2017年12月05日

2017年12月の始まり



皆さま、こんにちは。

とうとう2017年の約93%が過ぎ去りましたが、
皆さまお変わりなくお過ごしのことと存じます。

皆さまの御蔭で2017年も有難き日々を頂き
此度も師走を迎えることができました。

今までと これからの全ての「ご縁」に
心からの感謝を申し上げる次第です。




白菊の 目に立て見る 塵もなし
  芭蕉



しらぎくの めにたててみる ちりもなし

(白菊の花は、目をこらして見ても 塵一つない清らかさをもっている。)


眼前の白菊に喩えて、女主人・
斯波 園女の清楚な人柄を讃えた挨拶吟。

西行『山家集』にある、

くもりなき かがみの上に ゐる塵を
目にたてて見る 世と思はばや


…を踏まえたものと考えられています。

西行の一首は非常に難解で、この真意を考えるには
回を改める必要がありますが(それこそ神道・仏法を
探究しつつ人世を哲学していくことに等しいほど)、

芭蕉の句はこの上なくシンプルです。
(シンプルだからこその深奥の秘?)

白菊の清浄清廉の美が 際立つ洗練さ。


先月(2017年11月の始まり)の回で、
「この道を 行人なしに 秋の暮」に続く
句も連ねていたのですが…と述べましたけれど、

芭蕉の句は、余命をカウントするかの如く
以下のように詠まれていきます。


• 松風や 軒をめぐって 秋暮れぬ

• この秋は 何で年寄る 雲に鳥

• 白菊の 目に立て見る 塵もなし

• 月澄むや 狐こはがる 児の供

• 秋深き 隣は何を する人ぞ

• 旅に病で 夢は枯野を かけ廻る



そうして芭蕉は世を去るわけですけれど
「白菊の〜」は死の2週間ほど前に
詠まれたわけです(生涯最後の句会で)。

そうしてみると、本当に澄み渡るような
「曇りなき美」を讃えたものと言えましょう。


さて、興味深いのが次の句です。



月澄むや 狐こはがる 児の供

(月が澄んでいる夜、児の供をして歩くと、
 狐が出たのを 怖がったものだなぁ)




芭蕉は俳聖として有名であり、和の心に響く
名句を世に遺した才人でありますけれど、
神ならぬ人間です。ですので、世人の如く
恋愛もしてきたわけですが、衆道(男性愛)の
気色も併せ持っていたと言われています。

芸術家において同性愛は何ら珍しいことではなく
(レオナルド・ダヴィンチから枚挙に暇なし)
我が国においても古来から男の同性愛・少年愛は
武家支配層から中流層まで公然と知られていました。

(英雄色を好むに性別問わず…正に男女平等?
 幕府財政が逼迫する江戸末期から徐々に
 「労働力の生産性がない」ことから非難・
 弾圧されていくようになるわけですが。)


一応「塾ブログ」的なカテゴリーにある点で
この句はスルーしようかとも思いましたが…
死期にあってあえてこの句を詠んだ俳聖に
敬意を払う意味から 触れておきますと。

・・といって特に猥雑な意味合いはなく
むしろプラトニックな愛情表現というか、

純粋に愛おしく愛でるような心持ちを
死の間際に思い出しながら詠んでいます。


「白菊の〜」の流れからは、老若男女の差異無く
生きとし生けるもの、万物一切を在るがまま
愛しく思うような、そんな心境に近い気がします。

男だから女だから、老齢だから幼年だからと
そんな人間の境界なく、在るがまま人間を慈しむ
そのように解釈すれば俳聖の境地に曇りなしです。




秋深き 隣は何を する人ぞ


本来、句会に出席にする予定でしたが、
句会に出られる状態ではなかったため
この句のみを出席させたのでした。

先月述べたように、蕉門派閥争いなどで
弟子たちもギクシャクしておりました。
その句会で、師・芭蕉はこのように伝えます。

隣は何をする人ぞ、と。

何をするんだろう、何をしているんだろう。
それを考えるのは、思いやりの一歩でしょう。

自分は!自分が!…ではなく、隣人は何を??
と考える契機を与え、場を和ませたかったのでは
ないかと、そんな風に個人的には捉えたいですね。

(達人の域には届かないと諦めていたにせよ…
 どの門弟も互い互いでの作風を重んじながら
 俳諧の道を深めて行って欲しいと願いつつ。)


死の床で、弟子たちは句会、隣は誰もなく
晩秋の寂しさを一層感じるものだなぁ…的な
そんな軽い句ではない気がします。。



旅に病で 夢は枯野を かけ廻る

(たびにやんで ゆめはかれのを かけめぐる)


芭蕉の辞世の句です。
芭蕉の「夢」とは何だったのでしょう。


弟子たちが醜く争うことなく切磋琢磨し
俳諧の道を究めていくこと?

あるいは、孤高の俳人として、
森羅万象を17文字に凝縮しようと?


…まあ、様々な思いが去来しながらの
「夢」という一語かと思います。

人が世を去る際に、自らが導いてきた子孫や
弟子・後進たちが、躍動する姿を想う時、

それはそれで「今ここに身体は消えても
夢は消えずにかけ回る」ように思うかも。



1694年11月28日に芭蕉が世を去って
実に323年を経ますが、その時を隔てても
このように芭蕉の句に触れて色々と感じ、
芭蕉の「夢」を追想する者もいますし、

「人の世の連なり」というものは
「想いの繋がり」と言えるはず。


ご子息ご令嬢を心から大切に想い、
愛情をかけて導いていかれる保護者の
皆さま方も、いつか訪れる昇天の際は
「夢」の行く末が幸せなものと願い
笑顔で見送り見守られることでしょう。

ただ、昇天の1年前は?10年前は?今は?と
遡っても、その気持ちは本来変わらないはず。


日々刻々どの時々も 人生最期も 変わらず
大切な人を想い合って、互いの「夢」を
自由に高めて行かれますように。

偏見・先入観に囚われることなく
曇りなき鏡のような清浄な精神を以て

先人の願い・夢に想いを馳せながら
自らを神聖に輝かせて下さればと思います。




…というわけで、長くなりましたが
芭蕉最期の句でした。師走に「最期」を
辿った以上、月初挨拶の芭蕉シリーズは
ここで一区切り付けることに致します。

まだまだご一緒に考えておくべき名句は
多くありますけれど、それは個別の機に。

(2018年からのテーマは決めていませんが
 同じようなスタイルで行くはずです…)




2017年の最終章も貴きご縁に充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます!



(今月の第2回目更新はどうなるか未定ですけど
 時間が許せば16日前後に1つ挙げたいです…)

posted by laluz at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾
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