2019年11月04日

2019年11月の始まり


皆さま、こんにちは。

2019年 第10番の月も過ぎました。
2019年の約83%が過ぎたことになります。

現世に不変なるものは無いと言えど
目まぐるしく対応に追われるような
事変が世界で起こっている昨今ですが…

お変わりなくお過ごしでしょうか。

こういう時季は体調を崩しやすいので
くれぐれもご自愛下さいますように。



もみぢ葉の 流れてとまる みなとには
 紅深き 波や立つらむ 


(紅葉の葉が川を流れ流れて留まる河口では、
 深い紅色の波が立つことでしょう。)



『古今和歌集』(巻五293)
 素性法師の和歌です。

「二条の后の東宮の御息所と申しける時に御屏風に竜田川に紅葉流れるかたをかけりけるを題にてよめる」と詞書にあるように、

実際の竜田川を眼前に詠んだ歌ではなく、
屏風絵に描かれた紅葉を題にして詠んだ歌です。

現実の事象を観て、そこから結末や展開を
悲喜交々に想像して詠むというのは常道ですが
そもそも想像の絵から仮想の展開を詠むという点で
想像の広がりが趣深く感じられますね。


何もない間・虚空に「動き」「変化」を加えて
「有・無限の広がり」を見出すのが
空間芸術の深奥。とすれば、静止絵の川に
紅葉の動きを与えて河口の波まで想像させる
この歌は、空間の広がりを生み出す点で
創造的想像というべき知的な美しさがあります。

(あくまで個人的な感想ですけども)


人間は日々刻々、思考認識判断を繰り返し
様々な印象感情を抱いて暮らしますが、
その思考感情の対象は必ずしも「現認」の
事象とは限りません、むしろ「眼で見たもの」
ではない伝聞で判断する方が多いでしょう。

仮に放送映像であっても、編集によって
実際の印象とは全く異なる場合もあります。
良くも悪くも「想像」が介在してきます。

例えば「地球温暖化」という議論においても
真実は温暖化どころか寒冷化に備えなければならない
かもしれないわけです、各データを多角的に見れば。

stacks-image-5f8ffb5-798x546.png
・南極ボストーク基地で掘削された氷床コアに基づくデータ
climate data より引用.

40万年前から数えても約4回の温暖化&氷寒期
を繰り返していますが、約10万年毎の温暖化も
全て「産業革命以降の急激な開発汚染・排気」
的なものなのかと言えば疑問ですよね?

(約10万年の周期で高度知的生命による文明が
 興亡を繰り返している的な異説に従うなら兎も角…)


海底火山活動の放熱による氷床・氷山の融解
それに伴う埋蔵ガスの放出による温暖化+
海面上昇、海流変化に伴う気象異常…
といった「地球の自浄システム」を前に
人間に出来る防衛など気休めのようなもの。

太陽活動の停滞周期や宇宙線量の増減による
地球の気象変動への影響について まだ
研究成果は出揃わないものの、太陽の放射量
増減の前には人類の出すCO2量など誤差…
とまで言いませんが、説得性に欠けます。



もちろん生体に有害な人工化学物質や
温室効果ガスは早急に削減根絶させた方が
合理に決まっていますが、それはあくまで
「生体球」としての地球に敬意を払う
趣旨から行われるべきものであって、

近視眼的に「温暖化」だけしか見ないのも
あまり知的な態度ではないように思います。

(寒冷化の根拠についても疑義反論あり
 温暖化危機を否定する訳ではありませんが
 寒冷リスクも念頭に置くべきという意味です。
 多様な複合要因を総合的に検証しなければ。)



環境問題に限ったことではありませんが、
文字通り玉石混交の情報氾濫の中で
総合的に真偽判断する知性がなければ、
容易に「誘導」されてしまいます。

(私が小論文対策やディベートをする時
 生徒の主張を否定することは絶対なく
 「では、このような反論については?」
 と多角的に判断することを促します。)


長々と何を言いたいか申しますと…

自分の見聞している事象・情報は
「あくまで伝聞描写で 事実の一片かもしれない」
「あるいはそもそも空想・虚偽かもしれない」
という意識を持っておくことの重要性です。



素性法師は、屏風絵は現実そのものでは
ないことを知っていますよね。
その上で、美しい空間の広がりを
現出させました。

同じ絵を見ても、流れる紅葉が
やがて堆積して汚泥に変じる
儚い面を詠むこともできますし、
それはそれでまた趣深しです。


現代においても、フィクション(虚構)は
フィクションとして楽しめば良いのですけど
その真贋を問うことなく盲信・妄信して
虚構を真実のように捉えて悲しみ狂うのは
エンターテイメントの域を超えています。

究極的に「この認識世界そのものが
フィクション(虚構)だ」という主張に対して
私は有効な反論を見出せない状況ですので

「そのまま フィクションの世界を
在るがまま楽しめば良いのでは?」
という結論に与してしまいそうですけれど。


何はともあれ、日々見聞する事象に
ついて思い惑うのも人間の特権とはいえど
どうせなら紅葉の行く末は、汚泥よりも
美しく舞う紅い波をイメージした方が
人生楽しいですよね、ということでした。

人間は苦しむ為に生を受けたのではなく
喜びを感じるために生まれ出でたので
(スパイスとしての艱難辛苦も味わいながら)
在るがままを楽しんで参りましょう。



それでは、今回はこの辺で。
いつもご訪問下さりありがとうございます。

(11月は世界情勢が許す限り 16日前後に
 もう1回更新できれば良いなと思っています)


posted by laluz at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2019年10月04日

2019年10月の始まり



皆さま、こんにちは。

2019年 第9番の月も過ぎました。
2019年も75%を終えたことになりますね。

まあ、残り10%だろうが90%だろうが
「日々時々の事象を味わい愛でる」
これこそ至高の境地と思いますので
時間に振り回される必要はありません。

各々与えられた時間を大切に
実りの秋を楽しんで参りましょう。




秋の山  紅葉をぬさと たむくれば
住む我さへぞ 旅心地する


(秋の山が紅葉を幣のごとく手向けるので、
住居に留まっている私も まるで旅をしている気になります。。)



『古今和歌集』巻五299
紀 貫之(きの つらゆき) の和歌です。


ここに言う「幣(ぬさ)」とは・・

1 祈願または罪穢れを祓うため 神前に供える幣帛(へいはく)。
  紙・麻・木綿(ゆう)などを使う。みてぐら。御幣(ごへい)。
2 旅の無事を祈って贈るもの。はなむけ。【デジタル大辞泉】



ここでは、「道中の安全を祈願する時に使う、
布や紙などを小さく切った切幣(きりぬさ)」
の方です。幣を手向く(ぬさをたむく)とは
旅立つ際に道中の安全を祈願して切幣を
紙吹雪のように降りかけるイメージですね。

最近では見かけることも少ないでしょうが
晴れ舞台や新しい門出で旅立つ者に対して
紙吹雪で送り出すのは、幣を手向く名残でしょう。

新天地への道中・現地での平穏安全を
祈願して行われる 奥ゆかしい営みです。

というわけで、秋の山が旅行道中の
安全を祈って「幣を手向く」ごとく
紅葉を優雅に降り注いでくれるので、
家にいてさえ旅先にいるような気がする
と詠んだ、とても美しい和歌ですね。



10月冒頭の引用としては、紅葉吹雪に
早すぎると言えますが、紅葉に限らず
葉が舞うことは日々ありましょう。

葉っぱが風に吹かれて自身に
優しく降りかかるような時は
あぁ自然が清めてくれているなぁ
と、心安らかに微笑むことが出来ますね。


舞う紅葉を幣に例える和歌は
少なくありませんが、厳しい冬を
越して無事に春を迎えられるように
木々山々ひいては大自然が祈って
くれていると先人は読み解きました。

日々の何気ない些細な事象ですら
どうせなら自分への餞(はなむけ)
と、良いように受け止めましょう。


「うおー 大自然いや宇宙全てが自分を
祝福してくれてる!日々謙虚に頑張ろー」

…と(ちょっと極端かもですけど)
これくらい思い続けられる人は大抵
どの道に進んでも大成しますよね。


それでは、今回はこの辺で。
いつもご訪問下さりありがとうございます。

素晴らしい秋の日々をお過ごし下さいね。


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2019年09月04日

2019年9月の始まり


皆さま、こんにちは。

2019年 第8番の月も過ぎました。
2019年の約67%を終えたことになりますね。

暑さ涼しさが入り交じり合う時期ですが
皆さまにおかれましては健やかで
微笑ましい日々をお過ごしのことと存じます。



聞くたびに いつも初音と 思ひけん
心に我は 月を見るかな 




久々の西行の(作とされる)和歌です。
「松屋本 山家集」所収。

2018年9月の引用も西行の「月」でしたね。

さて「初音(はつね)」とは鳥や虫の、
その年その季節の最初の鳴声のこと。

鳥や虫たちの季節の鳴き声を聞くたび
いつも初めて聞くような感動を味わえる
清らかな心の中に 私は「月」を見る…と。



学術的に正確なところは分かりませんが
個人的には『金葉集』所収の初音僧正、

聞くたびに めづらしければ 時鳥
いつも初音の 心ちこそすれ


の和歌を踏まえている気がします。


初音僧正と知られる 永縁(ようえん/
1048-1125年)は 興福寺権僧正・歌人。

永縁の歌ではホトトギスですけど、
現世の季節的には蝉から鈴虫のような
秋の虫たちの鳴声に変わる頃合ですね。

人は実年齢が長くなるにつれて
幼少期に初めて知覚した時のような
印象・感動を一々持たなくなります、
(それは「正常」な反応ですけど)

ただ、全ては無常であり、一時すら
「不変」のものなどない が故に、
実のところ知覚する全て「初見・初音」
ともいえるわけです。



そうはいっても、現実に社会人として
生きていく上では、目にし手に取る全てに
心を輝かせながら感動を隠さない人よりは
常に冷静さを保つ人の方が円滑な人間関係を
維持できることも多いでしょう。

その辺りは、別に「無感動」に
なる必要はなく、感動しながらも
その表現を知的で慎み深いものに
洗練させて行けば良いだけですよね?

「いつも在る日常的なこと」に慣れて
わざわざ感動しなくなるのも正常ながら

「当たり前のことと慣れているだけで、
実のところ 当然であることなど何もない」


と気づけば自然と毎回の「一期一会」に
感動を抱かざるを得ないもの。


現実社会で生きていると
なかなか大変な試練もあって
風流どころでない時もあるかもしれませんが、

理(ことわり)を突き詰めていくと
「余裕があるから風流を味わえる」ではなく
「風流を味わうから余裕が生まれる」です。


万象に対して いつも初めて相対する如く
刺激的あるいは楽しみな心持ちで
接していると 面白いことが起こります。


「己の心は世界を映す鏡」あるいは
「世界は己の心を映す鏡」

この真理の言葉の意味を
どのように解するかで人の生は
全く変わってくるように感じます。

「己の心が世界に映る」という
信じがたい「鏡の力」を呑み込めるか否か。



…と、少し和歌から離れましたが

曇りなき月のごとく磨き上げられた
心の鏡に映るモノが世界に映りますよね


というような感じで
今回は終わりに致しましょう。



9月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。



(今月も世界情勢が許す限り 16日前後に
 もう1回更新できれば良いなと思っています)
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2019年08月05日

2019年8月の始まり


皆さま、こんにちは。

2019年 第7番の月も過ぎました。
2019年の約58%経過したわけですけど、
さすがに夏らしく暑いですね。

暑さに負けずに
情熱的な日々をお過ごしでしょうか。


*通常、毎月4日には更新していますが 5日夕方と遅くなってしまいました…
4日にチェックして下さった方々にはお手数おかけしてすみません。




うき草を 雲とやいとふ 夏の池の
 底なる魚も 月をながめば


(浮草を雲であるかのように邪魔なものだと思うのだろうか。
夏の池の底にいる魚も月を眺めるならば。)



源頼政(みなもとのよりまさ)の和歌。

情景を思い浮かべてみると、とても可愛い
イメージですよね。風流この上ない描写です。


源 頼政(1104〜1180年6月20日)は
平安時代末期の武将・公卿・歌人。

保元の乱(1156)、平治の乱(1159)に際し、
いずれも平清盛に味方したので、平氏政権下で
従三位という 当時の武士としては高位に出世。
歌人として秀で、多くの歌合や歌会で活躍し、
歌仙として高い評価を受けていました

(鴨長明『無名抄』参照)。


他方、河内源氏は苦難・悲劇が続きました。
(参考:源氏系統略図genji.jpg

源為義は保元の乱で崇徳上皇側に立って敗れ、一族多くが死罪か流罪。為義嫡男の義朝は、保元の乱で後白河院に唯一味方したため助かるものの、実父の為義ら親兄弟をその手で処刑することになります(手柄の恩賞として助命を願いますが、その甲斐もなく)

続く平治の乱は、信西(藤原通憲)の横暴を正すために義朝らは兵を挙げて信西を討つも、平清盛に敗れ、息子の頼朝(当時13才)らを伴って敗走中に謀殺(頼朝は約20年配流されます)

…と、そのような源氏不遇の時代で、「平家にあらずんば人にあらず」と言われる平氏の専横に不満が高まる中、1179年平清盛がクーデターを起こして後白河法皇を幽閉すると、意を決した頼政は後白河天皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)と結んで平氏打倒の挙兵を計画し、1180年諸国の源氏に平氏打倒の令旨を伝えました。

しかし計画が早期に露見し、準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、平氏の追討を受けて宇治平等院の戦いで敗れ、自害(76才)。(この戦いで息子の仲綱、宗綱、兼綱が亡くなりますが、伊豆にいた末子の広綱と、仲綱の子の有綱らは後に頼朝の旗下、平家打倒に加わります。)


頼政と以仁王の挙兵は失敗したものの、
以仁王の令旨は大きく源氏勢を動かし、
これを奉じて配流先から源頼朝(34才)ら
諸国の源氏が一斉に蜂起し、平家を滅亡させる
大きな契機になったのでした。


ただ、頼朝は、平氏滅亡(1185年)後に父 義朝を弔うために勝長寿院を建立しますが、弟 義経とは反目し、暗殺・討伐の兵を徹底して追込み1189年に義経自害(31才)。

1199年 頼朝没(53才)後、長男頼家(1182〜1204)が家督を継ぎ二代将軍となるも、北条一族によって追放・暗殺(21才)。次男 実朝(1192〜1219)が三代将軍となるも頼家の子・公暁に暗殺(26才)。公暁も直後に討ち取られ、源氏将軍家の血統は断絶。


…と、ちょっと厚く書き過ぎましたけど
源氏の不遇・再興・断絶というテーマは
個人的に感じ入るところがあるので。

崇徳院については以前少し触れましたが
(参考:2019年3月の始まり
日本三大怨霊(菅原道真・平将門・崇徳院)
に挙がるほど畏怖の対象となっています。

まあ、暗殺・謀殺の連鎖は源平争乱期に限った
ことではありませんが、深い怨念・呪怨は
その者だけで済まず、その血脈に染み込み
血統が絶えるまで何代にも及ぶと言われます。

そのような不遇の最期であった御魂は、
手厚く弔い償い、昔も今も敬意と畏怖の念を
もってお祀りされ続けています。


…という背景知識の下で今回の和歌を
見てみますと、また違った様相を示すでしょう。


月光の照らす平家の世で
底辺で雌伏し 時を待つ源氏。

浮草が平家の者だとしたら
月光を遮る浮草を疎ましく感じるかも。
もし魚が月を眺めるような心あれば。

源氏再興の志があるならば、という
ところが、悲哀・覚悟を感じさせます。

ただ、平家の繁栄も浮草のように儚く
武家政治の基盤を築いた鎌倉幕府も
露のようにこぼれ落ちました。

浮草の下の魚を思うが如く、
浮雲の下の人間を思う
月(あるいは天)の視点。

血で血を洗う悲劇を 地球各地で
繰り返してきた人間ですけれど、
それでも苦難の時を助け合いながら
乗り越えてきたのもまた人間。

これから先、「人間」の定義も
変わっていくかもしれませんが、
遅くとも確かに進化しているので
平らけく安らけく過ごして参りましょう。



宇宙スケールで考えると、人間さらには動植物全て
一つの小さな球体上で 命を寄せ合う共生体。

ひと時でさえ離れられない「つながり」の中で
(意識できるかはともかく)支え合いながら
せいぜい数十億秒ほどの命を灯しているのに、

些細なことで怒り争ったり、離別を悲しんだり
そんなことを繰り返すのも愛おしいというか
微笑ましいかもしれません、月の視点からは。


(…と、2017年10月の始まりで触れましたように)



ともあれ、異常気象と言うべき気候が
今後も続きますし、各々にとっての試練も
適宜あるものと思いますが…身を捧げて
世を切り開いてきた先人に敬意を払いつつ、
夏の日々を歩んで参りましょう。

それでは、今回はこの辺で。



8月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。




(今月も世界情勢が許せば 16日前後に
 もう1回更新しようと思っています)

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2019年07月04日

2019年7月の始まり



皆さま、こんにちは。

2019年 第6番の月も過ぎました。
2019年の半分が経過したことになりますが
諸事において順調でしょうか?

与えられた日々を感謝しながら
生きているなら 順調か否かなど
些事でしかありませんけれど、

2019年後半も充実した日々を
過ごして参りましょう!




夏ふかみ 野原を行けば 程もなく
 先立つ人の 草がくれぬる



(夏も深まり、野原を行くと先に歩く人の姿がすぐ夏草に隠れてしまう。)



『林葉和歌集』所収
俊恵(しゅんえ、1113年〜1191年頃?)の和歌。

随筆『方丈記』を著した鴨長明は歌人でもありますが
歌人 俊恵はその師匠としても知られます。



夏草の生い茂る野原での何気ない風景。

「人が隠れるほど草が生い茂る」という場所は
山奥以外では見られにくい現代と感じますが
人々の安心安全という見地からはやむを得ない
ところなんでしょう(害虫害獣の対策上も)。

ただ、子供時代に 前が全く見えない草叢の中を
頭と身体を制御しながら分け進むという経験は
それはそれで代え難いものと思いますので、

大人のフォローの元で、キャンプ・登山などの
プチ冒険は何だかんだで重要な気がしますね。。


とはいえ、この和歌の「先に歩く人の姿が
草に隠れて見えなくなる」という状況は
現代の競争社会でも意外と当てはまりましょう。

学習・研究あるいは各種組織任務に至るまで
道なき道を行く時に、先人が歩んだ道は
まだ踏み固められておらず、後ろを付いて
いっているつもりでもすぐ見失うことが
容易に起こります。

この「見失い」は先人があえて「後行を撒いた」
からかもしれませんが、競争においてはここで
「先人を探す」かは判断を要する問題です。

先導していた者が 正道を逸れたかもしれませんし
先に行く者を見失っても、自身において進むべき
目的があるなら、それに従い自ら先導として歩むべきです。

先人を探すというのは後塵を拝することを
前提とする後ろ向きの発想ですし。

まあ、先頭を行かせるだけ行かせて
体力を温存しつつ、要所で先行すれば良い
という戦略ならそれはそれで分かりますけど…



ともあれ競争といっても、最大最強の
競い相手は自身でしかありませんので、

絶好調の時の自分を見失っても
ムリに焦って追いつこうとせずに
呼吸を正しながら冷静に歩みを
組み立て直していくのが肝要です。

この道理は、大抵の事象に当てはまるでしょう。


蒸し暑い季節となりますが、
打ち克つべきモノは「自ら」のみ
ということで、澄み切った精神で
涼やかに7月を楽しんで下さいますように。




7月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます!


(今月も情勢が許せば 16日前後に
 もう1回更新しようと思っています)


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2019年06月04日

2019年6月の始まり


皆さま、こんにちは。

2019年 第5番の月も過ぎました。
2019年の約42%が経過しましたね。


「ラルース進学塾」も皆さまの温かいご支援の下で
8年間という時を存在していることになりました。

毎年毎回に同じことを申し上げておりますが
どの年次にあっても有り難い時間で包まれました。
それもこれも、各方面各位のご厚恩を賜った故と
心より御礼申し上げる次第です。

昨年度も同じことを書いておりますが
「進学塾」というより「進学会」と称した方が
実態に適うところですけれど、


引き続きご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。





思ふこと みなつきねとて 麻の葉を
 きりにきりても 祓へつるかな


思い悩むこと全て消え去れと祈りながら、
麻の葉を細かく切って(水無月)祓をしたことだよ。



『後拾遺和歌集』所収
和泉式部の「六月祓をよめる歌」

毎年6月と12月の晦日に、諸人の罪や穢れを
祓い清めるため宮中や神社で行われる「大祓」。
6月の大祓は夏越祓(なごしのはらえ)・または
水無月祓(みなづきのはらえ)と呼ばれます。


1年の折り返しにあたる日に半年間の罪穢を祓い、
残り半年の無病息災を祈願するわけですね。

*「麻の葉を切り刻む」というのは、神々へ供えるほど貴重な物である麻を贖物(あがもの)・形代(かたしろ)として罪穢を祓うため切り裂く儀式に基づいています。


民間祭事では 輪越(わごし)祭りといって
茅(ち)の輪くぐりを行う御社も多くあります。
本来は旧暦準拠なので水無月といっても
西暦2019年だと7月31日に当たります。
(ただ 最近では1年の半分という趣旨から
新暦6月末に斎行する神社も増えています。)


「茅の輪くぐり」神事の由来については
「蘇民将来」(そみんしょうらい)の
伝説が元になっているようです。

この辺りの神事について考察していくと
すごい分量になるので今回は触れるのみで…。
*参照:夏越の祓の神事「茅の輪くぐり」のルーツ
(「世界の民謡・童謡」サイトへのリンク)



さて、神事では「唱え詞」を唱えながら
くぐるとされていますが、今回の和歌も
そのうちの一つです(神社によって変わるものの)

最も有名な「唱え歌」は、

水無月の 夏越の祓ひ する人は 千歳の命延ぶというなり
(『拾遺集』詠み人知らず)

この他には、

宮川の 清き流れに 禊せば 祈れることの 叶はぬはなし
(詠み人知らず)


私も幼少の頃は亡き祖父母に連れられて
旧暦水無月晦日の「茅の輪くぐり」に
行っていました。温かく懐かしい記憶です。

思えば祖父母には色々と教わりました、
(二人ともニコニコ微笑むだけですけど)
そのお陰で1億倍は人間的に大きく
なれたと今は安らかに思えます。

何となく思い立った時に立ち寄った神社は
お掃除をしていたりしますが(大きな神社は
ともかく)小さな祠・社の場合そこまで日々
手入れされていないので、掃き掃除をするだけでも
達成感あって気持ちが良いものです。

(そういう時は、人払いされて誰も入って来ないのですけど
大抵 不思議な動物が遊びに来てくれるので 楽しみでもあります。)



というか 自分ひいては人間の中にある
罪過(どんなに些細であっても)を
祓い清める気持ちで掃除をすると
実際すがすがしいものですし。

自室(正確には書斎・研究室)の
掃除も2月くらいから少しずつ進めて
ようやく整う算段がたちました。
(業者の方など数多の有難き助力の御陰です)


あらゆる執着を捨てて、どこまで
キレイさっぱり「無」になれるか
というのが最近の「娯楽」です。

といっても無関心という姿勢ではなく
どんな些細なことさえも(風の音とか)
ワクワクしながら生きています。

まあ、このように達観して思えるのも
物欲世界で十二分に満足できたからだと
思いますが、それもこれも全て御高徳なる
関係諸氏の温かいご支援の御陰です。



ちなみに、異説もあるのですけど
「ケガレ=氣枯れ」と捉えるのは
個人的に好きな解釈です。

死=汚れ なのではなく、
死=氣が枯れた=ケガレ です。


心身の疲労・ストレスによって
生気(精気)が衰えている状態こそ
ケガレであって、だからこそ心身を
リフレッシュして英気を養うのですね。

6月末で2019年も半分経過、
蒸し暑く呼吸も乱れる頃合です、

元気が枯れないよう しっかりと
(心身とも反省すべき点があれば改めたり)
リセットしつつ充実させていきましょう。


兎も角も 長くお付き合い下さっている方々だけでなく
あらゆる面でご支援下さっている各方面の皆々様に
改めて8周年の感謝を申し上げる次第です。


8周年ということでお祝いのお言葉を
ご丁寧に下さった方々には重ねて御礼申し上げます。

9年目も輝かしい出会いに充ちていることを
皆さまと共に 心から喜びたいと思います。



いつも本当にありがとうございます!


(今月も情勢が許せば 16日前後に
 もう1回更新しようと思っています)

posted by laluz at 16:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2019年05月04日

2019年5月の始まり



皆さま、こんにちは。

2019年第4番の月も過ぎていきました、
2019年の約33%が早くも経過したことに。

…と、続きは5日中には
更新できていると思います。

毎月4日にはアップしているところ
今回はちょっと間に合いませんでした。
ご訪問下さった方ありがとうございます。

お手数おかけしますが
後ほど改めて…宜しくお願い致します。



さて、 「2019年5月の始まり」の続きです。
元号も新たになり、祝賀ムードの日本ですね。

令和典拠は『万葉集』巻五 梅花歌の序文
です。「ラルースの塔」の年頭挨拶では
『万葉集』からの引用が多いですが、

この2019年年初はまさに巻五の梅花歌
815番
を添えました
ので 個人的には
微笑ましい縁を感じる元号となりました。

国書典拠といいながらも漢籍『文選』にも
繋がり得る点で(『文選』は元号典拠として高実績です)
今までの伝統・様式を 根底では逸脱させず
革新に踏み込んだ流れは お見事です。

「新しい時代の幕開け」というほど大げさに
構えるほどではないと思えるのも平穏な国の証。

何はともあれ 各々にとって素晴らしい時を
進めて行ければ それこそが至上です。


というわけで、今回は『万葉集』から。

この流れについて「フッ…先生ともあろう方が
ここで万葉集から引用とは凡俗の極み。他者に
予測できないことを行うというのが信条では?」
と勝ち誇る教え子もいるかもしれません。

しかし、ここで万葉集から逸れると
「おやおや…万葉集から離れるとは読み通り」
という知己もおりましょう。。と、
どうでも良い茶番はさておき、




梓弓 春山近 家居之 續而聞良牟 鴬之音

梓弓(あづさゆみ) 春山近く 家居らば
   継ぎに聞くらむ 鴬の声



『万葉集』巻十1829番・作者は不明。
万葉仮名の訓読みについては
他の可能性もありますが、とりあえず。


梓弓(あずさゆみ)は、古くは神事や出産などの際、
魔除けに鳴らす弓(鳴弦)として使用された
梓(アズサ)の木で作られた弓のこと。
春(張る)、引く、射る etc.を導く
枕詞(まくらことば)でも用いられます。

枕詞として訳出しなければ

春の山に近くに住んでいるから、
絶えず聞くのでしょうね 鶯の鳴き声を。



・・という意味合いですね、
何でもない のどかな春の情景です。


私の寝室のすぐ裏手の木々でも
ウグイスが毎朝歌って春眠を包んでくれます。

すごくキレイな美声で鳴く子もいれば
不器用というかお下手だけど頑張っている
子もいて、それぞれ個性的な歌声です。

(ウグイスは、ホトトギスに托卵されますが
 自然の摂理とはいえ、しっかり防衛しながら
 ウグイス各々の遺伝子を無事に残せるよう
 優しく祈るばかり。)


ともあれ、鶯は吉兆として尊ばれ
その排泄物も美容に用いられるほど
古くから人間に愛されてきた鳥です。

新元号の神事に魔を払う弓を張る春の日、
人々に吉兆をもたらすウグイスたちも
寿ぐように歌っている、という情景を
想起しながら5月のご挨拶と致しましょう。


そうそう、吉兆をもたらす鳥と言えば
先日キジをみました!

さすがに自宅周辺ではなく
あるお社に向かう道中で野生の雄雉に遭遇。

「啼く雉」は不吉な兆しとも成り得ますが、
眼前を優雅に歩いていたので目を見張りました。
(赤青緑メインに全体が虹色に輝くような…
雉ってこんなに美しいんだなぁと。)


ちょっとオカルトじみた内容になりますが
神様に呼ばれた者しか辿り着けないとか
言われるやや伝説めいたお社です。

直前まで場所どころか名前さえ知らず、行こうと
計画していたとかでもないのに直前2日前ほど
なぜか近くに行く流れで引き寄せられたという印象です。

数年前まで案内板もなかった上どこにあるのか
分からない山奥にあるのは事実ですが、現在では
googleマップにも表示されますし ナビ精度も
格段に上がっているのでその場所に辿り着くこと
自体はさほど難しくないように思います。

「呼ばれた者しか辿り着けない」という真意は
そのお社の場所自体ではないと今は分かります。

再建された新しい社に参拝するだけでも
十分と思いますが、離れに点在する結界を
経由して行くことで「大きな偉力」が訪れます。

山道の分岐が何箇所かあって その都度
「いや こっちが先ではない気がする」と何となく
引き返したりしたので それが「呼ばれる」ということかも。

ネット情報からすると眉唾物かなと盲信することなく
訪れたわけですが 実体験からすれば「本物」でした。

完璧に「人払い」して下さった上、御神木に着くと
木ノ葉が紙吹雪のように壮麗に舞い散る歓待を賜ったかと
思えば、頂きでの不思議な現象を動画に撮ろうとすると
(雲一つない蒼天なのに)すごい突風(旋風?)で
スマホを仕舞うまで吹き飛ばされそうになったりと
「優しくも厳しい大いなる自然」との対話そのものでした。

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…と月初めのご挨拶から逸れましたが
(これで万葉集の引用だけで終えずに済みました)
平成最後の4月には伊勢の神宮に、
そして令和の始めには不思議なお社に
お招き頂けたのも有難いご縁です。

長いお付き合いをさせて頂いている皆さま、
新しくご縁ができた方々の諸々の御配慮にも
併せて深く感謝申し上げます。


新時代の緑風が清々しい5月も 至福の時でありますことを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。



(今月も世界情勢が許す限り 16日前後に
 もう1回更新できれば良いなと企んでいます)



posted by laluz at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾