2012年01月12日

「百聞不如一見」


「百聞は一見に如かず」(ひゃくぶんはいっけんにしかず)

人から話を聞くことは、自分の目で実際に
見ることには及ばない、という意味ですね。

『漢書・趙充国伝』に「百聞は一見に如かず。
兵はるかに度(はか)り難し。臣願わくは馳せて
金城に至り、図して方略を上(たてまつ)らん」

(自ら金城に馳せ、戦局・兵力をこの目で
 把握してから戦略を奉りましょう)
 

とある故事からとされています。

これはどのような場合にでも当てはまるでしょう。

「見」という意味合いを拡大していけば
「学問」全てに言うことができると思います。

学校等で説明を何回も聞くだけに比べて、
問題の本質を「自分で見る」ことができれば
より鮮明に分かるようになるのと同じです。

勉強・学問でも「聞いただけ」では
理解できていないことが多いものです。

「知っている」のと「理解している」のとは違います。

本質が「見えている」ことが伴っていないと
「理解している」とは言えないでしょう。


例えば、「ゾウ」というものについて話を聞いたり
図鑑でみただけでは「理解している」とはいえませんね。

実際に見て、触り、臭いや声を感じるという体験が
あって、少しずつ「理解」に近づいていきます。

(「本当の理解」に至るにはゾウの研究者として
 生態観察しながら何十年もかかるでしょうけど)


我々は「知っている」ことは多いですが、
それを「理解している」とは限らないという点
常に意識しておく必要があります。

むしろ分かっていないことだらけです。


自動車の仕組みを分かっていなくても運転はできますし、
人体メカニズムを理解していなくても生きていけます。
(それで「存分に生きている」かは別としても)

ただ、新しい物事を思索し創造していく者は
先入観に囚われず、本当にその理解で正しいのか
という問題意識を常に持っていなければなりません。


知能テストや、難関入試の問題というものを
この視点から逆算してみると、非常にシンプルな
原理で創られていることが多いものです。

(1)一般的定理・原則の理解を最初に問う、

(2)次にその知識・原則を具体的に適用できるかを問う、

(3)本題として、一般的な適用・通常の考え方では
   不都合が生じる場合の解決策について問う


芸術・音楽といった実技的試験は別としても
知能や学力を問う形式のテストではまず間違いなく
上記のような段階で被験者を試します。

(1)だけ、あるいは(2)までというのは
理解定着度を試すもので、学校テストは大体
そうなっているはずです。

学校定期テストでは好成績だけど、模試や過去問では…
という人は(3)の勉強が不足しているかもしれません。

ただ、難関校の入試でも部分点に分かれていて
(1)(2)が解ければ合格点が付くことも多く
(3)まで十分に押さえ切れなくても受かります。

そういう意味で「受験生の質が下がっている」と
嘆かれる要因となっているでしょうけれど、

本題としては独自的解決能力・発想力を試したい
というのが出題者としての本音であります。


知能診断などではそれが顕著で、最初は皆が分かる
一般的法則を問うてきますが、徐々に応用力が問われ、

最終的には「そもそもの問題の所在を見つけ出し、
その法則を整理して、解決策を自分で考え出すこと」
という知的能力が問われることになります。


大学入試・大学院入試の小論文でも同様です。

出題者が「どの階層で、聞いてきているのか?」
「どの当たりの能力を試したいのか?」を先読みし
それに合わせた解答をすることができれば、
ペーパーテストでは百戦危うからずです。


…と、ちょっと脱線しましたが、

「一見」という意味を深く捉えてみると、
ただ「聞いて知っている」だけで実際は
「本質を見ていない」ことが多いものです。

だからこそ、学力試験etc.というものは
その本質の理解を問いたいわけですね、


本質を見たことがありますか?
本質を見ようとしていますか?

という問いを意識した日々の研鑽こそが
深みのある知力に導いてくれます。


目標や志望校というのは、その過程で
必然的に通過できることと思います。


それでは、今回はこの辺で。

ご訪問下さり、ありがとうございます。


posted by laluz at 15:00| Comment(0) | 「脳」の使い方
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