2019年09月17日

「表現の自由」など


皆さま、こんにちは。

さて、9月の2回目更新です。
テーマは「表現の自由」などなど・・

ん?先生にしては珍しく現実的な題材では?
と思われそうですが、生徒さんとの雑談
(休憩時や授業後の質問など)で法律の話題は
昔からよく回答するテーマだったりします。

小論文やディベート対策などで「〜の権利」を
論ずる場合の前提整理に限らず、純粋な
知的興味から「先生、こういう場合は
法的にどうなるんです?」という質問は
よく受けて来ました。

「複雑な犯罪」が、どのように刑事処理されるか
完全犯罪を行える前提など興味深く質問する子もいたり。


ラルースブログでは、政治・宗教などについて
原則として触れないスタンスですけれど、
対面の質問では「真実のところ 〜は何が問題・
争点なのですか?」と、客観的な状況・争点
整理を求められることは多々ありますね。

そういうわけで、「表現の自由」も
何回か解説してきたテーマだったため
まとめておくのも良いかと思った訳ですが、

この「表現の自由」論は非常に重要な問題
であるために分量的に「簡単に解説」という
ことさえできません、議論する上での基礎
確認という程度に概観してみましょう。


日本国憲法 第21条
@集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
A検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。


…と定められていますね。

第1項について例示されている通り、集会・結社の自由、言論の自由、出版の自由は原則保障されています。「その他一切の表現の自由」という文言通り、人がその思想・意見・主張・感情などを対外的に示す「表現」と言える限り、憲法上尊重されます。

法的素養がある方々には釈迦に説法ですが、ここで前提をおさらいしておきますと、「民主国家における憲法」というのはその性質上、国家・公権力がその国民の権利自由を規制禁止しないよう監視抑制するためのシステムです。

国がいきなり法律で、国家を批判する発言を禁止して違反者を投獄するなど出来たら民主制の破綻ですよね。要するに、主権者である国民の権利自由が侵害されないように、国家権力にブレーキをかけて国民主権・民主主義を守るルールが日本国憲法です(日本国民以外の外国籍の方にも原則的に権利自由は尊重されます)

ただ、Aさんが暴力的な行為表現でBさんの生命身体の安全が脅かされている場合でも、Aさんの行為はある意味「表現」の自由といえるから警察さえ制止できないとなると、Bさんら他者の生命身体の自由(憲法18条等)が侵害されることになります。なので、国民の権利保障といっても、無制限で認められるわけではなく他者の権利自由・公共の利益を害しない限度すなわち「公共の福祉に反しない」範囲で認められるという制約があります。公共の福祉を保護するため必要な場合に限って、国家は国民の権利自由を規制することができるわけですね**

第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


**この「公共の福祉」論は重要なのですが、今回は深入りしません。


逆にいえば、国民v.s.国家権力 ではなく国民v.s.国民という状況については、憲法が直接適用される場面では本来ありません。とはいえ、Aさんや民間企業Bが、Cさんを性別や民族的ルーツで差別する扱いをした場合でも、全く問題ないというのでは「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」とする憲法14条第1項の理念が損なわれてしまいます。

そこで、憲法はあくまで私人(しじん)の間では直接適用されないものの、民法90条の「公序良俗」など一般条項を通じて憲法の理念は各々尊重(間接適用)されるというのが通説です(もちろん別見解もあります)

なので、Cさんは差別的扱いを受けて経済的損害・精神的苦痛を被ったなら、民事手続を通じて不法行為に基づく損害賠償(慰謝料)請求や差別行為の差止め請求などを民法709条等を根拠に求めていくことで保護されます (まあ…仮に裁判を経ずとも弁護士を介した示談交渉など負担かつ面倒ですし、相手の資力によっては賠償金も回収できないので現実には泣き寝入りするケースも少なくありませんが…)

深刻な場合はあわせて刑事手続による名誉毀損罪(内容様態によっては脅迫罪)など刑事罰として法的制裁を求めていくことが可能でしょう (といっても極めて悪質・執拗でない限り 罰金刑かせいぜい執行猶予付き懲役刑ですが…この辺りも今は深入りしません)


とりあえず、ここまでのポイントは @近代憲法は、あくまで国民を守るために国家・公権力を縛ることが目的、A国民の権利自由はそれぞれ等しく保障されるので、他者の権利を侵害しない範囲で保護されるに過ぎない、B刑罰を問う刑事手続と、損害賠償請求などの民事手続はそれぞれ違うよ、というところです (厳密にいえば正確さに欠けますが、教養としてはこの程度の差異を頭に入れて下さればと思います)


この基礎理解で昨今の「表現の自由」に関わる喧騒をみるにも、@表現主体が「公権力あるいは公人」なのか「私人」なのか、Aその表現内容・手段が他者の権利自由を侵害しないものかどうか、という点から考えなければ ただの感情論に墮してしまいます。

例えば、国会議員・地方議会議員の発言であっても、あくまで公的立場を離れた私人としてのプライベートな状況なら一国民の「表現の自由」として最大限尊重されます。逆に、公人すなわち公権力の行使者としての発言なら、国民の権利自由を過度に抑圧するものでないか厳しく問われます。ただ、Twitterなど公私の区別が曖昧な昨今、公僕としての氏名で発言しているなら「公人としての表現」と推定されるでしょう。

ちなみに、国会議員も憲法尊重義務(憲法99条)を負いますが、憲法改正論議を提起できる以上、憲法に反する発言をしたからと言って、それが表現の自由を逸脱するとは直ちに言えません。ただ、憲法改正などの持論・問題提起は、選挙による国民の審判を受ける間際の公開討論なりで賛同を求めるのが本筋です。当選後にそのような重大テーマを新たに扱う場合は、支持者に対して真摯な説明をする道義的責務は求められるという点で、憲法(改正手続きの趣旨)を尊重すべき義務を負うと言えるでしょう。

民間メディアの記事については、出版・報道の自由として「公共の福祉」に反しない限り尊重されるのが原則です。ただ、法的争点としては「問題なし」でも、ビジネス面では抗議に対して素直に謝罪した方が良いところもあるので、その辺りは別次元の考慮が働くことは多いでしょうね。


あと…美術展の内容を公人が中止勧告という問題は、原則論としては「表現の自由」を公権力が規制したと言えそうですが、公的助成・補助金等を受けている場合「税金を使う以上、使途が適正か否かの公的チェックは不可避」です。そのチェックが表現内容そのものではなく(即ち「検閲」ではなく)、表現の場所・方法手段において適切かどうかを客観的に判断し、仮に介入しない場合は反対デモ等で入場者の生命身体の安全が確保されないなど「公共の福祉」の維持に必要不可欠であると認められるなら、その表現(手段)を規制することは可能です。

ポイントは、あくまでその場所その方法での表現をやむを得ず規制しただけで、表現内容そのものを規制したわけではない点です(法的議論に不馴れな方々は屁理屈に聞こえるでしょうが、これは非常に重要です)。日本で一切その表現ができないとなれば憲法違反ですが、公共に混乱を生じない手段様態について禁止されないならば、法的には問題ありません。(民衆の「表現を自由に受け取る権利」があるとしても、別の方法で鑑賞できる機会があるなら 重大な権利侵害とは言えません。)

では、反対デモを取り締まれば良い!という訳にもいかず(集会の自由)、国民v.s.国民の権利衝突の問題となりますので、これはまた別の争点です。"知恵の輪"のように 一つずつ解きほぐさず 力ずくで解こうとしてもムリです(大抵は暴力的・威圧的クレームにしかなりません)

ただ、現状で法的に問題ないとしても、その規制判断・法的根拠が永続的に正しいとは限りません。その時代・状況に応じた問題提起は、大多数の側にとって耳障りであっても、少数意見をひとまず議論の場に拾える社会システムこそ民主政治の成熟には不可欠です。その政治的判断は個々人の意思の集積なので、だからこそ左派・右派と偏ることなく深遠な知性を養うことが肝要です。

「表現の自由」に限ったことではありませんが、一方が権利を主張する場合、相手方にも権利自由があり得ることを前提に、冷静に分析判断を重ねて解決策・妥結点に導くのは何も法的議論に限らず、人間社会でのスキルとしてその価値はますます大きくなっているでしょう(情報弱者として騙されたり搾取されたりするリスクも極小化します)。


・・と、テレビは持たずウェブ上でも世俗ニュースはチェックしない身ですので (質問を受けたら該当ニュースに目を通す程度で 学術的発表や自然・動物コンテンツだけ見ます)、偉そうなことは言えませんが、将来ある学生さんたちは情報分析の精度を上げる上で(理系志望でも)最低限の法的素養はあった方が良いでしょう、もちろん大学入学後からでも良いですけども。


以上、入門レベルながら法的議論のお話でした。
さすがに長過ぎましたね…最後まで読まれた方
本当にお疲れさまでした。

権利自由といっても優先度合いに差もありますが、
その辺りは現代社会・公民分野の授業で習う(習った)
知識を思い出しながら補強しておいて下さればと思います。



引き続き
実り多き秋の日々をお過ごし下さいね。


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2018年11月16日

(11月2回目の更新について)


皆さま、こんにちは。
いつもご訪問ありがとうございます。

さて、11月は半ば頃にもう一度
記事更新したいと前回 書きましたので
16日には更新完了の予定でしたが
どうやら17日になりそうです・・
(金曜は授業終了が深夜なので
 午前中に上げたかったのですけれど)

そろそろかと思ってチェック下さった方には
申し訳ありませんが、宜しくお願い致します。

それでは、簡単なお知らせまで。
今日も良き一日をお過ごし下さいね。

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2013年12月31日

2013年の終わり


皆さま、こんばんは。

ご無沙汰しているうちに大晦日となっておりますが、
2013年も厳かに過ぎようとしています。。

Christmas の名言を更新する間もありませんでしたが、
皆さま 素敵な日々をお送りのことでしょう。


皆さまには公私にわたり 大変お世話になりました。

12月、特に学校が建前上お休みとなって以降、
深夜まで授業することが珍しくなくなる状況下、
30日は翌朝4時までご家庭に滞在しておりました…。

個人的には、ご家庭のご都合ご負担を鑑みて
「常識的な時間帯」で失礼したいと思っておりますが、
集中して勉強・思索していると時間感覚も狂いますので、
ご家庭とご本人がご要望される限りはお応えしています。
楽しんで下さるなら私にとっても光栄なことですから。

ということで、1日授業して帰ってすぐ眠るという、
珍しく「非のんびり」な日々を送っておりました。

お声がけ頂けるのは光栄の極み、
各進化の一助になっていれば幸いです。

2014年も至高の時間の集積となりましょうから、
謙虚に各々の「様々な力」を高めていく日々を
知的に楽しんで参りましょう!

スマホから取り急ぎの更新で読みにくいと思いますが、
心からの敬意と感謝を申し上げます。

この1年の御高恩に対して御礼申し上げるには
足りませんが…本当にありがとうございます!



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2013年11月16日

「 神在月 」


皆さま、こんにちは。

良き日々をお過ごしのことと思います。

今日2013年11月16日(グレゴリウス暦で)は
旧暦(太陽太陰暦)では 10月14日に当たりますが、

日本において旧暦10月は「神無月」と言われる中、
出雲地方だけ「神在月(かみありづき)」と称します、

八百万の神々が「出雲大社(おおやしろ)」に集う時機、
諸国に神がいなくなることから「神無月」になる反面で
神々がおられる出雲は「神在月」と言うわけですね。。


(諏訪大社の周辺なども神在月となるみたいです)

「神無月」の語源は、文化的に「神を祭る月」であり
「神の月」を指している(「無」は「水無月」と同じく
「の」を意味する格助詞「な」)という説が有力ながら、

(雷の鳴らない月=「雷無月」が転じたとする説も)

どのような習慣も、長期に大切に受継がれると、
それ自体「大きな力」を宿していくもの。


旧暦10月10日の夜、記紀神話において国譲りが
行われたとされる 稲佐ノ浜(島根県出雲市)で、
八百万の神々を迎える「神迎祭」が行われ、

その後、旧暦10月11日から17日まで、全ての
「縁(えにし)」を決める「神議り(かみはかり)」
が行われるに際して「神在祭」が行われます。

旧暦10月17日に、各地に帰る神々を見送る
「神等去出祭(からさでさい)」が行われて、
神在りの祭儀を了します。)



…というわけで、12日13日(旧暦10月10日11日)
「神迎祭・神在祭」に参加しておりました。

至高の日々を送らせて頂いていることも全て
皆さま方との有り難いご縁に恵まれているお陰。
遍く全てのご縁に感謝を申し上げたいという程に。

そもそも、人智を超えた「崇高な叡智」に対して
心からの敬意と感謝を抱いていれば、全ては
自らの「意思」通りに取り図られるものなので、

わざわざ私利私欲に関する祈願などしなくとも
過去・現在・未来の遍く「必然のご縁」及び
ただ「今ここにある」感謝を捧げにいくことが
「お参り」の「極意」でありましょう。。


(私は特定の宗教・教義を信奉していませんが
 上記の心得は、神宮や大社に限らず 寺社仏閣・
 教会諸派について同様に言えると思います。)


60年ぶりの「大遷宮」があった出雲大社、遷宮後初の
神在月で例年以上の参拝者が全国から大挙する為に
出雲市周辺のお宿も今年早々に満員御礼でしたが、

全ては必然のご縁でしょう、歩いて大社に参れる
旅館が泊めて下さり、有り難い参拝となりました。

(お陰で万事スムーズに神事も参加できましたが、
 大渋滞等で出遅れると、神事に参加できないどころか
 普通に参拝するのさえ数時間は並んで待つことに…。)



ともかくも、天と地と人が織り成す時空間は
この上なく荘厳で神々しくありました。


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「神迎祭」前の稲佐ノ浜。神事の前の静けさという趣…。


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60年ぶりの大修造となった、国宝でもある「御本殿」後景。
朝靄に包まれて、また新たな輝きを放っていました。

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月明かりが映える 夜の境内。


…と、他にも「足立美術館」の庭園や茶室についても
触れる予定でしたが、とりあえずここで更新しておきます。

(お休みを頂いた分、授業スケジュールが詰み詰みです…

 ただ、いつもご信頼して下さる皆さま方には
 本当に心から感謝申し上げるばかりです。)


それでは、取り急ぎ今回はこの辺で。

いつもありがとうございます。



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2013年09月20日

harvest moon


皆さま、こんにちは。

2013年9月19日は「中秋の名月」でしたね、

「中秋の名月」は必ずしも満月とは限らないものの、
2011年2012年と続いて、2013年も中秋の満月で。


「中秋の名月」当夜に「満月」となるのは、
2013年以降は2021年まで見られない模様…。

そういう意味でも、澄み渡る秋の夜に
キレイに輝く望月を 微笑ましく覚えました。

英語では「harvest moon(収穫の月)」と言われます、
北半球ではその明るい月光のお陰で、夜になっても
作物を収穫することができるという由来だそう。


農作物だけでなく、あらゆる創造的な営為について
喜ばしき実りを収穫し、各々高められるように
優しき慈愛を感じさせる名月でありましょう。


名月や 池をめぐりて 夜もすがら  芭蕉

(空には名月があり、池にも月影がうつっている。
 その美しさに心を奪われ、池の周りを歩きながら
 眺めているうちに、つい一夜を過ごしてしまった。。)


別に中秋であろうが「月」は「月」、

特定の1日、1時点のみが特別ではなく
どの1日、どの時点も等しく重要なので、
過度に有り難がる必要はないと思いますけれど、


季節の節目を趣深く感じるに知的な機会です。

幽玄な月日の移ろいを味わううちに
のんびり一夜が過ぎていくのは必然ですね?

今も、空高き月を眺めながら、一期一会な紅茶を
ゆっくり頂いています。思索をふわふわ遊ばせながら
眼耳鼻舌身(色聲香味触)の五感を統率するように。


(無眼耳鼻舌身意 無色聲香味触法 でもあるように)

…と、まとまりを失って迷走しそうなので
(それはそれで書く方は面白いのですけれど)
今回はこの辺で終わりましょう。


引き続き、優雅な秋をお過ごし下さいますように。

いつもありがとうございます。


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2013年07月10日

「 ありがとう 」


皆さま、こんにちは。

今回も更新期間が開いてしまいましたね…

夏日が続く日々となりましたけれど、
健やかにお過ごしのことと思います。

去年の今頃も「形あるもの」の記事で書きましたが、

今年も今生の別れを告げる機会がありました。

常々、至上の日々を送らせて頂いていると公言し、
皆さまに日々感謝申し上げるばかりの身ですので
葬送=不幸 という概念は全くありませんけれど、

自らとして最大限の感謝を捧げていたつもりでも
それ以上に遥かな高みから自分が守られていたことに
否応なく気付かされると、惜別の念は禁じ得ぬもの。


ただ、齢90を数えながら、神々しいまでの
美しい顔付きで、永遠の眠りにつくというのは
最期の去り方として憧れるものですね。。

類稀な才能や顔立ち、特異性など…多くのものを
私に授けてくれた偉大な存在に 敬礼するばかりです。

( お弔い下さった方々には改めて御礼申し上げます。
ちなみに 我が両親はこの上なく健在です。。



…と、ここから本題に入るつもりでしたが、
やはり「回」を改めることにしようと思います。


全ては「一期一会」の連環、

今あることを当然のことと軽んずることなく
「在・不在」「生・死」は表裏のものとして

選ばれた時間共有に 最大の敬意を払いながら
互いを高め合えることに感謝して参りましょう。



いつも本当にありがとうございます。


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2013年05月19日

Pythagoras


皆さま、こんにちは。

「名言の英語」を久々に更新しましょう、
今回の偉人は、ピュタゴラスを。

Pythagoras(紀元前582年〜紀元前496年)は、
ピタゴラスの定理で知られる、古代ギリシアの
数学者、哲学者。「サモスの賢人」と言われ、
古代ギリシャの偉大な魔術師でもあります。


真理を探究する弟子たちと秘密結社を作りました、
いわゆる「ピタゴラス教団」です。

「秘教的数学、音楽、天文学」の習得により
宇宙・森羅万象に到達することを志向しました。

(学問だけでなく、心身を鍛え清める禁欲的
 道徳生活が厳格に要求され、菜食中心でした。)


現代においては、誤りと評される点もありますが、
数理的に世界を記述しようとしたアプローチは
後のギリシア哲学に受け継がれていきます。


Number rules the universe.

( 「数」は宇宙を支配している。)

「万物は数である」と言い換えても良いでしょう。
「数」は「調和」し合い「神性」に到達する。

宇宙を統一的に記述する「万物理論(Theory of Everything)」、

そこに到達する時が遅かれ早かれ訪れるでしょうけれど、
その時、人類は「万物は数である」と再発見するかも…。


Time is the soul of this world.

( 時間は、この世界の魂である。)

ある行動・原因から、ある結果に至る「流れ」、
それは時間的・物理的に記述し得る事象です。

即ち、それは「数」を使うことによって観測・測量、
そして記録することができる…とすれば、「数」は
行動・原因・結果といった物理的(時間的)現象にも
影響を及ぼすことが出来る、という思考。


アリストテレスのいう「形相・質料」とに区分して
分析してはいなかったようですが、「形相=魂、
質料=肉体」と照合されるとすれば、世界の形相
=魂は「時間」、質料は「現実世界の事象」。

「魂」を純化していくことで「肉体」も純化させていく
ピタゴラス的規範に応じて、「時間」を純化すれば
「現世の事象」も同様に健全に純化されていくはずと、


そのように解釈できるかと思います。

「数秘術・ゲマトリア」という系統で、数の力を読み解き
事象・運命を左右せんとする術は古代からありますが、
本質的思想にはそこに繋がることでしょう。

隠秘学・オカルト的術は非凡な知力がなければ
読み解くことさえできない代物。巷に溢れ、安易に
紹介されているものは信頼に値しないでしょうが、

ニュートンなど多くの天才が、秘術研究に
生涯を費やしたのもまた興味深い事実…。


ともかく「時間」に敬意を払って、その価値に
礼を尽くしていけば、それに応じて「現実」も
敬意に充ちたものになっていくことでしょう!



Educate the children and it won't be necessary to punish the men.

(子供たちを教育することで、人間を罰する必要はなくなっていくであろう。)

…そうなっていないということは、
「教育」できていないということで。

子供を教育する立場の者が、なお愚行・不祥事を起こす今、
理想を実現する「教育」など砂上の楼閣かもしれません。

老若男女問わない人間的教育を施すとしても
その「教育」は誰が行うのか?

「最高善」「究極の叡智」に到達した者?


「人間の善性に依拠した平和」というのは
絶望的なまでに実現不能な気もするが故に、

人の理想郷を強制的に創ろうとした
独裁制も歴史上試みられてきました…。

…と、一応「教育」的なものに関わっている身で
あまり消極的な姿勢は好ましくありませんね、

少なくとも私の関わる生徒さんには
人格的自律ある進化を期待するのみです。



Concern should drive us into action and not into a depression. No man is free who cannot control himself.

(不安とは、我々を行動に駆り立てるべきもので、憂鬱に陥らせるものではない。己自身を支配できない者は自由の身にない。)

不安に思うなら状況打開のために行動せよ、
少なくとも意気消沈し、憂鬱になるものではないと。

感情や精神、それら全て自分に帰属するもの、

それらに振り回されるのではなく、それらを統率し
自らの意思下に帰属せしめてこそ真の自由人であると。


このような言説は枚挙に暇ありませんが
どの言葉も、真理の力に満ちています。


Above the cloud with its shadow is the star with its light. Above all things reverence thyself.

(影を伴う雲の上には、光を伴う星がある。
 全ての物事の上に、汝自身への畏敬を。)


キレイな言葉ですね?

己自身に最高の畏敬を持つからこそ、
肉体・思考そして時間に重きを置くことができます。

自らに絶対的価値を置けば、自分を取り巻く万物
全てに等しく敬意を払えるもの。


…といっても、そんなに堅苦しいものではなく
(必ずしも厳格な禁欲生活でなくとも)

肩肘張らずに、お互いにのんびりと
敬意を払い合う心こそ「核心」だと感じます。


それでは、今回はこの辺で。

いつもありがとうございます!


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