2021年01月04日

「2021年」の始まり



年頭にあたり、謹んでご挨拶申し上げます。

旧年中は並々ならぬご厚情を賜り、御礼申し上げます。

本年もご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い致します。

 



 
あしひきの 山の木末の 寄生(ほよ)取りて
 插頭(かざし)つらくは 千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ
  



安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等理天 可射之都良久波 知等世保久等曽

あしひきの やまのこぬれの ほよとりて かざしつらくは ちとせほくとぞ


【 山の木の梢(こずえ)に生えているヤドリギを取って、簪(かんざし)にしたのは、千年(の世)を祝ってのことです。】



『万葉集』巻第十八 4136」大伴 家持
(おおともの やかもち)の和歌。

年末年始は大寒波到来という予測ながら
大混乱はなく何よりでした。もちろん
雪国の方々は大変だったと思います…

…と、昨年に書いていますが、2021年は
大きな混乱もあり、コロナ禍も相まって
ご不便・難儀された方も多いと存じます。

大変な年だったと歴史に残る2020年でしたが、
2021年は「再生」の年としたいものです。


歌にある「ほよ」=「寄生」と書かれたように
寄生木(ヤドリギ)のことを「ホヨ」と言いました。

欅・榎など落葉樹の梢に寄生して、
冬も緑の円球型を保ち、早春には黄色の小花を付け、
やがて真珠のような実になる「ヤドリギ」・・

過酷な寒さの中で、木々も葉を落とす冬。
生命が眠りにつく季節に、ヤドリギの円球にだけ
木の魂・生命が集中して宿ったように見えます。

そのため、寄生木=宿り木(やどりぎ)は
「神秘的な力」が宿っていると考えられました。


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ヨーロッパでは古くから宗教的に神聖な木、
幸運を呼ぶ木とされてきました。

(日本とは品種が異なりますが)
西洋ではセイヨウヤドリギを用いて、
クリスマス・リースとして飾り 敬います。


この家持の和歌では、その「寄生木」を頭にかざして
新年の宴会を寿いだというわけです。

枯れ木に宿って、木の生命を宿す「宿り木」を頭にかざし、
その生命力にあやかって、千年の世・命を祈った・・

とても縁起の良い 華やかな情景が浮かびますね。


・・まあ、そうは言っても「現実の苦難」が
すぐに取り払われるものではありませんが、

それでも心意気を枯れさせることなく、
生命力を宿して、来るべき時に備える必要はあります。


2020年度もこのように書き記しましたが、

日々の何気ない些細な事象の全てが
自分への餞(はなむけ)寿ぎと受け止めて

自らが吉兆の顕現であるかの如くに
2021年も輝かしく楽しんで参りましょう。




それでは、年頭のご挨拶まで。

皆様の益々のご清栄を、心よりお祈り申し上げます。



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2020年12月31日

2020年の終わり


皆さま、こんにちは。

いよいよ2020年を見送って
2021年を迎える時となりました。

2020年の日々も 皆さまには
公私にわたって大変お世話になりました。

2020年は色々な意味で歴史に残る年で、
手放しで喜べない方も多いと思います。
より一層、日常に感謝するばかりですね。



雪降れば 冬ごもりせる 草も木も
 春にしられぬ 花ぞ咲きける



雪が降ると冬ごもりしている草も木も
春には見たことも無いような花を咲かせるものよ。




古今和歌集(巻六 323) 紀 貫之
(きのつらゆき)の和歌です。

雪が降れば、冬で活動を止めている草も木も
春には見られない花が咲くと感嘆している情景。

折しも日本列島が大雪に包まれる年末年始ですが
草木だけでなく、人々の活動もコロナ禍と寒波で
篭もらざるを得ない状況です・・。

大雪では命の危険も多いので、
歓迎できるものでもありませんが、

現実に「そうなった」以上は
いつもと違う色・景色を感じて
新しい発見を見出す方が建設的です。

コロナ禍での「巣ごもり」でも同じことで
社会的距離を保ちながらも、非日常化で
互いの見えなかった良さが見えるなら幸いです。

もちろん「隠されていた欠点」も大きく
クローズアップされる時期でもあります。

大変な時だからこそ、精神はより純化させて
新しい年・新しい時代に備えて行きましょう。



兎にも角にも 2020年の終わりに際し、

私と時間を共有している皆々様に
心から御礼申し上げます。

この1年間の御高恩に対する謝意を
言い尽くすことはできませんが…
2020年も本当に有難うございました。


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2020年12月05日

2020年12月の始まり


皆さま、こんにちは。

2020年の約93%が過ぎ去りました。

今年も無事に師走を迎えることができましたが
2020年も平穏に過ごせたと自分本位のことを
申し上げられないくらい激動の年でした。

「でした」と過去形で語るには早いですし、
実際「これから」がコロナ禍の本番なので
予断を許しませんが…。

知覚出来るもの出来ないもの問わず
諸々の必然が より一層有難く感じます。



かぞふれば わが身につもる 年月を
 送り迎ふと なにいそぐらむ



(数えてみれば、ただ自分の身に積もる年月、
それを送り迎えると言って 人は何をそんなに急ぐであろうか。)



『拾遺和歌集』巻四 261 所収
平兼盛(たいら の かねもり)の和歌です。


まあ、そうですね〜というある意味で「真理」を
淡々と詠んでいますが、かといって冷ややかでもない。
どちらかというと笑いに変えているような感じです。

日々過ぎている「月日」であるのは同じなのに
年末年始だけ「年を送り新年を迎える」と
正月準備でバタバタと忙しくなるのが世の常。

「時間」は同じで 感じ方が違うだけとはいえ
そこに「意味」を置くのが人の世というもの。

年月日という、分かりやすい「節/区切り」が
あることで、メリハリが付くとも言えるでしょう。

日々どの瞬間でもメリハリを付けて過ごし
生きている人間にとっては、滑稽極まりないですが
その慌ただしさも含めて人間の風情というものです。


2020年は、例年とは大きく変わる部分もあり、
否応なくメリハリの付け方も変わると思いますが
それでも「時間の価値」は同じのはずです。

平穏無事な時の「年の積もり方」と
不安激動の時の「年の積もり方」は、

単に「感じ方の違い」と割り切れませんが、
慌てふためいても何も好転しないので
人事を尽くして心機一転していくのみです。


こういう時期にこそ気付けるものがあり
そこに「気付く」か否かがその後を大きく
左右するというのも真理だろうと思いますね。



それでは、今回はこの辺で。

いつも本当にありがとうございます。


(中旬更新は無く、次回は恒例の年末ご挨拶の予定です)
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2020年11月18日

この世に客に来たと思えば


こんにちは。11月2回目の更新です。

日本は比較的平穏でありますが、
世界的には更なる荒波が来そうですね…


「この世に客に来たと思えば」

この題名の続きは「何の苦もなし。」


この世に客に来たと思えば何の苦もなし。


これは「伊達政宗」の言葉とされることも多いですが
近年の研究では別人の言葉であるようです。

本当に 政宗公の発言 かもしれませんが
どの記録にも残っていない以上、後世の我々に
その真偽を確認する手立てはありません…。


さて、文字通り「この世界に"客人"として
訪れたと思えば、何も苦に思うことは無い。」と。

丁寧にもてなされる場合もあるでしょうが
質素で不便に扱われることも多いでしょう。

しかし、風雨をしのげ、最低限生かされているなら
客人としては文句を言うことないではないかと。

この辺りは、深遠な教えの多くに共通しますね。
「ただ生かされている身」であることの自覚。


この言葉には前後の文脈があるのですが、
この一節だけ取り上げる方が深い気がします。

元の文脈では、

「倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり、
 この世に客に来たと思えば何の苦もなし。

 朝夕の食事は、うまからずとも誉めて食うべし。
 元来、客の身なれば好き嫌いは申されまい。」


・・というように、あくまで質素倹約は
「不自由を忍ぶ心」に核心があるというものです。

もちろん 理不尽な処遇・仕打ちを全て甘受せよ
という趣旨ではありませんが、倹約に留まらず、

外的要因に揺らぐことのない強靭な精神を
養う指針としては奥深いと思います。


コロナ禍での不自由不便な生活は
今後しばらく続きます。冬にかけて
改めて自粛・自律が求められるでしょう。


「この世に客に来たと思えば何の苦もなし。」


悲喜こもごも色々とあるでしょうが
不便・不自由の時こそ「学び」は多いものです。


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2020年11月05日

2020年11月の始まり


皆さま、こんにちは。

2020年 第10番の月も過ぎました。
2020年も83%を終えたことになります。

もともとインドア派の方々はともかく
アクティヴな方々は行動範囲が狭くなり
時間経過の感覚も全く違う月日ですよね…

ともあれ 冬がゆっくりと訪れてくる時期。
どのような生活スタイルにせよ
万全の体調で過ごして参りましょう。



もみぢ散る 音は時雨の ここちして
 こずゑの空は くもらざりけり


(紅葉が散る音は 時雨のような心地がしても
 梢の上の空は、曇っていないことだよ。)



『御拾遣和歌集』所収・藤原家経の和歌。

“時雨”とは主に秋から冬にかけて降る、
 降ったりやんだりする雨のこと。

紅葉が一斉に散っていく音は、
雨が降る音のようにも聞こえるもの。
なので、秋雨かと思ったら空の上は
曇っていなかったよ…という優しい作品です。


雨一つとっても、心境によって
翠雨(すいう)や慈雨(じう)と感じたり、
鬱陶しい村雨(むらさめ)だったりするのが人間です。

この歌のように「音だけ聴くと」雨に思えたけど、
雨ではなかったというようなことは日常でもありますね。



そういう意味では、悲喜交々(こもごも)も
案外自分の心境次第だったりするわけです。

まあ、何でも自分の見たいように見る
感じたりするように感じるというのは
浅はかさと紙一重なので難しいですし、

言うまでもなく 相手の状況・心情を無視して
自分の世界観を押し付けるのは愚かです。


ただ、あくまで自分の内面的な捉え方として
周りの事象が変わらないのであれば、
自分の感じ方を変えてみるのは重要です。

現実を直視せずに楽観的に捉えるのではなく
現実を正確に捉えつつも、その解釈を柔軟に
「未来の展開」まで読み込んでいくこと。



…と、まあ紅葉と時雨の和歌で
難しく考えることはありませんが、
全ての事象に対して 趣を感じるのは
秋であろうが冬であろうが変わりません。

四季の移り変わり…秋から冬、冬から春
そういう「悠久の時の流れ」の中で、
その時々の一喜一憂も捉えていくと
人生の奥行きも彩り深くなっていきますよね。


それでは、今回はこの辺りで。

コロナ禍に負けないよう、迫る寒気に
身を引き締めつつ 11月も過ごして参りましょう。

いつもありがとうございます。



(11月は情勢が許す限り 16日前後に
 もう1回更新できれば…と思っています)

posted by laluz at 13:46| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2020年10月05日

2020年10月の始まり


皆さま、こんにちは。

2020年 第9番の月も過ぎました。
2020年も75%を終えたことになります。

2020年は「新しい生活スタイル」順応で
時間経過の感覚も「今まで」とは違うでしょう…

ともあれ 各々与えられた時間を大切に
収穫の秋を楽しんで参りましょう。



目もかれず 見つつ暮らさむ 白菊の
 花よりのちの 花しなければ


(目を離さないで見続けながら暮らしていこう。
〈冬が迫り〉白菊より後に見る花はないのだから。)



『後拾遺和歌集』巻第五(秋下)349番
伊勢大輔 (いせのたいふ) の和歌です。

伊勢大輔(989年頃?〜1060年)は
平安時代中期の女流は歌人。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。



目もかれずの「かれ」は「離れ」と「枯れ」の掛詞。
「目を離さず枯れないように」というニュアンスです。

現代においては、温室栽培などで季節外の
花・野菜・果物など珍しくありませんが、
当時としては「白菊」は花を愛でる風流の
最後を飾るものと思われていたわけですね。


全てが移ろい、変わらぬものなど何もない世で
「枯れないように目を離さず愛でる」というのは
ある意味で浅ましい人間の性(さが)と言える
かもしれませんが、そのような執着を持つから
こその人間性という面もあるでしょう。

どうせ全ては消え去る幻であるという諦めよりは
縁あって時間を共にする限りは愛を以て慈しもう
というアプローチの方が「精神的に健全」
というか「知的」でさえあると私は思います。


「白菊」の花ことばは「真実」と言われますが
「万人にとっての真実」などありません。

各々がその時々に感じ、思う事象こそが
各々にとっての掛け替えなき「真実」であり、

「自分にとっての唯一」を大切に思うことは
その知性を一段と深める機会にもなります。


コロナ禍で「当たり前が当たり前ではなく」
なることもありますが、だからこそ日常の
何気ない事象さえも「有難い真実」として
愛でていきたいものですよね。


それでは、今回はこの辺りで。
素晴らしき10月の日々をお過ごし下さいね。

いつもありがとうございます。


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2020年09月18日

秋の光


皆さま、こんにちは。

少し遅くなりましたが 9月2回目の更新です。

すっかり秋らしく、過ごし易くなりましたが…
コロナウイルスとの共生という社会においては、
大小様々な影響が圧し掛かっていますね。

とはいえ、後ろ向きになっても無益ですし、
有難き日常に一層感謝できるだけでも有益です。



三日月の 野原の露に やどるこそ
 秋の光の はじめなりけれ


藤原俊成(ふじわら の としなり/しゅんぜい)
(1114年〜1204年12月)の和歌です。『千載和歌集』の撰者でも。


三日月が野原の露に宿るのが 秋の光の始まりなのだ…


という非常に優美な情景ですね。

「野原」という場所自体が都市部では無くなりましたが
それでも「露」は見ようと思えばどこにもあります。

ただ、その露に宿る「三日月」をみつけ、
その光を感じるというのは…心を静かに
意識的に見ようとしないと絶対に無理ですよね。

光害の中では、露の中の光どころか
天空にある三日月さえ感じにくい現代ですが、

少なくとも心持としては、それくらい穏やかに
ほのかな光を感じられるほどのゆとりを持って
日々の風流を忘れないようにしたいものです。

人との距離感が変容し、ギスギスしがちな今こそ
日頃気付けなかった「至近距離」を再考するのも
また有意義な秋の学びかと思います。


それでは、今回はこの辺で。

季節の変わり目で体調管理が難しい時期です、
くれぐれもご自愛下さいますように。


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