2017年02月04日

2017年2月の始まり



皆さま、こんにちは。

早くも2017年の初月が過ぎていきましたが、
皆さまにおかれましては益々ご清栄のことと存じます。

(…毎年「新年の誓い」という題目で書いておりましたが
推敲してから…と思ってるうちに時宜を過ぎてしまいました。
そろそろかな…とチェックして下さった方々には
ご期待に沿えず、お詫び申し上げます。)


…と、「新年の誓い」の記事は更新できませんでしたが
当方は恒例の神宮参拝を終え、2017年の至高の日々と
素晴らしい2018年の開幕に御礼申し上げた次第です。

昨年度は春にも神宮に訪れておりますので
(AMANEMも予定通りリサーチしておりました)
1年毎の区切りという意味合いは薄れましたが、
元日の恒例儀式として「精神を純化する」
という意味合いは全く変わることがありません。

神宮には、1年(或いは生前全て)の感謝を
申し述べに参りますけれど、その意味合いと等しく
皆さまに対しましても心からの御礼を申し上げます。


去る1月はセンター試験・成人式と、
人生の節目となる行事がありましたけれど、

どのような経路にせよ、志が確かなものである限り
目的地へ近づいているのは確かです。与えられた日々が
充たされたものであるようお祈り申し上げます。




薦を着て 誰人います 花の春  芭蕉


(こもをきて たれひといます はなのはる)

(素晴らしい初春の日、薦(こも)を着たみすぼらしいどこかの方がいらっしゃる。あのような方こそ徳の高い御仁なのだろうなぁ。)



当時、西行の作とされていた『撰集抄』に示される
「遁世者こその徳性」を思い返して詠んだ句。

芭蕉は西行法師を崇敬しており、『撰集抄』も
憧れを持ちつつ西行の視点を追っていたと思いますが、
後世の研究で実際は西行の作品ではなかったと判明…
それはそれで哀愁を感じますが、句としては深いです。

華やかな装いの人々が多い街中で、みすぼらしい姿の
人が佇んでいる、そのような方こそ真の「花」なのだと
そういうニュアンスで讃えているわけですね。

人間という存在は必ずしも強くはないので
不安や恐れを虚飾で覆って隠そうとするもの。

晴れやかな装いの人々でも、その実のところ
精神的には未完成であるように見える反面で、
外装を全て取り払った隠遁者こそ内面が輝いて
見えると。そういう芭蕉の隠遁・厭世観でしょう。

ただまあ、この句については京都の俳人たちに
巻頭に持ってくる句ではないと批判されたように、
一般的にはなかなか理解されにくいところです。

実際 TPOに応じて最低限、周囲に不快感を
生じさせない配慮は為すべきが知的態度でしょうし、
美辞麗句や虚飾に塗れずとも場の空気に一体化する
ような立ち居振る舞いをすることは知性の現れ。

過酷な登山にタキシードで臨むのが滑稽であるように
適切な時・場所・状況に応じた装いを計算する能力も
また当人の内面を露わに映し出すものと思います。

…と、芭蕉の句意について批判しているわけではなく。

外見の華やかさではなく、内面から放たれる輝きこそ
真実の「花」、というところに核心を置くならば
まさしく現代の我々にとっても心に響くでしょう。

わざと汚い恰好をするのでも、あるいは
ムリして豪奢な装いをするのでもなく、
各々の在るがまま自然体で内面の輝きを
放てばそれで宜しいではありませんかと。


このブログ的なものを何故か読んで下さっている皆さまは
きっと、社会的地位(収入・肩書・学歴etc)において
尊敬を集める何らかの拠り所をお持ちの方が多いでしょうが、

(元教え子でも、最難関大に在籍していれば
それだけで一目置かれたり、医師の卵として
 将来を期待されたりということがあるでしょう…)


それも「外装」の一要素でしかないのは同じです。

それらの社会的地位を全て取り払って残るものこそ
内面の輝きの源だとイメージすれば、芭蕉の当句も
きっと より身近に感じられるでしょう。

あらゆる「外装」を除いて考えた時でも
自然と解き放たれる内面的魅力があるのなら
それこそまさしく「真実の花」です。



…と、いつになく長くなりましたね。
いずれにせよ、春の訪れはもうすぐそこに。

もうすでに春の気分を麗らかに楽しんでおられる方も
厳しい寒さの中を頑張っておられる方も、
新しい春の巡りに際して、各々の「花」を
優雅に雄大に咲かせて下さいますように。


春の訪れとともに素晴らしい出会いで充ちている
2月の日々を皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつもありがとうございます。



posted by laluz at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾