2019年05月17日

「 感応力 」


皆さま、こんにちは。
4月に続いて月2回目の更新です。

5月後半は久々の"「力」を考える" で
(2013年01月09日以来 6年4ヶ月ぶり!)
「感応力」というものを見ていこうと思います。


感応・・人によっては馴染みが薄いかもですが
私はよく使います(大抵は不思議なお話の時に)。
漱石『吾輩は猫である』でも印象的に使われていたり。

感応(かんのう/かんおう)とは
どういう意味なのでしょうか。

著名辞書の定義を総合すると…

@信心が神仏に通じること。(仏教用語)人に対する仏の働きかけとそれを受け止める人の心。
A外界からの刺激によって心が深く感じ動くこと。
B電気・磁気が、その電場磁場の中にあるものに対して作用を及ぼすこと。電磁誘導など。


…といった意味になるでしょう。

第一義が仏教語なのは意外でしょうが、
「感」…仏の救済しようとする心を 衆生が感じる
「応」…悟りを求める衆生の願いに 仏が応ずる
という趣旨に由来します。


現代に通常用いられる場面ではAの意味ですね。
(Bの意味では「誘導」の方が多く用いられます。)

感応=外界からの刺激によって心が深く感じ動くこと
共感=他の考え・感情などに内面的・心情的に同調すること
共鳴=他の考えや表現・行動に内的外的に同調すること


…といったニュアンスですかね、大まかに言えば。

「共感」は対生命ですね、「椅子に共感する」とは言わない。「共鳴」は共感に近いですけど、共に鳴り響くというように 内面的・心理的同調に留まらず、身体的反応も暗に含みます。また「大自然に共感する」と言わないけど「大自然に共鳴する」とは言えるでしょうから対象も幅広い。

その辺り 「感応」は「共鳴」に近いものの
概ね内面的・心理的反応に留まるような印象です。

ただ、「感応」は非日常的・神威といった
人智を超えたモノ、平常は感覚しないような
精妙なる何か、を対象に含むように思います。

各々 何となくの違いが伝わるでしょうか。

この辞書的定義に即していなくとも、
「外的要因を感覚して反応する」という意味で
「感応」を用いていることも多いですけれど。
テレパシー(telepathy)も「精神感応」と訳されますし。

整理してみると、「感応力」とは

「通常は見過ごされているような因子について
 繊細に感じ取り、身体的・精神的作用として
 反応する能力」…もっと具体的にいえば、

「神秘的因子や芸術的・自然的現れに対する直感、
 あるいは他存在の表情・声質など雰囲気から
 相手の感情心理・周囲の状況を敏感に感じ、
 反応・対応する力」という感じでしょうか。



私の教え子には 一風(すごく?)変わった方も
多いですけど、非凡な方向性は多岐に渡ります。
例えば「視えないモノが視える」子とか様々で。

一般的には理解されにくい性質の領域事項であれば
「あまり他者に話せない(話しても意味がない)」ので
真剣に応答・解説すると、妙な信頼関係が生じます。

あまり書くと「先生、とうとうオカルト話題を解禁?!」
となってしまうので、内容には立ち入りませんけども。


私自身かなり奇蹟的な不思議体験を多々しているので
世に「精査なく一笑に付することのできる事象はない」
と心から思っています。

世にいう超常現象・神霊系の類その99.99%は
根拠のない妄言・空想と感じますけど、
その0.01%は未だ人智が追い付いていない
秘奥の一端かも知れません。
(0.01%を秘すための99.99% というべきか)

実際、「音」にしても可聴音域は動物種によって異なり、
経年劣化によって可聴帯域も狭くなっていきますよね?
(モスキート音など高周波はその好例です)

でも、超音波もヒトに聴こえないだけで
音としては確かに存在している。

「『存在している』と断言できるモノなど
人間界には何も無い」と言ってしまえば
その通りですけど…一現象として知覚可能性は在ったというか。

視界にせよ「可視領域」外の不可視光線も
「視えないだけで『存在』はある」ため
ヒトには不可視光でもある種の動物は知覚できたり。

*ちなみに「電磁波」のうち「最も周波数の低い極超長波からマイクロ波まで= 電波」、マイクロ波よりも周波数が高い「遠赤外線から可視光線(+紫外線)までの周波数の電磁波=いわゆる「光」、紫外線よりさらに周波数が高い(波長が短い)電磁波は、X線やガンマ線と呼ばれます。

…と補足が長くなりましたが、

外的な要因を感覚器官を通じて受け止め、
身体的・精神的な作用として照応するか、
すなわち「感応」できるかは個体差がありますよね。

ある周波数の電磁波を受信してそれを正確に
翻訳・変換など出来るかどうかの問題と
そもそも波が来ているかどうかの問題は別、

多数人に知覚できないから存在しない
=有り得ないと思考停止してしまうのは、極めて浅薄な態度です。


ただ、ここに大きな落とし穴もあります。

在るか無いかと問えば「在る」のですけど
その規模・程度が正確でなければかえって有害です。


感応力が高い人というのは、繊細で神経過敏、
いわゆるデリケートな人のことではありません。
それは「感受性」が高いというだけであって、

周囲・対象と同化することでその本質を肌で感じ
そのことで自らがどのように反応行動するのかを
主体的に決めるという図式こそ大切です。

感受性が高くても、その反応が受動的なら
神経がすり減ってストレス過多の生きにくい世界になるでしょう。



私も幼少期は、大変に神経質で気難しい子でした。
その辺りは以前にも触れたので繰り返しませんが、
IQが極めて高いからと原因が分かってからは
その対処を自分なりに修正することができました。

この種の話を自慢と捉える向きも世にありますが
実際誇れることではなく「見えている世界」が
周囲と違うというのは、幼少期ではなかなか
気づきにくいもので、幸運なフォロー理解がなければ
精神崩壊したり自死したり、或いはサイコパス的に
暴走するパターンも珍しくありません。

「そうなる理由」を極めて自然に納得できる人と
そうでない人とではそれこそ「異世界」の如く
相互理解は容易でないでしょう。

高IQ児というのは「情報や刺激で脳が溺れそうな世界」
に住んでいるので、その辺りの実体験を踏まえて、
いかに溺死せず世界を慈しんでいくかという
理解ある導きが不可欠になってくるのです。

欧米ではギフテッド教育が用意されていますが
日本では放置に等しいですからね…



話を戻すと、在るか無いかと問えば「在る」ので
有り得ない!と断言する相手に対して憤る方も
あるでしょうが、ではどれくらいあるか?
といえば無視できるほど些少の時もあります。

0(ゼロ)か0.01かという話を0か1かと
同列に話すのはそれはそれで大変です。


感応力というのは、誰も気づかない0.001の
些少な因子・変化まで感受することが出来ながらも
それについて現状でどのように反応すれば良いか
自ら決することができる能力と言えましょう。

特に問題視・開示するほどのことでなければ
自分だけが密かに認識していれば良いし、
些細でも重要な事実なら然るべく
対応することができる能力。。



…というようなお話を、一般的には
理解されにくい世界に住んでいる子には
相手が望む限り 何となくお話したりします。
(年齢や理解能力に応じて変わりますけど )

随分と長くなりましたが…
最後にこの引用で終えましょう。

-----------------------------------------------------

それら天地万物は人間であるオノレがそのように目で見、心に感応しているからそのように存在しているので、実際にはそんなものはない。〜(中略)〜 要するに、人間が天地万物なるものを認識しているのは、人間の心には天地万物と霊犀相通ずる感応力があるからであるという。いやいや、その天地万象も人間の心も二つのものではない。天地万象も人間の心も、「同体である」という。「だから心をつねに曇らさずに保っておくと、物事がよくみえる。学問とはなにか。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」

-----------------------(司馬遼太郎『峠(上)』)



継之助の陽明学自体には賛否両論あるにせよ
この「感応力」については深みがあります。


「学び」とは一生涯そのもの。

心を澄ませ感応力を澄ませながら
周囲・世界を在るがままに受け止め、

受動的に振り回されるのではなく
主体的に慈しんでいけるように。


…というわけで、「感応力」でした。

皆さまとの時間は、崇高な「感応」を
もたらして下さる一期一会の天恵です。

いつもありがとうございます!


posted by laluz at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 「力」を考える
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