2018年10月04日

2018年10月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年 第9番の月も過ぎました。
2018年も75%を終えたことになります。

天災・人災も多い昨今ですけれど
与えられた時間がある限りは
実りある日々を歩んで参りましょう。




雲はらふ 嵐に月の みがかれて
光えてすむ 秋の空かな


(雲を吹き払う嵐に 月は磨かれて
ひときわ光が澄み輝く 秋の空です。)



「雨降って地固まる」ではありませんが
もやもやとしたものが嵐の威風によって
払われ、本来の輝きが澄み渡る…という。

台風が過ぎた後の 秋月の美しさ、
というだけでも趣深い和歌ですけれど

人間の生息領域であれば大抵の場面で
人生訓のように捉えることができますね。

嵐の猛威で 失うものもあるでしょうが
自身の輝きが増す契機にもなるんだと
上を向けるかどうか。そこが難しいところ…




もの思ふ 心の隈を のごひすてて
くもらぬ月を 見るよしもがな


(思い悩んで生じた心の影を 拭い払って
曇りなき清澄な月を見る術があるならなぁ。)



月は「変わらずそこに在る」けれども
それを美しく感じたりするかどうかは
結局のところ受容側の感性・心情次第。

イライラ怒っていれば、月が美しいなぁと
のんびり夜空を眺める時間も少ないでしょう。

まあ 思い悩むのも人間の特権なので
それはそれで拭い去るべき欠点とは
思いませんが…ただ「自らの内的心情が
外的状況を規定する」という意味では
満ち足りた明るい世界を想起した方が
生き易いかもしれませんね。。



秋の夜の 月の光は きよけれど
 人の心の 隈は照らさず



[後撰和歌集323・詠人知らず]の和歌で
西行の作品ではありませんが、知的です。

秋夜の月は清く輝くけれど、人の心の
奥底までは照らしてはくれない・・と。

恋歌として読むなら
「全てを明るく照らす月の光さえ、
 人の心の奥までは照らしてくれないから
 あの人の本当の思いはわからないよ。。」
という意味になるでしょうか。

個人的には 「全てを照らす清澄なる月光も
人の心の影までは明るく照らしはしない」
と、やや突き放した解釈で捉えたいですね。



社交辞令や建前上の応対で溢れているので
「人の本音」を読み取るスキルがないと
なかなか生きにくい世の中かも知れません。

まあ「本音」が全て分かったとしても
"それで減る"争いと "むしろ増える"争い
とでは量的に大差ない気も致しますけど。

事物のみならず人の心を含めた上でも
「自分が知覚する世界」というのは、
各々の心情に規定されるものなので

どうせなら楽しく過ごして参りましょう
というところで今回は終わります。

ちょっとおバカっぽい"締め方"ですけど
「何も考えない境地」に到達したのね…
・・と善解して頂けたら幸いです。


昨年10月は、芭蕉の
川上と この川下や 月の友
から、「つながり」を考えましたが
改めてお読み頂ければと思います。


それでは、今回はこの辺で。
ご訪問下さりありがとうございます!


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2018年09月04日

2018年9月の始まり


皆さま、こんにちは。

2018年 第8番の月も過ぎました。
2018年の約67%を終えたことになりますね。

猛暑が続いたと思えば 大型台風が通過したりと
ご不便を強いられた方もおられると思いますが
これから少しは一段落できる秋の訪れを
感じることができるでしょう。

何はともあれ、充実された日々を
お過ごしであるようお祈りするばかりです。




なにごとも 変はりのみゆく 世の中に
 おなじかげにて すめる月かな



( あらゆるものが移り変わって行く この世界にあって
  変わらぬ光で澄み輝いている月よ。)




特に説明も必要ないシンプルな和歌ですね。
だからこそ洗練された清澄さが際立つというか。

説明不要といっても、時代背景は以前触れたように
激動の真下なので「何事も変わりのみゆく世の中」
というのは、我々の想像以上の実感覚と思います。

ただ、現代は現代で、激変する時代といえます
(技術・環境の変化は筆舌に尽くし難く、また
日本においては実感しないだけで政変・紛争
 などは世界各地で続いていますし…)


事象の把握も進んで、西行の時代よりは
「月」や「光」のことも分かって来ました。

芸術表現に際して無粋に興を削ぐ意図は
ありませんけれど、「月」の表面はボコボコ
特に月の裏側は…幻想的な月の印象とは
相容れないような異様・不気味なほどの
クレーター地表ということだったり、

月は「我々が見ている側」を常に向けたまま
回っていることも、現代では周知事実ですが
表側の"うさぎ模様"は地球の重力との協働で
出来たであろうことも分かってきました。

長い宇宙時間を考えるなら「月」さえも
変わって来ましたし、変わって行くもの
ではありますが、それらを踏まえた上で
なお「不変に清澄なる月光」というものに
思いを馳せることは 大切なひとときです。

(まあ…月光の源である太陽さえ寿命があるので
 「不変に清澄なる月光」というのも幻想ですが
 そこは瞑想上の癒しのイメージというか。)




ゆくへなく 月に心の すみすみて
 果はいかにか ならむとすらむ


(在るがまま 月に想いを馳せていると 心が澄んでいき
 この果てに私の心はどのようになってしまうのであろうか)



…というイメージでしょうか。
まさに月と同化している境地。

月と同化、と自分で言ってしまうと
lunatic(狂気の)な人に思われるでしょうけど。

(実際、月の引力は、潮汐だけでなく血流にも
 影響を与えると考えられて来ましたし、あながち
"月と狼男"的な逸話は嘘ではないでしょうね。)



ただ、互いに影響し合っているということは不変。

生活環境やシステムの細部は刻々と変化しても
物事の「核」「本質」というものは容易く変化
するものではありません。

今後、人工知能が地球の行方を差配するように
なったり 地球外に移住する…というような
"大きな変化"があっても、人間の本来持ち得る
徳性やら創造性の尊さは変わらないはずです。

それに比べれば"小さな変化"といえるような
受験制度や就職活動規制、災害による住環境変化
などにおいても、各々の本質を見誤らないよう
それでも「変わらないこと」の尊さを考えながら
実りある秋日を歩んで参りましょう。



昨年度「2017年9月の始まり」は「芙蓉(Hibiscus Mutabilis)」を
テーマにしていましたが、「変化と進化」という点で
相通ずるといえますので併せて読み返して頂けば。



それでは、今回はこの辺で。。

9月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。



(今月は世界情勢が許す限り 16日前後に
 もう1回更新できれば良いなと思っています)
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2018年08月05日

2018年8月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年 第7番の月も過ぎました。
2018年の約58%が過ぎたことになりますが、
熱烈な日々をお過ごしのことと思います!




露おもみ そのの撫子 いかならむ
荒らく見えつる 夕立のそら



(雨露の重みで 庭の撫子はどうなっているだろうか。
 荒々しく見えた夕立の空だったけれど。)




「撫子」=ナデシコ科ナデシコ属の植物ですが
和歌の多くは「河原撫子」を指すようです。

カワラナデシコ/学名 Dianthus superbus L.
var. longicalycinus (Maxim.) Williams

ナデシコ属の属名 「Dianthus」は
ギリシャ語の Dios(神ジュピター)
+ anthos(花)が語源なので、
「神の花」という意味ですね。

superbus(気高い、素晴らしい)なので
Dianthus superbus=気高き 神の花・・



ただ、Dianthus superbus の種名は
蝦夷河原撫子(エゾカワラナデシコ,
学名 Dianthus superbus L.var. superbus)
を指しますが、これより萼(がく)が長いので
変種名 longicalycinus(長い萼の)が付くと。

L. とか(Maxim.) Williams は命名者なので
本歌の撫子は「(長萼の)気高き 神の花 」
という名を持つ お花です。

ちなみに カーネーションもナデシコ属で
(学名: Dianthus caryophyllus L. )
「神の花」属の一員ですね。

中国由来のセキチク(Dianthus chinensis L.)
が唐撫子(カラナデシコ)と称されたのに対して
河原撫子=大和撫子(ヤマトナデシコ)と
区別されるようになったと言われますが、

浜撫子(Dianthus japonicus Thunb.)が
日本の"神の花" という学名なので
唐(chinensis)と大和(japonicus)なら
浜撫子の方が腑に落ちましたね…



・・と、「ナデシコ」の花々は
我が子を撫でるように愛すべきとか
神の花と言うべきほど素晴らしいとか
そのように受け容れられてきた訳です。

ナデシコ論 はこの辺りにして
和歌の方に戻りますと、

激しい雨の後、撫子の花たちは
大丈夫だろうか…と心配している情景。

撫子の場所に居ないのが秀逸ですね、
激しい夕立さえ自身は遭っていないかも?

黒い雨雲が撫子が咲く庭の辺りに向かって
いるのが見え、激しい夕立が予想される中
大丈夫であろうか…と心配させられる
そんな場面が浮かび上がってきます。


比喩表現と見れば、状況が荒れるであろう
事変に、難局を超えた経験が無い若輩たちは
大丈夫か…と案ずる意味にも読めますが。


豪雨・大地震など大規模な天災が起こった時に
限ったことではありませんけれど、何かの異変が
予想される際に、近縁者の身を案ずるのは当然。

中学・高校・大学など進学を機に親元から
送り出したご家族の方々にとっても、
離れた地で異変があれば心配されるでしょう。

災害に限らず、試練・難局の真下にあるなら
心身の疲労で押し潰れないかと心配したり。

まあ「心配することが心配の種を蒔く」
として、心配されることを好まない
私のような変異種もいると思いますが、
(私と長らくお付合い下さっている方々は
クスクスお笑いになるでしょうね…)


「互いの状況を適切に把握する為に
相手の身を案ずる」のは人間の美徳の一つです。

心配かけたくないから嘘を付く…というのも
また人間の特性なので、なかなか難しいですが
少なくとも心配してくれる存在がいるなら
それだけで幸せなことと思います。

誰も心配してくれる者などいない!という
方にとっては、心配されるレベルを超えて
他者を心配する側に立つことがきっと要求
されているのでしょうね…痛みを知る者の
言葉でないと 慰めなど心に響きませんし。


ともあれ、異常気象と言うべき気候が
今後も続きますし、各々にとっての試練も
適宜あるものと思いますが…身を案じつつ
支えて下さる存在を忘れることなく、
夏の日々を歩んで参りましょう。


ちょっとまとまりが悪いですけど
更新が遅くなるので今回はこの辺で。



8月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。



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2018年07月16日

ささがにのいと



皆さま、こんにちは。

15日前後に改めて更新しますと
申し上げておりましたが、16日も終わり
17日を回ろうとする時間となりました。

15日頃にチェックして下さった方々には
お待たせしてしまいまして すみません。


さて、毎年7月は「七夕」をテーマに
ご挨拶をしておりましたので後日改めて
と書き残しておりましたが、2018年の
新暦七夕は未曾有の豪雨が重なりました。

…6日夜は普通にご家庭先で授業でしたが
遠くで特別警報など鳴り響く真下でも
岡山県でここまで被害が大きくなるとは…
というのが偽らざるところです。

被災された皆様ならびにご家族の皆様に
心よりお見舞い申し上げます。

被災地の一日も早い復旧を
心よりお祈り申し上げます。




このような状況下で、七夕の和歌を
のんびり鑑賞するというのもどうか
と思いますが・・鎮魂の意を込めて。



天の川 流れてくだる 雨を受けて
玉のあみはる ささがにのいと



ささがに(笹蟹)とは蜘蛛の古名。
「玉=魂」の暗喩のこともあります。


天の川から落ちる雨を受けて
まるで大切な宝玉を飾るように
蜘蛛が糸に散りばめていく様。。

本来は解説を加えるべきところ
ですけれど、個々の感じるがまま
その解釈に委ねます。


雨は、有機生命体には欠く事の
できない天恵でありながら、
惨事をも齎(もたら)します。

遺された我々においても、
小さな縁を大切に想いながら
日々を全うさせて参りましょう。


これから暑さも増してまいりますが
くれぐれもご自愛下さいますように。


本当にいつもありがとうございます。


posted by laluz at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2018年07月04日

2018年7月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年 第6番の月も過ぎました。
2018年の半分が経過したことになりますが
年頭計画に照らして諸事順調でしょうか?

まあ・・与えられた日々を感謝しながら
生きているなら 計画通りか否かなど
些事でしかありませんけれど、

2018年後半も充実した日々を
過ごして参りましょう!




むすびあぐる 泉にすめる 月かげは
 手にもとられぬ 鏡なりけり


(両手に掬い上げても 泉に宿る月影は、
 手には取って見ることはできない鏡のようなもの…)




むすぶ(掬ぶ)=左右の手のひらを合わせて
(水などを)すくう という古語ですね。
「結ぶ」の意も掛けていると思いますけど。

澄んだ泉の水面には、月影が微笑ましく
揺蕩う(たゆたう)、そんな優しい情景。

その月影を両手に掬い上げようとしても
実際に手に取ることはできません。

ただ、両手に掬った水面にも月は映ります。
まるで手鏡のようなものだけれど、それに
自分を実際に映すことはできないという。

(両手を傾けると水は溢れるし、水面に
 顔を映そうとしたら 月影が隠れます・・ )


泉に澄み映える月、両手の水面に浮かぶ月、
その狭間にいる自分、という幻想的な
反映が綺麗な和歌だと思います。



もちろん、西行の作品なので 洗練とした
言の葉の中には奥深い叡智が宿っています。

釈迦の教えでは、水面に映った月に
仏や真理を見る喩えはよく用いられますが、

有名な文章では『正法眼蔵』第一 現成公案に
述べられています。少しだけ引用してみますと。

------------------------------------------------

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。
月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も彌天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。
さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。
人のさとりを礙せざること、滴露の天月を礙せざるがごとし。
ふかきことはたかき分量なるべし。


(補訳)
人が悟りを得るのは、水に月が宿るようなものである。
そのとき、月は濡れもせず 水が壊れることもない。それは広く大きな光りでありながら、ほんの僅かな水にも宿り、月のすべて天のすべてが草の露に宿り、一滴の水にも姿を宿す。
悟りが人を壊さないのは、月影が水を穿つことがないのと同じ。
また人(の小ささ)が(大いなる)悟りを妨げないのは、
(小さな)露が(大きな)月を拒まず受入れるのと同じである。
一滴の水に映る天月の深さは、実際の天月の高さに等しい。


------------------------------------------------------

・・というように。(拙訳ではありますので
高僧老師には誤りを諭されるかもしれませんが
「大いなる叡智」の探究という見地からは
大きく乖離していないと信じます。)



それを踏まえても、両手に掬い上げた水面に
月を映しながら それに自分を映すというのは
知的な遊び心を感じて 興味深い試みです。

あえて奥深く読み込むと、悟りの境地に至れば
もはや「自我」はなく「叡智の鏡」に自らが
映ることは無くなる…とも言えましょうか。


ただ、先月も書きましたように、西行は
煩悩ともいうべき恋慕の情を あえて
捨て去ろうとしませんでしたので
この和歌についてもそこまで説法じみた
無粋な意図はないように感じます。

水月は、文字通り「目前にあって手に届きそう
なのに自分のものにすることはできない」
=叶わぬ恋 の暗喩としても用いられますし、

その意味では「結び」=縁を結ぶという
意味で、待賢門院璋子との恋を重ねている
と 微笑むこともできましょう。


…という感じで、30余りの文字の配列に
天と月・悟り・恋・・と詠み込む西行の歌でした。

情景的にも涼やかで、蒸し暑い時期に
脳への清涼剤にもなる気が致します。

ちなみに『正法眼蔵』は難解ですが
「第一・現成公案」の巻だけは
今一度お読みになると良いでしょう。
「悟りとは何か」を示したものです。

現代語訳も色々ありますが、中には
ちょっとこれは誤訳かな…という類も
あるので、何通りか目を通しながら
自分なりに思考していくことが大切です

(「学び」全てに言えることですね )。


※ 長らくお付合下さっている方々には繰り返しになりますが、私という者は特定の宗派教義に与しておりませんので、宗教的な(怪しげな?)表現があっても特定の信仰を念頭には置いておりません。

むしろ…あらゆる教義・諸法・賢書が説き示す叡智の根源は「一」であると日々感じていますけれど、その信条さえ唯一絶対のものとは思っていませんので、へーこんな考え方もあるんだなぁ程度に お気楽に思索を楽しんで下されば幸いです。



かなり中途半端ではありますけれど
(想定の着地には長文過ぎたので)
今回はこの辺で終わります。

蒸し暑い季節となりますが、天月・森羅万象を
自らに投影させるがごとく澄み切った精神で
涼やかに7月を楽しんで下さいますように。


7月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます!




2016・2017年と「七夕」テーマのご挨拶でしたし
2018年はスルーというのもモヤモヤするので
例のごとく15日前後にでも改めて
書き置こうかなと思っています。。


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2018年06月04日

2018年6月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年 第5番の月も過ぎました。
2018年の約42%が経過、、速いです!

「時間」とは 比較的仲良くしている方だと
思うので「知らない間に時間が経ってるぞ」
という感想・感覚は 基本ないのですけど
(知らない間にお金が減ってる!が無いように)
最近ちょっと無為に過ごしてる証拠ですね・・

夢時間で3日ほど過ごしてから起きた時に
あれ?まだ今日??というのは増えているので
「知らない間に時間が増えてるぞ?」的に
思った方がいいのかもしれない嬉しい現象で
逆にのんびり怠惰に過ごす割合が増加したか…

…と、どうでもいい自問自答はさておき。



「ラルース進学塾」も皆さまの温かいご支援の下で
7年間という時間を存在し続けていることになりました。

毎年毎回に同じことを申し上げておりますが
どの年次にあっても有り難い時間で包まれました。
それもこれも、各方面各位のご厚恩を賜った故と
心より御礼申し上げる次第です。

「進学塾」というよりは「進学会」とでも称した方が
実態に適うというところでありますが、、個人的な
繋がり・ご紹介によるご依頼ご相談がほとんどの故
特に支障もない限りこのままにしておきます。


引き続きご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。






夕立の はるれば月ぞ やどりける
    玉ゆりすうる 蓮のうき葉に



夕立が晴れると月が宿っていた。(雨露の)玉を
揺り動かしながら落ち着かせていく 蓮の浮葉の上で。



西行の和歌。

雨の雫が 蓮の葉に揺らされながら、
ころころ転がり やがて葉の窪みに
ゆっくり静かに落ち着いた その
小さな雫の中に天の月が宿っている。

幻想的で美しい情景が目に浮かびます。

さて、このように雨露の中に月を詠み込む
芸術性だけ味わっても十分ではありますが、
西行の心情を前提に捉え直すと 更に
深い世界が詠み込まれています。

この「心情」を正確に説明するには
かなりの文章量を必要としますが…
一言で表現するなら「一途なまでの恋慕」。

お相手は、藤原 璋子(たまこ/しょうし、
1101年8月22日〜1145年9月10日)。
幼少から白河法皇の寵愛を受け、16歳で
鳥羽天皇の中宮に(第一皇子は後の崇徳天皇)。
23歳から院号・待賢門院(たいけんもんいん)。

璋子34歳の時、佐藤義清(後の西行)17歳。
鳥羽院の「北面の武士」として奉公する一武士と
中宮との儚き関係。璋子は魅力的だったらしく
年齢問わず奔放に恋愛を楽しんでいたようですが、
皇后相手に若き士の一途な恋が叶うはずもなく。

その想い=煩悩を断ち切る為に
義清23歳で出家したと言われています。

西行は恋歌も相応に遺していますが、
念頭にあったのは間違いなく璋子でしょう。

1145年に璋子が亡くなってからも京に還るたび
彼女の眠る法金剛院の陵墓に参りました。
忘れられない煩悩を恥じながらも
終生 忘れることはありませんでした。



さて、この待賢門院璋子ですが、第一皇子は
夫の鳥羽天皇ではなく、養父ともいえる白河
法皇との子だと信じられており、その辺りから
皇位継承争いに巻き込まれる波乱の晩年を
過ごすことになります。

没後の1156年に「保元の乱」で争ったのは
第一皇子(崇徳上皇)と第四皇子(後白河天皇)
で、後者に軍配が上がりますが、養父・夫・
実子ら権力争いの「核」でもあった女性でした。

この権力闘争を介して源氏平氏ら武家が力を
持ち始め、武家政治への門を開くことになりました。
歴史に「if」はありませんが、最初の藤原忠通との
縁談で 璋子がそのまま摂関家に嫁いでいれば、
後の日本社会は大きく異なっていたかも…。


・・という正に傾国の美女というべき璋子ですが、
時代の流れそのものに人生を大きく揺れ動かされ
続けながら44歳で崩御します。それはまるで
璋子にようやく落ち着くべき所を与えたかの如く。
極楽浄土に咲く蓮葉の上で 静かに安らかに
包まれながら落ち着く露のように。

歌中の「玉(たま)」とは 璋子の「璋(たま)」
であり、その「魂(たま)」でありましょう。

その玉に映える月は何を示しているのか。


哲学的仏教的に解すれば、俗世の迷いを離れたが
故に「月」さえ包み込める無限性・悟りの境地に
至れたとの暗示と捉えることもできましょう。

ただ、一途な想いを胸に秘め続けた西行です、
ここはきっと若き日に共に逢った月のことでも
詠み込んでいるのではないかなぁと思います。
相手の瞳に写り込んだ月を思い返していたり。

それが今、蓮の上の雫の中に 月を見ている。
ああどうか安らかにお眠り下さい 愛しき人
という優しい想いが詰まっている気がしますね。


(彼女の眠る法金剛院は、璋子自ら再興した
 寺院で極楽浄土を表現しようとした
 浄土式庭園は 蓮の名所でもあります。)


・・個人的には「法華経 涌出品」の
 不染世間法、如蓮花在水
(世間の法に染まざること、
 蓮花の水に在るが如し)と併せて

小さな雫(個々人間)にあっても
天の月(宇宙)を宿すことはできる
という流れで終える予定でしたが。

究極的に「語るべきこと」は一つなので
良くも悪くもワンパターンになりますし、
今回は西行の人間的心情に沿う形で終わります。


あらゆる小さなモノにも
偉大なるものが宿っていると知れば
精神が大きく揺れ動くことはありません。

各々にとって「静かに安らげる地点」が
どこなのかは人生で変わってくるとしても
少なくとも「自分の手を求めてきた縁」には
静かに安らげるよう導いてあげて下さいね。


(これは善行でも偽善・理想主義でもなく…
 情けは人の為ならず、全くもって自分の為
 という利己的行為なのですけども)



兎も角も 長くお付き合い下さっている方々だけでなく
あらゆる面でご支援下さっている各方面の皆々様に
改めて7周年の感謝を申し上げる次第です。



7周年ということでお祝いのお言葉を
ご丁寧に下さった方々には重ねて御礼申し上げます。

8年目も輝かしい出会いに充ちていることを
皆さまと共に 心から喜びたいと思います。



いつも本当にありがとうございます!



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2018年05月04日

2018年5月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年第4番の月も過ぎていきました、
2018年の約33%が早くも経過したことに。

過ぎた時間に敬意を払い 省みながら
第2節目の4カ月も充たして参りましょう。



かたらひし その夜の聲は 時鳥
いかなる世にも 忘れんものか



2017年の5月は 芭蕉の句、
 しばし間も 待つやほととぎ す千年
…を引用しましたが、今年は西行のホトトギスを。


ホトトギス(学名:Cuculus poliocephalus)は、
カッコウ目・カッコウ科に分類される鳥類の一種。
特徴的な鳴き声と托卵する習性で知られる鳥です。

霍公鳥、杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥、
子規、田鵑、死出ノ田長、魂迎鳥…など異名が
数多いように古来から良くも悪くも人間を
惹きつける鳥(の一種)であると言えましょう。
万葉集を見るだけでも153首に登場します。


異名の由来には各説ありますけれど
中国故事由来(杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰etc.)
カッコウ誤認混同説(郭公、霍公鳥etc.)
時候由来(時鳥、田鵑 etc.)が有名です。

それらも細部は説が分かれておりますが
「子規」については定説がないようです…。
また、死出ノ田長、魂迎鳥と呼ばれるように
ホトトギスは冥界を行き来する'使い'とも
考えられてきたみたいですね。。


というわけで、情熱的・激情的あるいは
悲痛な叫びとも聴こえるホトトギスの鳴き声は
恋慕の情だったり悲哀・傷心の想いだったり、

あるいは初夏到来を告げる吉兆だったり…を
(果ては冥界まで)告げるものと尊ばれながら
人間の心情を乗せてきたと言えますね。

この「ホトトギス考」だけでも書物1巻を
要しましょうが、この辺にして本題に戻ると。


ホトトギスは(昼も)夜にも鳴く鳥です。
現代は夜でも照明電灯等で明るいため
夜に鳴く鳥も増え、特筆するほど珍しく
感じませんが、遥か昔の闇夜の中でも鳴く
ホトトギスはより一層印象的だったはず。

そういう情景を踏まえながら読みますと
なかなか奥深い歌のように感じます。
何重にも解釈可能でちょっと訳出困難です…

貴方と語り合ったその夜に聞こえたのは
ホトトギスの声。どのような世になっても
(或いは 生まれ変わったとしても)
貴方との語らいを忘れることはないだろう。


…と、こんな解釈が基本線にあると思いますが
読み手の状況によって受け止め方が異なる
深い世界が広がっていることでしょうね。

「語らい」=男女の契りという意味合いでも
古文では用いられますので、情熱的な恋慕歌
としても読めましょうし、或いは去りゆく者
との哀悼歌かもしれません。

先に逝った者との語らいか・・
自己の深奥(或いは人智を超えたもの)
との語らいかも…?


そんなこんなで ホトトギスが鳴く季節。

古より数多の人間の想いを託されて
鳴いているホトトギスに思いを遣りながら

出会い語り合う人との「時間」を大切に
「今」の集積を味わって参りましょう。



「時間」については昨年 2017年5月の始まり
でも触れていますので 読み返して下されば。

(最後ちょっと駆け足になりましたが)
今回はこの辺で。


初夏の緑風が清々しい5月も 至福の時でありますことを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつもありがとうございます!



(今月も世界情勢が許す限り 16日前後に
 もう1回更新できれば良いなと企んでいます)

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