2018年03月05日

2018年3月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年第2の月も過ぎていきましたね、

毎年この時期には触れておりますけれど
個人的な節目となる誕生月の如月を見送り、
創造の光に照らされる時季を迎えました。

受験生にとっては人生を左右し得る試練が
2月にありましたが 各々の理想・志望を
力強い意志で現実のものとされんことを
心からお祈り申し上げるばかりです。



花散らで 月は曇らぬ よなりせば
 ものを思はぬ わが身ならまし



(花は散ることなく月も曇ることがない世界であったなら
 あれこれ物思いに耽ることはなかったであろうに。)



2018年は西行法師の和歌をテーマに…
ということで今回も『山家集』から。

花は散り 月は曇るが故に物思いが
絶えないという、反実仮想の歌です。 

有機生命体は、生に終焉が有るが故に
生が貴いものと知り感じ得ます・・

…と、有機生命体といってしまうのは
マズいですね…不死の生物もいますから。

人間においても「不死」はともかく
「不老」のニーズは非常に高いので
遺伝子治療など医療倫理的に許容される限り
遅かれ早かれ 実現していくでしょう。

ともあれ、現段階では、花は散り、
人は老いるからこそ物思いに耽ると。

受験生にとっても「皆が合格」なら
思い悩むことなど無くなるでしょうけれど

現実はそうではない。


ただ、日本では約23.5秒ごと1人が世を去り
世界では約10秒間に18人が天に還りますが

そのことを常に深く嘆く人も少ないように
結局のところ人間は自分の関われる範囲しか
認識できない訳で、それが正常でもあります。

細胞 いや、もっとミクロな世界では
目覚ましい生成消滅が繰り返されていますが
それについて深く自覚することもありません。

そうしてみれば、花鳥風月の趣だったり
俗世の損得・勝敗・高低…などといった
「認識しやすいレベル」のものに焦点を
あてて 物思いに耽っているわけです。

宇宙スケールで 地球を眼下に望みますと
月は雲ることなく、太陽も沈みません。

物思いに耽りたいから耽っているのが
人間なので、それは弱さではなく特権
というべきかもしれませんね。

西行も「あれこれ思い悩まずに済むものを…」
と、詠んでいながら それを悲観している
わけではなく その人間の性(さが)を
含めた 諸行無常を表現しているはず。

…兎も角も、現世における一切合切を
思い悩むも良し、笑い飛ばすも良し。
全ては各々の思うがまま為すがまま、
諸行無常を楽しんで行きましょう・・

という感じで 強引に終えるとします。



全ては移ろい行く世界ではありますけれど
その中で 必然に選ばれたご縁によって、

長いお付き合いをさせて頂いている皆さま、
新しくご縁ができた方々の諸々のお心遣いに
いつもながら深く感謝申し上げます。

慈愛に満ちた春光が
生命を優しく照らしていく3月も
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつもありがとうございます!


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2018年02月04日

2018年2月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年の初月が過ぎていきましたが、
皆さま 益々ご清栄のことと存じます。


(「新年の誓い」…2017年に引き続いて
未更新のまま時宜を過ぎてしまいました。
今年はさて?とチェック下さった方々には
ご期待に沿えず、すみません。。)


…と、「新年の誓い」の記事更新ならずも
慣例の神宮参拝を終え、2018年の至高の日々と
来る2019年の開幕に御礼申し上げた次第です。

2016年2017年は春にも神宮に訪れましたので
1年毎の区切りという意味合いは薄れながらも
元日の恒例儀式として「精神を純化する」
という意味合いは全く変わることなく。

今年は想定外のハプニングもあって
適宜に襟を正すことが出来ました。

神宮には1年(或いは生前全て)の感謝を
申し述べに参りますが、その意味合いと等しく
皆さまにも 心からの御礼を申し上げます。



去る1月は センター試験・成人式と、
人生の節目となる行事がありましたけれど、

どのような経路にせよ 確かな志がある限り
目的地へ近づいているのは間違いありません。

どのような経路にせよ 与えられた日々が
充たされたものであるようお祈り申し上げます。



今さらに 春を忘るる 花もあらじ

やすく待ちつつ 今日も暮らさむ



(今更 春を忘れて咲かない桜の花もあるまい、
心安らかに花開くのを待ちながら今日も過ごそう。)




『山河集』より 西行法師の歌です。

2017年まで、芭蕉の句を月初挨拶で
引用して参りましたが、2018年からは
西行法師の和歌に依ることにします。

芭蕉も西行法師を敬い奉っておりましたし
世の深奥を探るには、相応しいでしょう。

ただ、 神・仏 を媒介に 世を詠む歌も
少なくないので、あまり偏ることなく
広く万人が知的反響を感じられる題材を
挙げて行きたいと考えています。

さて、西行法師は 今までも幾度か
触れましたけれど、簡単に紹介すると
( wikipediaから引用 )

西行(さいぎょう:1118年2.16〜1190年3.31)
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士
・僧侶・歌人。俗名は佐藤 義清(のりきよ)。
出家して法号は円位、のちに西行、
大本房、大宝房、大法房とも称す、と。


後世に遺した和歌・思想の影響は大きく
芭蕉だけでなく多くの才人に崇敬されました。

さて、その「人となり」については
追々のんびりと考察することにして。


今回の一首について観てみますと、
といっても特に説明する必要もない
シンプルな歌。だからこそ貴いというか。

桜の開花時期は3月下旬〜ですので
引用には適時ではないかもしれませんが、
大学・高校など各種試験が前後にある今、
晴れやかな心持ちで桜花を迎えたい方々に
とっては、時宜に適うかなと思いまして。

もちろん「開花に至るまでに必要な作業」を
各々為してきたという前提ではありますけれど、

適時適切に為すべきことを為していれば
自然の摂理に従って 花が咲き開くように
各々の目指すべき道も開かれるはずです。

昨年2017年2月は芭蕉の句を挙げて、

外見の華やかさではなく、内面から放たれる輝きこそ
真実の「花」、というところに核心を置くならば
現代の我々にとっても心に響くでしょう。

あらゆる「外装」を除いて考えた時でも
自然と解き放たれる内面的魅力があるのなら
それこそまさしく「真実の花」です。


・・と、述べました。西行の和歌にある
「花」も、精神的高みに咲く花と読み込み、
過度に焦ることなく、日々清浄に過ごして
行けるなら それこそ至上でしょう。

既に春の陽気を麗らかに感じておられる方も
厳しい寒さの中を 頑張っておられる方も、
新しい春の巡りに際して、各々の「花」が
高貴に開かれる日を 祝福下さいますように。

それでは、今回はこの辺で。

掛替えなき2月の日々もまた
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつもありがとうございます!



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2018年01月03日

「2018年」の始まり



年頭にあたり、謹んでご挨拶申し上げます。

旧年中は並々ならぬご厚情を賜り、御礼申し上げます。

本年もご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い致します。

 




 正月たつ 春のはじめに かくしつつ
 相し笑みてば 時じけめやも
  



牟都奇多都 波流能波自米尓 可久之都追 安比之惠美天婆 等枳自家米也母
むつきたつ はるのはじめに かくしつつ あいしえみてば ときじけめやも


(睦月立つ初春に、こうして互いに笑みを交わせるのは 時期に外れたことでしょうか?いえ、頃合に相応しくこの上なく喜ばしいことです。)


「万葉集 巻第十八4137番」大伴宿祢家持の歌。

お正月・成人式など…長い間、離れていた面々が
ふと再会し談笑する機会も多い時季でしょう。

自らの才覚を高め、限界を突破しようと
日々研鑽することは重要ですけれど
「何気ない時間」に何もしないという
ことは、実は一層に有意義なことです。

「縁ある人々と笑みを交わす」というのは
何でもないことではありますが、それゆえに
意識して大切にしておきたいものですね。

自らと会う皆々が笑顔で接してくれるには
あらゆる意味で自身が大器になっていかねば
なりません。とはいえ、そんな過程を全て
超越した高みから、ニコニコと迎えて下さる
のが、偉大な御年輩の方々でありますけど…。

せいぜい数十億秒の人生です、
どうせなら笑みを交わして過ごしましょう。


この2018年という尊い月日を通して、

各々にとって苦難艱難に克つべき試練もあるでしょうが
栄光に至ったときの多くの笑顔をイメージしながら

自他ともに楽しんで行かれますように。




それでは、年頭のご挨拶まで。

皆様の益々のご清栄を、心よりお祈り申し上げます。



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2017年12月31日

2017年の終わり


皆さま、こんばんは。

いよいよ2017年を見送って、
2018年を迎える時となりました!

2017年の日々も 皆さまには
公私にわたって大変お世話になりました。

毎年同じことを申し述べておりますが
2017年も有り難い日々を過ごせましたのは

ひとえに皆々様の温かいご支援のお蔭と
ただただ感謝するばかりです。



年くれぬ 春来べしとは 思ひ寝に
 まさしく見えて かなふ初夢



西行法師の句です。

年も暮れ、春がまさに来るぞと思いながら寝たら
その夢に見たことが本当に見えて初夢が叶ったよ


・・・と。当時の背景を慮ると色々な解釈が
出来ると思いますけれど、シンプルに読むと
こんな優しい句に捉えることも出来ましょう。


座右の銘というものに当たるかはともかく
ある意味で「確信」している真理として

Whatever you ask in prayer,
believe that you have received it,
and it will be yours.
(Mark 11:24)

・・があります。この点については
以前述べましたので繰り返しませんが、

2018年も素晴らしい日々になると
確信とともに寿ぐならば、そうなります。

新しい年において「見たい夢」を
快い心持で強くイメージしながら
2018年において着実に現実化される様を
大いに楽しんでいかれますように。


兎にも角にも 2017年の終わりに際し、

私と時間を共有している生徒さんやご家庭、
関係諸子の方々全てに心から御礼申し上げます。

この1年間の御高恩に対する謝意を
言い尽くすことはできませんが…
2017年 ありがとうございました!



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2017年12月05日

2017年12月の始まり



皆さま、こんにちは。

とうとう2017年の約93%が過ぎ去りましたが、
皆さまお変わりなくお過ごしのことと存じます。

皆さまの御蔭で2017年も有難き日々を頂き
此度も師走を迎えることができました。

今までと これからの全ての「ご縁」に
心からの感謝を申し上げる次第です。




白菊の 目に立て見る 塵もなし
  芭蕉



しらぎくの めにたててみる ちりもなし

(白菊の花は、目をこらして見ても 塵一つない清らかさをもっている。)


眼前の白菊に喩えて、女主人・
斯波 園女の清楚な人柄を讃えた挨拶吟。

西行『山家集』にある、

くもりなき かがみの上に ゐる塵を
目にたてて見る 世と思はばや


…を踏まえたものと考えられています。

西行の一首は非常に難解で、この真意を考えるには
回を改める必要がありますが(それこそ神道・仏法を
探究しつつ人世を哲学していくことに等しいほど)、

芭蕉の句はこの上なくシンプルです。
(シンプルだからこその深奥の秘?)

白菊の清浄清廉の美が 際立つ洗練さ。


先月(2017年11月の始まり)の回で、
「この道を 行人なしに 秋の暮」に続く
句も連ねていたのですが…と述べましたけれど、

芭蕉の句は、余命をカウントするかの如く
以下のように詠まれていきます。


• 松風や 軒をめぐって 秋暮れぬ

• この秋は 何で年寄る 雲に鳥

• 白菊の 目に立て見る 塵もなし

• 月澄むや 狐こはがる 児の供

• 秋深き 隣は何を する人ぞ

• 旅に病で 夢は枯野を かけ廻る



そうして芭蕉は世を去るわけですけれど
「白菊の〜」は死の2週間ほど前に
詠まれたわけです(生涯最後の句会で)。

そうしてみると、本当に澄み渡るような
「曇りなき美」を讃えたものと言えましょう。


さて、興味深いのが次の句です。



月澄むや 狐こはがる 児の供

(月が澄んでいる夜、児の供をして歩くと、
 狐が出たのを 怖がったものだなぁ)




芭蕉は俳聖として有名であり、和の心に響く
名句を世に遺した才人でありますけれど、
神ならぬ人間です。ですので、世人の如く
恋愛もしてきたわけですが、衆道(男性愛)の
気色も併せ持っていたと言われています。

芸術家において同性愛は何ら珍しいことではなく
(レオナルド・ダヴィンチから枚挙に暇なし)
我が国においても古来から男の同性愛・少年愛は
武家支配層から中流層まで公然と知られていました。

(英雄色を好むに性別問わず…正に男女平等?
 幕府財政が逼迫する江戸末期から徐々に
 「労働力の生産性がない」ことから非難・
 弾圧されていくようになるわけですが。)


一応「塾ブログ」的なカテゴリーにある点で
この句はスルーしようかとも思いましたが…
死期にあってあえてこの句を詠んだ俳聖に
敬意を払う意味から 触れておきますと。

・・といって特に猥雑な意味合いはなく
むしろプラトニックな愛情表現というか、

純粋に愛おしく愛でるような心持ちを
死の間際に思い出しながら詠んでいます。


「白菊の〜」の流れからは、老若男女の差異無く
生きとし生けるもの、万物一切を在るがまま
愛しく思うような、そんな心境に近い気がします。

男だから女だから、老齢だから幼年だからと
そんな人間の境界なく、在るがまま人間を慈しむ
そのように解釈すれば俳聖の境地に曇りなしです。




秋深き 隣は何を する人ぞ


本来、句会に出席にする予定でしたが、
句会に出られる状態ではなかったため
この句のみを出席させたのでした。

先月述べたように、蕉門派閥争いなどで
弟子たちもギクシャクしておりました。
その句会で、師・芭蕉はこのように伝えます。

隣は何をする人ぞ、と。

何をするんだろう、何をしているんだろう。
それを考えるのは、思いやりの一歩でしょう。

自分は!自分が!…ではなく、隣人は何を??
と考える契機を与え、場を和ませたかったのでは
ないかと、そんな風に個人的には捉えたいですね。

(達人の域には届かないと諦めていたにせよ…
 どの門弟も互い互いでの作風を重んじながら
 俳諧の道を深めて行って欲しいと願いつつ。)


死の床で、弟子たちは句会、隣は誰もなく
晩秋の寂しさを一層感じるものだなぁ…的な
そんな軽い句ではない気がします。。



旅に病で 夢は枯野を かけ廻る

(たびにやんで ゆめはかれのを かけめぐる)


芭蕉の辞世の句です。
芭蕉の「夢」とは何だったのでしょう。


弟子たちが醜く争うことなく切磋琢磨し
俳諧の道を究めていくこと?

あるいは、孤高の俳人として、
森羅万象を17文字に凝縮しようと?


…まあ、様々な思いが去来しながらの
「夢」という一語かと思います。

人が世を去る際に、自らが導いてきた子孫や
弟子・後進たちが、躍動する姿を想う時、

それはそれで「今ここに身体は消えても
夢は消えずにかけ回る」ように思うかも。



1694年11月28日に芭蕉が世を去って
実に323年を経ますが、その時を隔てても
このように芭蕉の句に触れて色々と感じ、
芭蕉の「夢」を追想する者もいますし、

「人の世の連なり」というものは
「想いの繋がり」と言えるはず。


ご子息ご令嬢を心から大切に想い、
愛情をかけて導いていかれる保護者の
皆さま方も、いつか訪れる昇天の際は
「夢」の行く末が幸せなものと願い
笑顔で見送り見守られることでしょう。

ただ、昇天の1年前は?10年前は?今は?と
遡っても、その気持ちは本来変わらないはず。


日々刻々どの時々も 人生最期も 変わらず
大切な人を想い合って、互いの「夢」を
自由に高めて行かれますように。

偏見・先入観に囚われることなく
曇りなき鏡のような清浄な精神を以て

先人の願い・夢に想いを馳せながら
自らを神聖に輝かせて下さればと思います。




…というわけで、長くなりましたが
芭蕉最期の句でした。師走に「最期」を
辿った以上、月初挨拶の芭蕉シリーズは
ここで一区切り付けることに致します。

まだまだご一緒に考えておくべき名句は
多くありますけれど、それは個別の機に。

(2018年からのテーマは決めていませんが
 同じようなスタイルで行くはずです…)




2017年の最終章も貴きご縁に充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます!



(今月の第2回目更新はどうなるか未定ですけど
 時間が許せば16日前後に1つ挙げたいです…)

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2017年11月05日

2017年11月の始まり



皆さま、こんにちは。

2017年 第10番の月も過ぎました。
2017年の約83%が過ぎたことになりますね。

収穫の秋を見送りながら冬の到来に備える月ですが、
皆さま 極上の晩秋を楽しんでおられることと思います。

(一昨年=昨年の冒頭部あえて流用しました…2年とは早いもの)



秋の夜を 打ち崩したる 咄かな

(あきのよを うちくずしたる はなしかな)



元禄7年9月21日の夜、車要亭。潮江車要・各務 支考
といった門弟らが集まり、この句を発句として
半歌仙が巻かれました。

*歌仙とは、五七五の句と七七の句を交互に計36句詠む
 俳諧形式の一つ。半歌仙は半分の18句。



秋夜の趣深い静寂さを打ち崩してしまう賑やかさ。
といってもそれは興を削ぐ忌避すべき騒雑さではなく、
ある意味「秋の寂しさ」を打ち壊してくれるような
知己との語らいを指していることでしょう。

この頃、芭蕉門派では主導権争いに関わる対立があり、
師・芭蕉は深く心を痛めていたと言われています。
当日、緊張関係にあった槐本之道(近江蕉門)と
濱田酒堂(大坂蕉門)が同席していました。

言葉少なく しんみりとした寂しい秋夜ではなく
談笑に華が咲くような一門であって欲しいという
師の想いもあったはず(この句が発句なので)。



おもしろき 秋の朝寝や 亭主ぶり  

(おもしろき あきのあさねや ていしゅぶり)



9月22日朝「宵寝はいやしく、朝起きはせはし」と添えて。
まあ 早寝早起きそのものに価値はないと考えている点は
個人的に芭蕉に同意しますね、朝に寝ることに意義あれば
それはそれで是。早寝早起きに意味あればそれが是というか。

亭主がゆっくりとした朝寝をすることで、
客人もゆったりした朝を過ごすことが出来ます。
そういう亭主ぶりと昨夜遅くまで語らった
ひと時を慈しむように詠んだ句。

芭蕉の死期は もうすぐに訪れます。



この道を 行人なしに 秋の暮

(このみちを いくひとなしに あきのくれ)



門弟と談笑する師・芭蕉と、妙なる領域に到達した
俳聖・芭蕉。先の二句が師・芭蕉としての歌なら、
この句は いわば俳聖としての孤独を詠んだもの。
事実上の辞世の句とされています。


「この道」の先にも後ろにも 行く人の姿はない。
芭蕉の歩んできた俳諧の道には、先にも後にも
続く者がいない。至芸の極みに立つことは、
孤独感の中で暮秋に佇むようなもの。

門弟らはどちらが優れているとかどうとか
俗的な醜聞の中で迷い、万物総て芸術として
高めていく精神領域に弟子がないという寂しさは
賑やかな「噺」や「朝寝」では打ち崩せぬもの。


ちなみに『笈日記』では、

人声や この道帰る 秋の暮

・・と記されています。

各務支考の『芭蕉翁追善之日記』に、
「此の道を〜」といずれを残すか考えていた
様子が記されていますが、「人声や〜」の方が
なんとなく人間味を感じます。

「この道帰る」の主語が人々なのか芭蕉なのか
どちらにでも取り得るから かもしれません…


人の声がするから この道を帰る、というのは
芭蕉が弟子たちや世人の賑やかな声を聞き、
孤高に歩んできた道から振り返ってこちら側
(=浮世)を見る、というような感覚で
個人的には解釈したいところです。

世を去る間際に、今までの崇高な歩みを
人声で振り返るという情景も、それはそれで
大きな優しさを感じるものだと思いますけれど。

しかし、芭蕉は「師」ではなく「求道者」として
「誰もいない世界」を詠んだのでした。


『笈の小文』で風雅俳諧の道をこう述べています。


「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。

しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。」

「造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」



俳諧という風雅の道は、自然にしたがって
四季の移り変わりを友とすること。
見るもの全てが花であり、思う所全てが月である。
天地自然に従い、天地自然に還りなさい・・と。


この領域からすると、
「この道を 行人なしに 秋の暮」でこそ
芭蕉の風雅は完成したと言えるのかもしれません。

静かに暮れゆく秋のように
この約20日後に芭蕉の命数も尽きるのです。


・・・と、草稿では、この後に続く句も
連ねていたのですが、ちょっと長くなり過ぎて
「11月の始まり」としてはまとまりに欠くので
キリの良いところで留めておきます。


「月初のご挨拶」としてはそうですね…

各々志す「道」を歩んで、或いはこれから
歩んで行かれることと思いますけれど

どの道であっても「究める」には
相応の覚悟と研鑽が無ければならない。

ただ、その道中は孤独の時間が多いかも
しれないが、いつでも振り返ると自らを支え
励まし 呼んでくれる「声」があるはず。

常に孤高の領域を突き進むだけではなく
遍く声に耳を傾け、歩んだ道を振り返ることも
また道を究める過程の一つである、


と、強引にマトメてお許し願いましょう。



というわけで11月、心身ともに寒さを感じ始めますが
四季も全て在るがまま 楽しんで下さいますように。

季節の移り変わりが在るがまま自然であるように
各々の進化も在るがまま自明でありましょう。


この11月も素晴らしいご縁で充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。


*11月は、半ば頃にもう一度
記事更新したいと思っています。



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2017年10月04日

2017年10月の始まり



皆さま、こんにちは。

2017年 第9番の月も過ぎました。
2017年もすでに約75%を終えたことに。

皆さまにおかれましては 秋の収穫を
優雅に楽しまれておられることと存じます。




川上と この川下や 月の友   芭蕉




・・美しい句です。意訳を付そうとしましたが
ちょっと出来ませんでした。この洗練された美を
長々と説明的に訳することに何の意味があるのか。

シンプルの極致に遍く「繋がり」が凝縮されています。

長年連れ添ったパートナーが天に召される間際に
相手に対して優しい笑顔で「ありがとう」といった時、
横にいる誰かが「この言葉は〜という経緯から
〜という気持ちが込められているのです…」とか
言葉では説明し尽くせないモノがあるように。



句の念頭にある「友」とは山口素堂とされますが
それはひとつのきっかけに過ぎません。

「月の友」はまさしく「この満ちた月」を眺める
全てであり そして「この川」を通じて
全てと繋がっているという。


「私にとっての友」ではなく「月にとっての友」かも?
月が優しく眼下の存在を友のように慈しむ、みたいな。

まあ この辺りは句意から離れるでしょうが、
それでも柔らかな情景の中に、因果連関さえ
詠み込まれているような壮大なスケールを感じます。

「俳聖」といわれる意味が分かるような気がしますね
まさに 神の(というか人智を超えた)視点。


この同じ川上に 同じ月を眺めている友を想い。
「空間」的に離れてあっても「川・水」で繋がっていて
あるいは「時間」的に離れてあっても
「月・光」で繋がっている。

宇宙スケールで考えると、人間さらには動植物全て
一つの小さな球体上で 命を寄せ合う共生体。

ひと時でさえ離れられない「つながり」の中で
(意識できるかはともかく)支え合いながら
せいぜい数十億秒ほどの命を灯しているのに、

些細なことで怒り争ったり、離別を悲しんだり
そんなことを繰り返すのも愛おしいというか
微笑ましいかもしれませんね、月の視点からは。



・・・とはいえ、智の醸成という見地から
対極思考」を旨とする私の立場としては
「全てが全く切り離された世界・時空」を
同時にイメージしても行きますけれど。

次元を超えた先に「因果・縁起」というもの
を想定できるなら、それらを完全に排除した
領域(?)というものはあるのか。

あるとしたら全ての「因」である宇宙開闢・
天地創造の瞬間しかないかもしれませんが、
それさえ絶対的「無」ではないかもしれない。

「アルファであり、オメガである。
 最初であり、最後である。
 初めであり、終りである」点(?)こそ
 原初的「無」と言いたいだけかもしれない。


…まあ「酸素」を吸って生かされている以上
「つながり」のない世界を想起するなどは
現実空間の前提条件を取り払える「夢」の中で
思考実験するしかありませんから、ゆっくり
ウトウト考えていくことにしましょう。。


・・というわけで宇宙まで脱線しましたが
壮大な優しさを感じる芭蕉の句でした。

「水」と「光」の日々の恵みを改めて想い
周囲との「つながり」に敬意を払いながら
宇宙創造の時まで「脳」を遊ばせてみるのも
望月の夜には趣深いことと思います。


ちなみに「宇宙図2007宇宙図2013
(C)科学技術広報財団のリンクを載せておきます。

ご興味のある方は「脳との散歩」のお伴に。


それでは、今回はこの辺で。
いつもありがとうございます!



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