「基礎力」というのは、

1.物事を成り立たせるための根本となる力、
2.より大きな物を安定させるための土台となる力、
3.建築に先立って地面をならし、固めていく力。


…と、このようなニュアンスで理解できるでしょう。


その上に、何を発展・展開させていくか?に応じて、
支えるために必要な「基礎力」の内容も変わります。

ここで「数学における基礎」を考えてみましょう。

(「人生における基礎」でも本質的には同じです)

まず、対象となっている「基礎」がどの部分か?
それを意識することが最も重要です。

東京大学を志望する人にとっての「基礎」と、
小学生で九九の計算がまだ完璧ではない子にとっての
「基礎」とは、その内容に大きな隔たりがありますが、

九九が重要な基礎であることに変わりありません。

数理的土台を組み上げていくパーツとして、
加減乗除の四則演算は、最重要な基礎です。

それだけでは東大数学は解けませんが、
それがなければ絶対に合格することもできませんね。

要するに、どこまでが最小限必要なパーツかは
自分の目標レベルによって変わってきます。


ただ、必要最小限のパーツ(標準問題の公式・解法)を
覚えただけでは、難関数学は解けません。

「基礎を使いこなす」練習が必要です。

九九を覚えたという小学生でも、順番に最初から
数えないと分からないようでは理解したと言えません。

また、四則演算を覚えたと言っても、

(2÷3)+5÷(2+4×4-3) などのように、複雑になると
解けないというのでは、理解したとは言えませんよね?

基礎公式は覚えたけど、自由に変形できないのでは
「基礎」が築けたとは言えないわけです。

(上手な話し方、書き方などをマニュアルで学んでも
 臨機応変に使えないようでは意味がないように。)


それでは、「基礎」を使いこなす練習を重ねれば
どんな難関数学でも解けるようになるか?と言えば、
「そうです」と断言できない面もあります。

「問題を解く」という形式には、大きく2種類あります。

1つは、与えられた「条件」を上手く崩したり
変形させたりして、「解」にバラしていくパターン。

もう1つは、基本パーツを積み重ねていって、
想定される「解」を完成させるパターン。


一般的には「問題を解く」という文字通り、
前者のパターンを練習することが多いでしょう。

このような「形」が出たら、このように崩していって
それから、その崩したパーツを組み合わせていって…
というように、解法リズムを練習していくわけです。

しかし、それは「完成形」を崩していくだけで
本来的には「創造的」行為ではありません。

「基礎」というものが、その上に築かれるための
土台であるように、数学というものも基本パーツを
積み重ねて、更なる高みに到達する営みです。


従って、難関数学においては、単に「解く」よりも
基本パーツを使って「解を探す」「証明する」という、
より創造的な思考を要求してくることになります。

「創っていく」のか「崩していく」のか。

このアプローチの違いを意識することです。


この模型を、壊れないようにキレイに崩して下さい、
というのと、このパーツを使って上手く組み立てて
下さい、というような違いですね、例えてみると。

どちらも「基礎」の理解が必須です。

しかし、何もないところから「組み立てていく」のは
形あるものを「崩していく」より遥かに難しいもの。

同じ「基本パーツ」を使っていても。

東大・京大であっても、時間内で解く「入試」である点、
小問形式による誘導などがあったりしますが、
難関を志望する上で「基礎」を固めるというのは

「基本パーツを正確に理解し、その基礎の上に築かれる
議論を意識した上で、組み合わせを学ぶ」ことです。


青チャートだけで東大理系数学をクリアできるか?
というような不毛な議論も古くからありますが、

結論を言えば「その基本を自由に組み立てられるよう
意識した実戦演習」を進める方なら合格できます。

逆に、そのような「組み立て方」を意識しない限り
どんな演習テキストを使っても、数学力は付きません。

(入試数学をクリアするだけなら可能としても)

自分にとっての「基礎」とは何か?

目標達成のために必要な土台は何かを考え、
その土台をしっかり築くための「基礎」は何かを
逆算して、現段階で必要な「基礎」を把握すること。

この思考は、何も受験・学問に限らず、
人生全てにおいて有意義なものだと思います。


「基礎力」とは、

自らの目標を実現させるために必要な土台を築き、
その土台を積み重ねていくことで地盤を固める力、

そして物事を成り立たせる根本となる力は
他ならぬ各人の強い意志です。


「全ては基礎あるのみ」という言説は
究極的には「意志があるか否か」に帰しますね。


…と「何も述べていない」に等しいわけですが、
実際そうなのですから仕方ありません。

逆に言えば、「強い意志」という揺るぎない基盤が
自己の深奥に築かれるなら、もうブレることはないはず。

どのような試練でも支えきれる
究極の「基礎」があるわけですからね。



・・・と、長くなったのでこの辺で。

不定期更新ながら多くの方々にご訪問頂き

いつもありがとうございます。



posted by laluz at 23:45| Comment(0) | 「力」を考える

2012年09月26日

「 支配力 」


皆さま、こんばんは。

今回は「力を考える」ということで
「支配力」を取り上げましょう。

このブログ記事でも「自分を支配」やら
「時間を支配」やら「運命を支配」やらと…
「支配」という単語は頻繁に用いられていますね?


故に、「先生は支配したいタイプなのですか…?」

…というような俗な質問を稀に受けたりしますけど、
「他者を支配したい」という発想はないです。。

You can have no dominion greater or less than that over yourself

(あなたは「自分自身に対する支配」の他には、
 どのような支配権も持つことはできない。)


…というのは真理だと思うからです。
(ダヴィンチの名言で述べましたように。)

「自律」できていれば、他者を支配しようとも
他者に支配されたいとも思わないはずです。。

…と、本題に流れを戻しますと、

この「支配」という意味は・・・

1. 分け与える、分け配ること。負担を分担すること。
2.統治すること、治めること。
3.組織に勢力・権力を及ぼして、意のままに動かせる状態に置くこと。
4.人や物事に影響を及ぼして、その考えや行動を束縛すること。


・・・と、概ねこのような意味合いです。

「支配する」というのは、自らの力の影響下に置くこと
という意味が一般的に強いですが、本来的には
「分け与えること」にその本質があるわけですね。


物資や義務・負担を分け与えることを司る、
すなわち「配分を支える」から「支配」という…。

仕事や給料などを配分する者に逆らえば
それは人生を左右されてしまうということで
現在的な「支配」という意味合いが強くなったと。


さて、このブログでいう「自分を支配」とは?

そうです、自分に必要なものを過不足なく
自らで配分していくことを担う、という趣旨です。

「運命を支配」「時間を支配」全て同じです、
自ら分け与え、分け配ることの統率。


この意味で「相手を支配」することを考えると
「相手のニーズに必要な要素を分け配ること」、
ここに主眼が置かれるのだと気づくでしょう。

高圧的、強権的に抑圧下に置くのとは違います。
それは誇り高き知者の態度ではありません。

相手・運命の挙動を予測計算し、それに必要な要素を
臨機応変に「配分・配置・配材」すること。

「支配力」とは、発展的未来への配慮の力。

それこそが知者としての「支配」の在り様かと。


「相手を意のままにする」ことへの欲望、
それらは自律できていない精神弱き者の
コンプレックスの具現とも言えましょう。

「相手に服従する」ことへの傾倒、
それらも自律できていない弱さからくる
精神的安楽・安逸への欲求の具現でもあります。


時間の配分・エネルギーの配分・愛情の配分etc.
様々な局面において「配分」の意思決定は関わりますが

それら「配分」を支えることこそ「支配」とすれば
周りの潜在性を高める方向で、助力できる者は
優しく「支配」していると評価できると思います。

(「包容」に近いかもしれませんけれど。)

まずは「自分の支配」から始めましょう。

(以前にも述べましたが)
「自分を支配すること」さえできれば、
あらゆる門を開く「鍵」を手に入れたようなもの。

ラルースで、私が伝授したい唯一の智慧は、
この「鍵」です(英語・数学など副次的です…)。


「縁」あって、私とお話しすることになった
生徒の皆さん全てに伝えられる自信はありませんが、
エッセンスだけでも感じ取ってくれると幸いです。


…というわけで「支配力」でした。

いつもありがとうございます。


posted by laluz at 23:55| Comment(0) | 「力」を考える

2012年09月12日

「 発言力 」


皆さま、こんばんは。

今回は久々に「力を考える」を更新します。

(前回の「表現力」が、7月19日付けでしたので
 約2か月ぶりということになりますね。。)


テーマは「発言力」ということで。

「発言力」とは・・・

発言によって他人に影響を及ぼすことのできる力
[精選日本国語大辞典]

発言で他人の意思に影響を及ぼす力[広辞苑]

・・・というように定義されています。


「発言力がある」とは「影響」の
大きさでもあるようですね。。

発言音量の大きさとかではなく。
発言内容も、さほど重要ではないかも…。

その言葉に込められた力というか、
威厳というニュアンスもあるでしょう。

英語では、「発言力」というものは、
a voice, a say などで表現できますが、
まさに「声」という意味そのものに通じます。

相手の「耳」に、正確に言えば「心・精神」に
自らの「声」すなわち、意見・主張を
いかにして届けることができるか?

というのが「発言力」の核でしょう。


武力や威圧によって相手を物理的精神的に抑圧し、
反論・反抗を許さない状況下で「発言」すれば
その主張は通るでしょうが、「発言力」があるとは
言えないでしょう。それは単なる「命令」です。

「相手の精神」に響かせるように
「相手の行動」に浸みわたるように
「発言」するには、発言内容も重要ながら、

声のトーン・リズム、発言に相応しい表情、
を含めた立ち居振る舞いも大切になると感じます。


私自身「演説」というものは苦手ではないのですが、
(東京にいる時はそのような機会に恵まれていました)

私の演説を聴いた方々が褒めて下さった時に
「どの辺りの内容が良かったですか?」と尋ねると、

「内容は良く覚えてないけど(笑)引き込まれます」
という感想をよく頂いたことを覚えています。

これは別に「自慢」とか下らない意図ではなく、

演説というのは「内容より、もっと感情的な部分」で、
聴衆が話者と「対話」していると感じるかどうかが
鍵だと、それらの経験から結論付けました。


表情豊かに、身体を使って表現するというか。
ある種のパフォーマンス能力に近いと思います。

「発言」とは、単に「言葉」を発するに留まらず
いかに相手の精神までメッセージを届けるか?

そこまで意図されたものであるべきです。


相手の心にいかに届かせるか?という視点を欠く
言葉などは、ただの「ひとりごと」であり
「ぼやき」でしかないでしょう。

自分の精神に強く言い聞かせる場合も含め、
「発言」の先にある意志が明確にあるならば、

その「発せられた言」は強い力を有するでしょう。


その力強い「言」を放つ人は「発言力」があると、
そのように評すことができるのだと思いますね。

いかに「伝える」かということまで意識しないなら
「発言」というのは無意味ですし、有害ですらあります。

「口は災いの元」と言われるように。

しかし「口」ではなく「心」から発せられるなら
それは災いになるはずがないと私は考えます。

明確な意志で、力強くも柔らかな「言葉」を
発する人は、その先の「心」を響かせることでしょう。


「始めに、言(logos)があった。」の福音の如く。
(一個人だけでなく、各々の運命さえも!)


…と、長くなりましたし、
更新が遅くなるので今回はこの辺で。

いつもありがとうございます。


posted by laluz at 23:55| Comment(0) | 「力」を考える

2012年07月19日

「 表現力 」


皆さま、こんばんは。

日に日に暑くなっているようですが
皆さまご自愛下さいますように。

さて、今回は「力を考える」ということで
「表現力」というものをテーマにしてみます。

『日本国語大辞典』によれば「表現力」とは
「表現する能力。表現する働き」とあります。


うーん、それは分かるのですけど…
という感じなので、「表現」の項目を見てみると、

「内面的・主観的なものを、表情・身振り・言語・音楽・絵画・造型など、外面的・感性的にとらえられる形式によって、伝達するようにすること。[日本国語大辞典]」

「心的状態・過程または性格・志向・意味など、総じて内面的・精神的・主観的なものを外面的・感性的形象として表わすこと。[広辞苑]」


…というように記されています。

とすれば、「表現力」とは・・・

「心的状態・過程または性格・志向・意味など
 総じて内面的・精神的・主観的なものを、
 表情・身振り・言語・音楽・絵画・造型など
 外面的・感性的にとらえられる形式によって
 表わし、伝達することのできる能力」


と、このように言うことができるでしょう。

さて、この「表現力」なのですが、

「表現」というものが「他者」の存在を
前提にしているのならば、その表現を受け取る者の
「表現受領能力」も大きく問われてきます。


一般的には「気付かれていない」だけで
感知できる者が見れば「類稀な表現」だと
評価することは、歴史上も少なくありません。

この観点からすれば、「表現」というのは
それをキャッチしてくれる者があるかどうか
によって大きく左右されてしまうでしょう。

「表現」の相手は様々で、周囲や観客だったり、
コンクールの選者だったり、自分自身だったり。

あるいは「時代」そのものへ、あるいは
「神」に対して自分の存在を開示する、
というスタンスの表現者もいるでしょう。


「表現」しようとする者にとっては
誰に対して表現したいのか?は重要です。

「表現相手がない表現」など成立しないでしょう。

「表現」を受け取ろうとする者にとっては
その表現が何を意図しているのか、何に対して
表現されているものなのか?を考えることが、
その表現を読み解く鍵となります。

その者の「表現力」をさらに伸ばしたいなら
その観点からアドバイスしていくことが重要です。


この「表現」には芸術的性質に限らず
もちろん個々の内面性・願望・欲求などが
日々の態度・言動に表れることも含まれます。

それらの場合、表現力がないからできない、
というよりも「表現したくない」とか、
「表現すべきではない」と考えていることも
少なくないでしょう。

内面を表現したいなら、それを外部に分かり易く
伝えられるように「表現力」を磨きなさい、
…と片づけてしまうのは、とても簡単です。

しかし、それが未成年なら幾分酷でしょう。


そのようなスタンスでは、表現力も養われません。

表現することの喜びは、自分の表現によって
周囲の反応、ひいては世界が変わることの実感です。


人間は本来「表現したい動物」です。

個々の荒削りな「表現」を読み取り、
もっと自分を世界に開示せよ!と導くこと、

その「表現受領能力」という「対」があってこそ
「表現力」というものは開かれると感じます。


その相手が、「宇宙」や「神」であれば
孤独の中でも「表現」することはできますが、

一般的には、理解者を要求しますし、
その方が「表現力」も健康的に養われます。

まず、ご家庭が「理解者」となりましょう。
そうすれば、「非凡の芽」は開かれます。


この「表現」が受け入れられるのかどうか…
と計算的配慮が先行するのではなく、

(もちろん他者加害禁止法則は働きますが)

「表現」することが「私そのもの」だ!
 という「生」の純粋発現が根幹にある方が、
 やはりエネルギーを感じるものです。

「人生」というのは自己表現の舞台、

各々の表現相手に対して、大いに
喜怒哀楽を表現して行かれればと思います。



というところで、今回はこの辺で。

いつもありがとうございます。


posted by laluz at 23:55| Comment(0) | 「力」を考える

2012年07月11日

「 包容力 」


皆さま、こんばんは。

今回は「〜力を考える」ということで
「包容力」というものについて。

「包容力のある人」というのは 褒め言葉の中でも
レベルが高いものだと思いますけれど、
一体どういう意味なのでしょう?

「包容力」とは・・・

「過ちや欠点なども含め、相手の様々な点を
 受け入れることができる心の大きさ」


…と、大体このように集約できるでしょう。

まさに相手や事象を包み込む器量を
示唆しているわけですね。

(欠点の場合は、包み込んだままではなく
 一旦受け止めつつも、相手が進化できるよう
 フォローしてあげることまで要求されるでしょう。)


「優しい」けど物足りないというのは
そこについてのニーズに対応できていない、
おそらくそういうことだと推察されます。。

「基本的に少しのワガママは許してくれて
 でも、ダメなことをした時は叱ってくれる」

というニーズ(主に女の子からの)に
男の子たちは対応できるのでしょうか?


精神が成熟してきた年齢においては
ワガママというよりは心が不安定になる時に
大樹に寄り添う如く落ち着かせてくれる器量、
強い日差しや豪雨から静かに守ってくれる器量、


そういうニュアンスを含むでしょう。

積極的な「優しさ」ではないものの
相手が必要な時に「頼りになる」というのは
なかなか高度なスキルだと思いますね。

自分自身を支配できていなければ、
相手を包み込む安定感もないでしょうし、

余裕のある時は優しいけれども
疲れていたり余裕がない時は違うというのは
「包容力がある」とは到底言えないでしょう。



あらゆる変化についてうろたえることなく
知力をもって臨機応変に対処できるスキル、

それらを磨いていかなければ「包容力」
というのは身に付かないものかもしれません。

人生そのものを感謝して受け入れることで
あらゆる全てを「包容」することができる、
そういう構図があるように思います。


自分の人生を笑顔で楽しんでいる人に
人々は惹かれていくものですし、

その時空の半径内に入った人を
和やかに微笑ませることができるなら
それはそれで知的な包容力でしょう。

自分周囲の遍く全てに思いを馳せて
自分の意識半径を拡大させていきながら
お互いに包容しあえると良いですね。


それでは、今回はこの辺で。

いつもありがとうございます。



posted by laluz at 23:30| Comment(0) | 「力」を考える