2011年09月20日

永遠の「生」


本来的に昨日19日に掲載される予定だったものの
色々な手違い等で本日の記事になったものですが、

「“永遠の命”は実現できるか!?」というNHK番組を視聴しました。

再生医療の最前線や拒絶反応のない臓器の可能性、
生物の寿命を左右する遺伝子研究、などが
映像で概観できる知的な番組でした。

肉体の死が訪れてもコンピューターネットワークの
仮想現実世界に「分身=アバター」として生き続ける
ことで「永遠の命」を実現させようという、一昔前は
SF的空想でしかなかったような研究についても、
現実化できそうで興味深いものがあります。

「永遠の命」というものを「人類の夢」と言って
良いかは分かりませんが、有限・不完全な存在で
ある人間が「永遠性」「完全性」に憧れるのは、
ある意味「性(さが)」と言えるのでしょう。


仮に「不死」を手にした人間が現れるとしても、
今度は「いつ、いかに死ぬか」を考え出すのに
多くの歳月はかからないはずです。

「完全」と「不完全」、「有限」と「無限」の
境界そのものさえ分からない人間にとって、
「永遠の何か(愛であったり不老不死であったり、
あるいは永遠の完全性を「神」と崇めつつ)」
を追い求めるのは、本能的必然かもしれません。



あらゆる細胞レベルの「小さな死」の集積の上に
一個体の「大きな死」というものが帰結されるならば
その小さな生と死を極限まで優しく引き伸ばす先に
「大きな生」が永遠に近づいて行くのでしょう。

一瞬一秒の生死の連続を慈しみ、大きな個の生死と
等しく捉えるならば、細胞それぞれと一個体の関係は
動植物それぞれと地球体の関係のごとく思い至り、

あらゆる星々と宇宙総体の関係にさえその相似を
見出せるならば、その瞬間「永遠の生」を生きて
いると言えるのかもしれません。


永遠と思えるほど愛おしい時間を一瞬でも過ごし、
ほんの1時間が1年に匹敵するほど思索に遊び、
行き交う出会いと別れに感謝して過ごすならば

たった数10年の「生」でもその価値は
無為の500年に劣らないことでしょう。

私のように「頑張らない」怠惰な者にとっては
「究極の締切効果」として「死」は必要でしょうし
(寿命5000年でも退屈しない自信はありますが)

多くの人間にとっても「有限の生」を最大限に
生きているかと言えば、そうでもないでしょう。

有限だからこそ「生」の価値が分かるというより
未熟だから「寿命を限らないと生の価値が分からない」
という方が正確な表現かもしれませんね?

「生死」の価値を等しく分かるようになれば
「永遠の生」を既に生きているように思えます。


今のところ避けられない「人との死別」までに
どこまで「生」の価値を高めてあげられるのか?
という観点で、過ごした敬老の日でした。

支えて下さる方々と共有する有限の時間を
お互いの生死が安らかに収束していく時まで
日々大事にしていきたいものです。


書き直した割に(いつもながら)まとまりがない
乱文ですが、今回はこの辺で。。



posted by laluz at 14:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 健康面について
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