2018年08月05日

2018年8月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年 第7番の月も過ぎました。
2018年の約58%が過ぎたことになりますが、
熱烈な日々をお過ごしのことと思います!




露おもみ そのの撫子 いかならむ
荒らく見えつる 夕立のそら



(雨露の重みで 庭の撫子はどうなっているだろうか。
 荒々しく見えた夕立の空だったけれど。)




「撫子」=ナデシコ科ナデシコ属の植物ですが
和歌の多くは「河原撫子」を指すようです。

カワラナデシコ/学名 Dianthus superbus L.
var. longicalycinus (Maxim.) Williams

ナデシコ属の属名 「Dianthus」は
ギリシャ語の Dios(神ジュピター)
+ anthos(花)が語源なので、
「神の花」という意味ですね。

superbus(気高い、素晴らしい)なので
Dianthus superbus=気高き 神の花・・



ただ、Dianthus superbus の種名は
蝦夷河原撫子(エゾカワラナデシコ,
学名 Dianthus superbus L.var. superbus)
を指しますが、これより萼(がく)が長いので
変種名 longicalycinus(長い萼の)が付くと。

L. とか(Maxim.) Williams は命名者なので
本歌の撫子は「(長萼の)気高き 神の花 」
という名を持つ お花です。

ちなみに カーネーションもナデシコ属で
(学名: Dianthus caryophyllus L. )
「神の花」属の一員ですね。

中国由来のセキチク(Dianthus chinensis L.)
が唐撫子(カラナデシコ)と称されたのに対して
河原撫子=大和撫子(ヤマトナデシコ)と
区別されるようになったと言われますが、

浜撫子(Dianthus japonicus Thunb.)が
日本の"神の花" という学名なので
唐(chinensis)と大和(japonicus)なら
浜撫子の方が腑に落ちましたね…



・・と、「ナデシコ」の花々は
我が子を撫でるように愛すべきとか
神の花と言うべきほど素晴らしいとか
そのように受け容れられてきた訳です。

ナデシコ論 はこの辺りにして
和歌の方に戻りますと、

激しい雨の後、撫子の花たちは
大丈夫だろうか…と心配している情景。

撫子の場所に居ないのが秀逸ですね、
激しい夕立さえ自身は遭っていないかも?

黒い雨雲が撫子が咲く庭の辺りに向かって
いるのが見え、激しい夕立が予想される中
大丈夫であろうか…と心配させられる
そんな場面が浮かび上がってきます。


比喩表現と見れば、状況が荒れるであろう
事変に、難局を超えた経験が無い若輩たちは
大丈夫か…と案ずる意味にも読めますが。


豪雨・大地震など大規模な天災が起こった時に
限ったことではありませんけれど、何かの異変が
予想される際に、近縁者の身を案ずるのは当然。

中学・高校・大学など進学を機に親元から
送り出したご家族の方々にとっても、
離れた地で異変があれば心配されるでしょう。

災害に限らず、試練・難局の真下にあるなら
心身の疲労で押し潰れないかと心配したり。

まあ「心配することが心配の種を蒔く」
として、心配されることを好まない
私のような変異種もいると思いますが、
(私と長らくお付合い下さっている方々は
クスクスお笑いになるでしょうね…)


「互いの状況を適切に把握する為に
相手の身を案ずる」のは人間の美徳の一つです。

心配かけたくないから嘘を付く…というのも
また人間の特性なので、なかなか難しいですが
少なくとも心配してくれる存在がいるなら
それだけで幸せなことと思います。

誰も心配してくれる者などいない!という
方にとっては、心配されるレベルを超えて
他者を心配する側に立つことがきっと要求
されているのでしょうね…痛みを知る者の
言葉でないと 慰めなど心に響きませんし。


ともあれ、異常気象と言うべき気候が
今後も続きますし、各々にとっての試練も
適宜あるものと思いますが…身を案じつつ
支えて下さる存在を忘れることなく、
夏の日々を歩んで参りましょう。


ちょっとまとまりが悪いですけど
更新が遅くなるので今回はこの辺で。



8月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。



posted by laluz at 11:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2018年07月16日

ささがにのいと



皆さま、こんにちは。

15日前後に改めて更新しますと
申し上げておりましたが、16日も終わり
17日を回ろうとする時間となりました。

15日頃にチェックして下さった方々には
お待たせしてしまいまして すみません。


さて、毎年7月は「七夕」をテーマに
ご挨拶をしておりましたので後日改めて
と書き残しておりましたが、2018年の
新暦七夕は未曾有の豪雨が重なりました。

…6日夜は普通にご家庭先で授業でしたが
遠くで特別警報など鳴り響く真下でも
岡山県でここまで被害が大きくなるとは…
というのが偽らざるところです。

被災された皆様ならびにご家族の皆様に
心よりお見舞い申し上げます。

被災地の一日も早い復旧を
心よりお祈り申し上げます。




このような状況下で、七夕の和歌を
のんびり鑑賞するというのもどうか
と思いますが・・鎮魂の意を込めて。



天の川 流れてくだる 雨を受けて
玉のあみはる ささがにのいと



ささがに(笹蟹)とは蜘蛛の古名。
「玉=魂」の暗喩のこともあります。


天の川から落ちる雨を受けて
まるで大切な宝玉を飾るように
蜘蛛が糸に散りばめていく様。。

本来は解説を加えるべきところ
ですけれど、個々の感じるがまま
その解釈に委ねます。


雨は、有機生命体には欠く事の
できない天恵でありながら、
惨事をも齎(もたら)します。

遺された我々においても、
小さな縁を大切に想いながら
日々を全うさせて参りましょう。


これから暑さも増してまいりますが
くれぐれもご自愛下さいますように。


本当にいつもありがとうございます。


posted by laluz at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2018年07月04日

2018年7月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年 第6番の月も過ぎました。
2018年の半分が経過したことになりますが
年頭計画に照らして諸事順調でしょうか?

まあ・・与えられた日々を感謝しながら
生きているなら 計画通りか否かなど
些事でしかありませんけれど、

2018年後半も充実した日々を
過ごして参りましょう!




むすびあぐる 泉にすめる 月かげは
 手にもとられぬ 鏡なりけり


(両手に掬い上げても 泉に宿る月影は、
 手には取って見ることはできない鏡のようなもの…)




むすぶ(掬ぶ)=左右の手のひらを合わせて
(水などを)すくう という古語ですね。
「結ぶ」の意も掛けていると思いますけど。

澄んだ泉の水面には、月影が微笑ましく
揺蕩う(たゆたう)、そんな優しい情景。

その月影を両手に掬い上げようとしても
実際に手に取ることはできません。

ただ、両手に掬った水面にも月は映ります。
まるで手鏡のようなものだけれど、それに
自分を実際に映すことはできないという。

(両手を傾けると水は溢れるし、水面に
 顔を映そうとしたら 月影が隠れます・・ )


泉に澄み映える月、両手の水面に浮かぶ月、
その狭間にいる自分、という幻想的な
反映が綺麗な和歌だと思います。



もちろん、西行の作品なので 洗練とした
言の葉の中には奥深い叡智が宿っています。

釈迦の教えでは、水面に映った月に
仏や真理を見る喩えはよく用いられますが、

有名な文章では『正法眼蔵』第一 現成公案に
述べられています。少しだけ引用してみますと。

------------------------------------------------

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。
月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も彌天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。
さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。
人のさとりを礙せざること、滴露の天月を礙せざるがごとし。
ふかきことはたかき分量なるべし。


(補訳)
人が悟りを得るのは、水に月が宿るようなものである。
そのとき、月は濡れもせず 水が壊れることもない。それは広く大きな光りでありながら、ほんの僅かな水にも宿り、月のすべて天のすべてが草の露に宿り、一滴の水にも姿を宿す。
悟りが人を壊さないのは、月影が水を穿つことがないのと同じ。
また人(の小ささ)が(大いなる)悟りを妨げないのは、
(小さな)露が(大きな)月を拒まず受入れるのと同じである。
一滴の水に映る天月の深さは、実際の天月の高さに等しい。


------------------------------------------------------

・・というように。(拙訳ではありますので
高僧老師には誤りを諭されるかもしれませんが
「大いなる叡智」の探究という見地からは
大きく乖離していないと信じます。)



それを踏まえても、両手に掬い上げた水面に
月を映しながら それに自分を映すというのは
知的な遊び心を感じて 興味深い試みです。

あえて奥深く読み込むと、悟りの境地に至れば
もはや「自我」はなく「叡智の鏡」に自らが
映ることは無くなる…とも言えましょうか。


ただ、先月も書きましたように、西行は
煩悩ともいうべき恋慕の情を あえて
捨て去ろうとしませんでしたので
この和歌についてもそこまで説法じみた
無粋な意図はないように感じます。

水月は、文字通り「目前にあって手に届きそう
なのに自分のものにすることはできない」
=叶わぬ恋 の暗喩としても用いられますし、

その意味では「結び」=縁を結ぶという
意味で、待賢門院璋子との恋を重ねている
と 微笑むこともできましょう。


…という感じで、30余りの文字の配列に
天と月・悟り・恋・・と詠み込む西行の歌でした。

情景的にも涼やかで、蒸し暑い時期に
脳への清涼剤にもなる気が致します。

ちなみに『正法眼蔵』は難解ですが
「第一・現成公案」の巻だけは
今一度お読みになると良いでしょう。
「悟りとは何か」を示したものです。

現代語訳も色々ありますが、中には
ちょっとこれは誤訳かな…という類も
あるので、何通りか目を通しながら
自分なりに思考していくことが大切です

(「学び」全てに言えることですね )。


※ 長らくお付合下さっている方々には繰り返しになりますが、私という者は特定の宗派教義に与しておりませんので、宗教的な(怪しげな?)表現があっても特定の信仰を念頭には置いておりません。

むしろ…あらゆる教義・諸法・賢書が説き示す叡智の根源は「一」であると日々感じていますけれど、その信条さえ唯一絶対のものとは思っていませんので、へーこんな考え方もあるんだなぁ程度に お気楽に思索を楽しんで下されば幸いです。



かなり中途半端ではありますけれど
(想定の着地には長文過ぎたので)
今回はこの辺で終わります。

蒸し暑い季節となりますが、天月・森羅万象を
自らに投影させるがごとく澄み切った精神で
涼やかに7月を楽しんで下さいますように。


7月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます!




2016・2017年と「七夕」テーマのご挨拶でしたし
2018年はスルーというのもモヤモヤするので
例のごとく15日前後にでも改めて
書き置こうかなと思っています。。


posted by laluz at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2018年06月04日

2018年6月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年 第5番の月も過ぎました。
2018年の約42%が経過、、速いです!

「時間」とは 比較的仲良くしている方だと
思うので「知らない間に時間が経ってるぞ」
という感想・感覚は 基本ないのですけど
(知らない間にお金が減ってる!が無いように)
最近ちょっと無為に過ごしてる証拠ですね・・

夢時間で3日ほど過ごしてから起きた時に
あれ?まだ今日??というのは増えているので
「知らない間に時間が増えてるぞ?」的に
思った方がいいのかもしれない嬉しい現象で
逆にのんびり怠惰に過ごす割合が増加したか…

…と、どうでもいい自問自答はさておき。



「ラルース進学塾」も皆さまの温かいご支援の下で
7年間という時間を存在し続けていることになりました。

毎年毎回に同じことを申し上げておりますが
どの年次にあっても有り難い時間で包まれました。
それもこれも、各方面各位のご厚恩を賜った故と
心より御礼申し上げる次第です。

「進学塾」というよりは「進学会」とでも称した方が
実態に適うというところでありますが、、個人的な
繋がり・ご紹介によるご依頼ご相談がほとんどの故
特に支障もない限りこのままにしておきます。


引き続きご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。






夕立の はるれば月ぞ やどりける
    玉ゆりすうる 蓮のうき葉に



夕立が晴れると月が宿っていた。(雨露の)玉を
揺り動かしながら落ち着かせていく 蓮の浮葉の上で。



西行の和歌。

雨の雫が 蓮の葉に揺らされながら、
ころころ転がり やがて葉の窪みに
ゆっくり静かに落ち着いた その
小さな雫の中に天の月が宿っている。

幻想的で美しい情景が目に浮かびます。

さて、このように雨露の中に月を詠み込む
芸術性だけ味わっても十分ではありますが、
西行の心情を前提に捉え直すと 更に
深い世界が詠み込まれています。

この「心情」を正確に説明するには
かなりの文章量を必要としますが…
一言で表現するなら「一途なまでの恋慕」。

お相手は、藤原 璋子(たまこ/しょうし、
1101年8月22日〜1145年9月10日)。
幼少から白河法皇の寵愛を受け、16歳で
鳥羽天皇の中宮に(第一皇子は後の崇徳天皇)。
23歳から院号・待賢門院(たいけんもんいん)。

璋子34歳の時、佐藤義清(後の西行)17歳。
鳥羽院の「北面の武士」として奉公する一武士と
中宮との儚き関係。璋子は魅力的だったらしく
年齢問わず奔放に恋愛を楽しんでいたようですが、
皇后相手に若き士の一途な恋が叶うはずもなく。

その想い=煩悩を断ち切る為に
義清23歳で出家したと言われています。

西行は恋歌も相応に遺していますが、
念頭にあったのは間違いなく璋子でしょう。

1145年に璋子が亡くなってからも京に還るたび
彼女の眠る法金剛院の陵墓に参りました。
忘れられない煩悩を恥じながらも
終生 忘れることはありませんでした。



さて、この待賢門院璋子ですが、第一皇子は
夫の鳥羽天皇ではなく、養父ともいえる白河
法皇との子だと信じられており、その辺りから
皇位継承争いに巻き込まれる波乱の晩年を
過ごすことになります。

没後の1156年に「保元の乱」で争ったのは
第一皇子(崇徳上皇)と第四皇子(後白河天皇)
で、後者に軍配が上がりますが、養父・夫・
実子ら権力争いの「核」でもあった女性でした。

この権力闘争を介して源氏平氏ら武家が力を
持ち始め、武家政治への門を開くことになりました。
歴史に「if」はありませんが、最初の藤原忠通との
縁談で 璋子がそのまま摂関家に嫁いでいれば、
後の日本社会は大きく異なっていたかも…。


・・という正に傾国の美女というべき璋子ですが、
時代の流れそのものに人生を大きく揺れ動かされ
続けながら44歳で崩御します。それはまるで
璋子にようやく落ち着くべき所を与えたかの如く。
極楽浄土に咲く蓮葉の上で 静かに安らかに
包まれながら落ち着く露のように。

歌中の「玉(たま)」とは 璋子の「璋(たま)」
であり、その「魂(たま)」でありましょう。

その玉に映える月は何を示しているのか。


哲学的仏教的に解すれば、俗世の迷いを離れたが
故に「月」さえ包み込める無限性・悟りの境地に
至れたとの暗示と捉えることもできましょう。

ただ、一途な想いを胸に秘め続けた西行です、
ここはきっと若き日に共に逢った月のことでも
詠み込んでいるのではないかなぁと思います。
相手の瞳に写り込んだ月を思い返していたり。

それが今、蓮の上の雫の中に 月を見ている。
ああどうか安らかにお眠り下さい 愛しき人
という優しい想いが詰まっている気がしますね。


(彼女の眠る法金剛院は、璋子自ら再興した
 寺院で極楽浄土を表現しようとした
 浄土式庭園は 蓮の名所でもあります。)


・・個人的には「法華経 涌出品」の
 不染世間法、如蓮花在水
(世間の法に染まざること、
 蓮花の水に在るが如し)と併せて

小さな雫(個々人間)にあっても
天の月(宇宙)を宿すことはできる
という流れで終える予定でしたが。

究極的に「語るべきこと」は一つなので
良くも悪くもワンパターンになりますし、
今回は西行の人間的心情に沿う形で終わります。


あらゆる小さなモノにも
偉大なるものが宿っていると知れば
精神が大きく揺れ動くことはありません。

各々にとって「静かに安らげる地点」が
どこなのかは人生で変わってくるとしても
少なくとも「自分の手を求めてきた縁」には
静かに安らげるよう導いてあげて下さいね。


(これは善行でも偽善・理想主義でもなく…
 情けは人の為ならず、全くもって自分の為
 という利己的行為なのですけども)



兎も角も 長くお付き合い下さっている方々だけでなく
あらゆる面でご支援下さっている各方面の皆々様に
改めて7周年の感謝を申し上げる次第です。



7周年ということでお祝いのお言葉を
ご丁寧に下さった方々には重ねて御礼申し上げます。

8年目も輝かしい出会いに充ちていることを
皆さまと共に 心から喜びたいと思います。



いつも本当にありがとうございます!



posted by laluz at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2018年05月04日

2018年5月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年第4番の月も過ぎていきました、
2018年の約33%が早くも経過したことに。

過ぎた時間に敬意を払い 省みながら
第2節目の4カ月も充たして参りましょう。



かたらひし その夜の聲は 時鳥
いかなる世にも 忘れんものか



2017年の5月は 芭蕉の句、
 しばし間も 待つやほととぎ す千年
…を引用しましたが、今年は西行のホトトギスを。


ホトトギス(学名:Cuculus poliocephalus)は、
カッコウ目・カッコウ科に分類される鳥類の一種。
特徴的な鳴き声と托卵する習性で知られる鳥です。

霍公鳥、杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥、
子規、田鵑、死出ノ田長、魂迎鳥…など異名が
数多いように古来から良くも悪くも人間を
惹きつける鳥(の一種)であると言えましょう。
万葉集を見るだけでも153首に登場します。


異名の由来には各説ありますけれど
中国故事由来(杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰etc.)
カッコウ誤認混同説(郭公、霍公鳥etc.)
時候由来(時鳥、田鵑 etc.)が有名です。

それらも細部は説が分かれておりますが
「子規」については定説がないようです…。
また、死出ノ田長、魂迎鳥と呼ばれるように
ホトトギスは冥界を行き来する'使い'とも
考えられてきたみたいですね。。


というわけで、情熱的・激情的あるいは
悲痛な叫びとも聴こえるホトトギスの鳴き声は
恋慕の情だったり悲哀・傷心の想いだったり、

あるいは初夏到来を告げる吉兆だったり…を
(果ては冥界まで)告げるものと尊ばれながら
人間の心情を乗せてきたと言えますね。

この「ホトトギス考」だけでも書物1巻を
要しましょうが、この辺にして本題に戻ると。


ホトトギスは(昼も)夜にも鳴く鳥です。
現代は夜でも照明電灯等で明るいため
夜に鳴く鳥も増え、特筆するほど珍しく
感じませんが、遥か昔の闇夜の中でも鳴く
ホトトギスはより一層印象的だったはず。

そういう情景を踏まえながら読みますと
なかなか奥深い歌のように感じます。
何重にも解釈可能でちょっと訳出困難です…

貴方と語り合ったその夜に聞こえたのは
ホトトギスの声。どのような世になっても
(或いは 生まれ変わったとしても)
貴方との語らいを忘れることはないだろう。


…と、こんな解釈が基本線にあると思いますが
読み手の状況によって受け止め方が異なる
深い世界が広がっていることでしょうね。

「語らい」=男女の契りという意味合いでも
古文では用いられますので、情熱的な恋慕歌
としても読めましょうし、或いは去りゆく者
との哀悼歌かもしれません。

先に逝った者との語らいか・・
自己の深奥(或いは人智を超えたもの)
との語らいかも…?


そんなこんなで ホトトギスが鳴く季節。

古より数多の人間の想いを託されて
鳴いているホトトギスに思いを遣りながら

出会い語り合う人との「時間」を大切に
「今」の集積を味わって参りましょう。



「時間」については昨年 2017年5月の始まり
でも触れていますので 読み返して下されば。

(最後ちょっと駆け足になりましたが)
今回はこの辺で。


初夏の緑風が清々しい5月も 至福の時でありますことを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつもありがとうございます!



(今月も世界情勢が許す限り 16日前後に
 もう1回更新できれば良いなと企んでいます)

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2018年04月03日

2018年4月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年 第3番の月も過ぎていきました、
2018年の約25%が過ぎたことになりますね!

1年の4分の1…といって長いか短いかは
各々の時間感覚によるでしょうが、心機一転
新しき「期」を楽しんで参りましょう。



花の色や 聲に染むらむ 鶯の
 なく音ことなる 春のあけぼの




桜が咲き誇り、日本においては入学入社など
新しい舞台に進む方も多い晴れやかな時季。

春の花々も 祝宴の陽気に包まれて
ますます優しい色に染まっているように。

木々を飛び舞う鳥たちも、満開の桜を
喜ぶかのように 麗らかな声を響かせます。


・・とまあ 実際の生態系は人間の心情などに
左右されることなく命を紡いでいるだけなので
俗な詩情に浸るのも滑稽かもしれませんけれど
多くの生命体にとって過ごしやすい季節です。

現実世界で私と面識がある御方はご存じの通り
毎日お祝い日のように笑顔で過ごしておりますので

今の季節だから殊更に祝うというわけでもなく
2018-19年度も日々刻々に敬意を払いつつ
森羅万象との対話を楽しむという感じです。


実際、外的な状況環境が内的な喜怒哀楽を
喚起する というよりは、内的な意志思考が
外的な状況環境を規定する、というのが

真理 (理解し 実践し難いものの)
だったりするので、思う存分 春の
陽気を楽しむのは素晴らしいことですね。




思ひやる 心や花にゆかざらむ
霞こめたる みよしのゝ山




霞が立ち込めて花の見えない吉野山
だけれど、花に思いを馳せるこの心が
どうして桜に届かないことがあろうか、

…と、この和歌の方がラルースの塔の
ご挨拶には相応しい気が致しますので
今月は二首を引用ということで。

小中高校・大学・大学院あるいは
企業等各組織の新たな一員となって
今後、時を経るにつれて期待・予想に
反した事態に陥る時もあるかしれませんが、

霞や靄(もや)がかかっていたとしても
客観的事象は全く変わらずそこに在ります、

そんな時も慌てず焦らず視点・支点を定めて
確かな信念・意思で歩んで行かれますように。

文字通り「祝意」に満ちる季節でありますが、
眼前に花が咲いていない時期であったとしても

眼に見えない「芽吹き」を心で感じながら
自らの「好き日」を日々創造して下さいね。



長いお付き合いをさせて頂いている皆さま、
新しくご縁ができた方々の諸々のお心遣いに
いつもながら深く感謝申し上げます。

春光が新たな創造の歩みを祝う4月も
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつもありがとうございます!


(月2回目更新は12月以来行っていないので
 状況が許す限り16日前後に1つ挙げたいです…)

posted by laluz at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2018年03月05日

2018年3月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年第2の月も過ぎていきましたね、

毎年この時期には触れておりますけれど
個人的な節目となる誕生月の如月を見送り、
創造の光に照らされる時季を迎えました。

受験生にとっては人生を左右し得る試練が
2月にありましたが 各々の理想・志望を
力強い意志で現実のものとされんことを
心からお祈り申し上げるばかりです。



花散らで 月は曇らぬ よなりせば
 ものを思はぬ わが身ならまし



(花は散ることなく月も曇ることがない世界であったなら
 あれこれ物思いに耽ることはなかったであろうに。)



2018年は西行法師の和歌をテーマに…
ということで今回も『山家集』から。

花は散り 月は曇るが故に物思いが
絶えないという、反実仮想の歌です。 

有機生命体は、生に終焉が有るが故に
生が貴いものと知り感じ得ます・・

…と、有機生命体といってしまうのは
マズいですね…不死の生物もいますから。

人間においても「不死」はともかく
「不老」のニーズは非常に高いので
遺伝子治療など医療倫理的に許容される限り
遅かれ早かれ 実現していくでしょう。

ともあれ、現段階では、花は散り、
人は老いるからこそ物思いに耽ると。

受験生にとっても「皆が合格」なら
思い悩むことなど無くなるでしょうけれど

現実はそうではない。


ただ、日本では約23.5秒ごと1人が世を去り
世界では約10秒間に18人が天に還りますが

そのことを常に深く嘆く人も少ないように
結局のところ人間は自分の関われる範囲しか
認識できない訳で、それが正常でもあります。

細胞 いや、もっとミクロな世界では
目覚ましい生成消滅が繰り返されていますが
それについて深く自覚することもありません。

そうしてみれば、花鳥風月の趣だったり
俗世の損得・勝敗・高低…などといった
「認識しやすいレベル」のものに焦点を
あてて 物思いに耽っているわけです。

宇宙スケールで 地球を眼下に望みますと
月は雲ることなく、太陽も沈みません。

物思いに耽りたいから耽っているのが
人間なので、それは弱さではなく特権
というべきかもしれませんね。

西行も「あれこれ思い悩まずに済むものを…」
と、詠んでいながら それを悲観している
わけではなく その人間の性(さが)を
含めた 諸行無常を表現しているはず。

…兎も角も、現世における一切合切を
思い悩むも良し、笑い飛ばすも良し。
全ては各々の思うがまま為すがまま、
諸行無常を楽しんで行きましょう・・

という感じで 強引に終えるとします。



全ては移ろい行く世界ではありますけれど
その中で 必然に選ばれたご縁によって、

長いお付き合いをさせて頂いている皆さま、
新しくご縁ができた方々の諸々のお心遣いに
いつもながら深く感謝申し上げます。

慈愛に満ちた春光が
生命を優しく照らしていく3月も
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつもありがとうございます!


posted by laluz at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾