2013年11月06日

「 幽玄の花 」


皆さま、こんにちは。

「芸術の秋」という素晴らしい時候、
趣向溢れる催しが各所で在るもので、
先日『後楽能』に 足を運んで参りました。

岡山後楽園・能舞台における毎秋の恒例催事ですが、
金沢兼六園、水戸偕楽園とあわせ「日本三名園」の一で
しとしと雨の降る中の「能」は、趣も深く感じます。


1707年に建てられた能舞台は戦災で焼失しますが、
1958年(昭和33年)に再建され、昭和42年に
見所の栄唱の間などが復元されました。


n0.jpg

能舞台と見所は小庭を挟んだ半屋外と言えるので、
雨が降ると雨ごしに能を鑑賞することとなりますが、

悲しみの演目に際して、天も泣いている如く
気温や天候が 「幽玄の美」に 花を添えてくれます。

…件の 後楽能2013 の演目は、以下の通り。


・能 「鸚鵡小町 杖三段老女ノ舞

 西出明雄(シテ)福王和幸(ワキ)

・狂言「飛越」  茂山茂、田賀屋夙生

・能 「船弁慶 〜前後ノ替〜

 桑田貴志(前シテ)、観世喜正(後シテ)
 桑田潤之介(子方)福王知登(ワキ)、



凡そ 劇・舞台の類は、一期一会の交感であるとしても
その中でも「能」は格別に一期一会の舞台だと思います。

(今回のように雨天での公演と、夏の晴天時では
  響き方も、舞の趣も全く変わってくるでしょう。

 屋内能楽堂であっても基本的に昼夜連続公演など
 繰り返さないのが「能」。散る「花」の意趣を感じます。

 その意味でも、絢爛なミュージカルや 歌舞伎は
 浅学故に未だ「良さ」が分からない感じです…。)



さて「鸚鵡小町(おうむこまち)」は、平安前期
「六歌仙」の一人で才色兼備と名高い小野小町が、
老い落ちぶれて逢坂山の関寺辺りに隠れ暮した…
という謂れを題材にした 能の一つです。

(鸚鵡小町・通(かよい)小町・卒都婆(そとば)小町
 関寺小町・清水小町・草子洗小町・雨乞小町の
 計7曲を指して「七小町」と言われています。)


「鸚鵡小町」は舞われるのが比較的少ない演目ですが、
齢100歳にして老落した小野小町の元に新大納言行家が
陽成天皇の御詠を携え赴き、老小町は「ぞ」一文字のみ
差し替える鸚鵡返しで返歌をした…という内容です。


雲の上は ありし昔にかはらねど 見し玉だれの 内やゆかしき

(宮中は、昔と何ら変わりないけれども、
 以前に見ていた御簾の中が見たいでしょうか?)


雲の上は ありし昔にかはらねど 見し玉だれの 内ぞゆかしき

(宮中は、昔と何ら変わりないけれども、
 以前に見ていた御簾の中が見たいものです。)


疑問の「や」を、強調の「ぞ」に変えて、
「見たいか?」の問いに「見たいです」と答えた次第。

(この「鸚鵡返し」の出典は、『十訓抄』で
 藤原成範(しげのり)が、流罪を許されて
 京都に戻った際、上記返歌をしたという話です。)



「それ 歌は三十一字を連ねてだに 心の足らぬ歌もあるに。
 一字の返歌と申す事。これも狂気の故やらん。」


31文字を連ねてさえ 心を伝えるには足らないことも
多いのに、一文字だけの返歌とは…狂気に落ちた故か?!

…とまで言われますが、その1文字で小町の心は
伝えることが出来てしまう悲哀の心境や如何に。

見たいと言っても、以前の美しさも失われた今では
宮中に戻ることもできずに、在原業平が玉津島明神で
舞った法楽の舞を、華の昔を思い出しつつ舞うのです。

ただ、若さに充ちた美貌はなく老醜化しても、
本来秘めた気品の舞は、幽玄な魅力を放ちます。



和歌の浦 汐満ちくれば 片男波(かたをなみ)
芦辺(あしべ)をさして 田鶴(たづ)鳴き渡る


(万葉集 巻六・919番)山部赤人の歌も引用されますし、
能 というものは知的に面白いことこの上なしです。

2013年は世阿弥生誕650年、観阿弥生誕680年という
節目の年でしたが、この崇高なる芸術・古典芸能は
確かに受け継がれて、本物は残っていくでしょう。


(「船弁慶」は著名な演目なので触れませんけれど。
 退屈な学校教育で古典嫌いに拍車をかけるよりは、
 能の1シーンを映像で観せる方が国益に適う気も…。)



『後楽能』の他、好事家を賑わせているアニメ映画
『(新編)叛逆の物語』を遅ればせながら観ました。

…非常に奥深く考えさせられる良作でした。
じっくり見ないと分からないので、2回3回と
繰り返し観に行かれる方が多いのも納得でしょうか。


一見、可愛らしいアニメ画なので、好きではない方には
全くもって興味の範疇外(或いは嫌悪の対象)でしょうが…
まあ、それは「能楽」についても同じことが言えます。

ただ、どういう表現形態であれ、本質的に深みある
芸術作品には、やはり心動かされるものです。

永遠に連環する悲劇のサイクルから唯一の親友まどかを
救うために果てなく抗うほむら(そして世界そのもの)を
苦しみの螺旋から救うために、全自己を犠牲にして
因果法則そのもの(「円環の理」)となったまどか。

神に近い概念となったまどかが再構築した新世界で
その因果を捻じ曲げるのは、絶望でも希望でもなく
「愛」そのもの。それが「善」か「悪」かは兎も角。


愛する人々を守り、救うために自己を犠牲にした時、
その世界においては自らは従前のようには存在しない」、
それは「本当に自分が望んだ結末」なのか??

まあ、何にせよ我が国では言うまでもなく海外でも
多角的視点で哲学的に解釈・議論されている作品、
現代的文学表現の秀でた在り方の一つと思います。。


世阿弥『風姿花伝(花伝第七・別紙口伝)』に曰く、

「因果の花を知ること 極めなるべし。一切みな因果なり。」

「この道を極め終りて見れば、花とて別にはなきものなり。
 奥義を極めて、よろづにめづらしき理をわれと知る
 ならでは、花はあるべからず。」


能楽論を超えて「人の道」としても含蓄がある書物と
「因果」あるいは「円環の理」などを考えていますと
夏に弛緩しきった知能に冴えが戻りそうな晩秋です。

(…やはり「能」のお話だけにしていた方が
 まとまりが良かった気もしますけれど、
 「因果」で繋がっているということで。)



いよいよ「立冬」です、「寒」さえ慈しまれ、
御心こそ温かくお過ごし下さいますように。

いつも ありがとうございます。



posted by laluz at 06:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 書物・映画etc..
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