2018年09月17日

映画のお話 #4


皆さま、こんにちは。

今月は16日前後にもう1度更新できれば・・
と申しておりましたので、久々の月2回目
更新は 映画のお話に致します。

映画のお話 #4ということで、やっと4回?
という気もしますし、4回も書いたのか!
という気も同じくらいしますね…。

今回も、個人的に良かったと思う映画のうち
色々と考えさせられる 作品について。
(「ラルースの塔」で挙げて問題ない範疇で)



アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場
(Eye in the Sky,2015年/イギリス)


戦地から遠く離れた会議室でドローンが映し出す
映像を見ながら戦争に加担する人々の葛藤を描き、
現代の戦争の闇を浮き彫りにした軍事サスペンス。

大規模な自爆テロ計画の存在を突き止めた彼らは、
ドローンによる攻撃命令を下すが、殺傷圏内に
幼い少女がいることが判明。少女を犠牲にして
テロリスト殺害を優先すべきか否か……。

現代の戦争は、ひと昔のような人海戦術で
押し切るようなことはなく、ボタン一つで
致命的惨劇を簡単に起こすことができます。
(もちろん先進国においては攻撃実行手続は
最高責任者の裁可が必要とされていますが)


上空数千メートルからテロリストの行動を監視し、
ヘルファイアミサイルで隠密裏に敵を殲滅する
無人攻撃機ドローン。

直接反撃を受ける恐怖がないため
まるでゲームのように標的を的確に
破壊殺傷する。自軍の人的被害なくして
敵を鎮圧できるのは称賛されるべき
でしょう、戦争技術の進歩としては。

反撃・反抗する意思さえ持てない程の
戦力差で軍事的圧力をかけることにより
再燃を抑止するという構図は理解できます。

ただ、多くは「戦争」というよりは
一方的な蹂躙・虐殺だったりしますので、
宗教的信念なりを足蹴にされた者には
死を対価にしても一矢報いる!という
覚悟をより一層抱かせることになります…

まあ、戦争・紛争がなくなると困る層に
とって、全て想定内・予定調和と思いますが
その予定調和のバランスもかなり複雑精妙に
なっているので、いつ傾いてもおかしくない。

題名の「アイ・イン・ザ・スカイ」は
空のドローン・カメラを意味するだけでなく
空の目="神の目"という暗喩でもあります。

ドローン攻撃を中断して少女を救うべきか、
自爆テロを事前抑止して多くの一般市民を救うか、
この究極の問いに人間は答えることはできない。
いわば"神"のみ下せる裁可について、
人間が"神のように裁く"ことの是非。


ただ、そんなの「許される訳がない!」と
理想論で喚く資格は大多数人にないのが悲劇…。



奇跡の絆
(Same Kind of Different as Me,2017年/アメリカ)


実話に基づく、資産家とホームレスの
出会い・友情を描いた小説の映画化。

美術商として成功を収めたロンは、不倫を
妻デビーに知られ、罰としてホームレスに
給仕するボランティアに同行することに。
そこで出会ったホームレス・デンバーと
交流を深めていくロン(の家族)のお話。

キリスト教的価値観に基づくお話で
多分に"スピリチュアル"な作品ですけど
(映画としては退屈な演出もあります)
実話ということで考えさせられます。

邦題は「奇跡の絆」ですが、原題は
"Same Kind of Different as Me"

私と同じ類の 異なった(人)?
私と同じように違った類の(人)?
…と 一義的な訳出は難しいです。

私と他者は各々違っているけれど
それは等しく違っていて…天の下では
皆「違っているという点では同じ」。

人と異なっているのは間違いではない、
けれど異種・異様を怖れ排斥してきたのが
人類の歴史でした。この実話の方々のように
異種異様を「同じ」と受け入れる寛容さを
多くの人が持ち合わせられたらと思います。


この2作品とも、現実世界が舞台、かつ
宗教的視点にポイントがありますが、
キリスト教を考えるという意味で
ストレートに扱った作品を挙げてみますと。。


パッション
(The Passion of the Christ,2004年/アメリカ)


新約聖書 〜イエスと二人のマリア〜
(MARIA DI NAZARET,2012年/ドイツ・イタリア)


サン オブ ゴッド
(Son of God,2014年/アメリカ)


この3作品は観て良かったと思います。
もちろん正史教義と異なる脚色・解釈や
批判されている描写もあったりしますが
それを含めて多面的に考え得るなら有益です。

「パッション」=キリストの受難。

ちなみに"パッションフルーツ"は
"情熱の果物"ではありません。
時計草の花がまるで十字架に見えた為に
パッションフラワーと名付けられました。
その果実なので "受難の果物"です。


…と、ムダに長くなりましたね。。
やや深刻な作品ばかりでしたので、
最後は楽しい雰囲気の作品を。


マジック・イン・ムーンライト
(Magic in the Moonlight,2014年/イギリス・アメリカ)


監督ウッディ・アレンが1920年代の南仏を
舞台に描くロマンティックコメディ。

マジシャンのスタンリーは皮肉屋の毒舌家、
魔法や超能力など存在しないと信じる彼は
噂の占い師ソフィのペテンを見抜いてやろうと
自信満々で乗り込むも、彼女の透視能力を
目の当たりにして価値観を揺さぶられ、
さらには性格も良い彼女に惚れてしまうが…

…と、普通に楽しめる作品なのですが、
結構奥深い要素もあるのが秀逸です。

ハリー・フーディーニ(1874-1926)は
サイキックハンターとしても有名な
天才手品師で、霊媒師マージェリー・
クランドン (1888–1941)との"対決"が
脚本の実話モデルとなっています。

「オカルト」と「マジック」といった、
お互いに相容れないと思っている存在を
人間として互いに認めながら融合していく
というのは、ある意味"王道"ですけど。

原題は"Magic in the Moonlight"

これから24日夜にかけて月は満ちていきます。
月光の下で「魔法」と言うべきような
素晴らしい日々を享受下さいますように。

ちょっと纏まりに欠けますが、
もうタイムリミットなのでこの辺で。

いつもありがとうございます!


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2018年09月04日

2018年9月の始まり


皆さま、こんにちは。

2018年 第8番の月も過ぎました。
2018年の約67%を終えたことになりますね。

猛暑が続いたと思えば 大型台風が通過したりと
ご不便を強いられた方もおられると思いますが
これから少しは一段落できる秋の訪れを
感じることができるでしょう。

何はともあれ、充実された日々を
お過ごしであるようお祈りするばかりです。




なにごとも 変はりのみゆく 世の中に
 おなじかげにて すめる月かな



( あらゆるものが移り変わって行く この世界にあって
  変わらぬ光で澄み輝いている月よ。)




特に説明も必要ないシンプルな和歌ですね。
だからこそ洗練された清澄さが際立つというか。

説明不要といっても、時代背景は以前触れたように
激動の真下なので「何事も変わりのみゆく世の中」
というのは、我々の想像以上の実感覚と思います。

ただ、現代は現代で、激変する時代といえます
(技術・環境の変化は筆舌に尽くし難く、また
日本においては実感しないだけで政変・紛争
 などは世界各地で続いていますし…)


事象の把握も進んで、西行の時代よりは
「月」や「光」のことも分かって来ました。

芸術表現に際して無粋に興を削ぐ意図は
ありませんけれど、「月」の表面はボコボコ
特に月の裏側は…幻想的な月の印象とは
相容れないような異様・不気味なほどの
クレーター地表ということだったり、

月は「我々が見ている側」を常に向けたまま
回っていることも、現代では周知事実ですが
表側の"うさぎ模様"は地球の重力との協働で
出来たであろうことも分かってきました。

長い宇宙時間を考えるなら「月」さえも
変わって来ましたし、変わって行くもの
ではありますが、それらを踏まえた上で
なお「不変に清澄なる月光」というものに
思いを馳せることは 大切なひとときです。

(まあ…月光の源である太陽さえ寿命があるので
 「不変に清澄なる月光」というのも幻想ですが
 そこは瞑想上の癒しのイメージというか。)




ゆくへなく 月に心の すみすみて
 果はいかにか ならむとすらむ


(在るがまま 月に想いを馳せていると 心が澄んでいき
 この果てに私の心はどのようになってしまうのであろうか)



…というイメージでしょうか。
まさに月と同化している境地。

月と同化、と自分で言ってしまうと
lunatic(狂気の)な人に思われるでしょうけど。

(実際、月の引力は、潮汐だけでなく血流にも
 影響を与えると考えられて来ましたし、あながち
"月と狼男"的な逸話は嘘ではないでしょうね。)



ただ、互いに影響し合っているということは不変。

生活環境やシステムの細部は刻々と変化しても
物事の「核」「本質」というものは容易く変化
するものではありません。

今後、人工知能が地球の行方を差配するように
なったり 地球外に移住する…というような
"大きな変化"があっても、人間の本来持ち得る
徳性やら創造性の尊さは変わらないはずです。

それに比べれば"小さな変化"といえるような
受験制度や就職活動規制、災害による住環境変化
などにおいても、各々の本質を見誤らないよう
それでも「変わらないこと」の尊さを考えながら
実りある秋日を歩んで参りましょう。



昨年度「2017年9月の始まり」は「芙蓉(Hibiscus Mutabilis)」を
テーマにしていましたが、「変化と進化」という点で
相通ずるといえますので併せて読み返して頂けば。



それでは、今回はこの辺で。。

9月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。



(今月は世界情勢が許す限り 16日前後に
 もう1回更新できれば良いなと思っています)
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2018年08月05日

2018年8月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年 第7番の月も過ぎました。
2018年の約58%が過ぎたことになりますが、
熱烈な日々をお過ごしのことと思います!




露おもみ そのの撫子 いかならむ
荒らく見えつる 夕立のそら



(雨露の重みで 庭の撫子はどうなっているだろうか。
 荒々しく見えた夕立の空だったけれど。)




「撫子」=ナデシコ科ナデシコ属の植物ですが
和歌の多くは「河原撫子」を指すようです。

カワラナデシコ/学名 Dianthus superbus L.
var. longicalycinus (Maxim.) Williams

ナデシコ属の属名 「Dianthus」は
ギリシャ語の Dios(神ジュピター)
+ anthos(花)が語源なので、
「神の花」という意味ですね。

superbus(気高い、素晴らしい)なので
Dianthus superbus=気高き 神の花・・



ただ、Dianthus superbus の種名は
蝦夷河原撫子(エゾカワラナデシコ,
学名 Dianthus superbus L.var. superbus)
を指しますが、これより萼(がく)が長いので
変種名 longicalycinus(長い萼の)が付くと。

L. とか(Maxim.) Williams は命名者なので
本歌の撫子は「(長萼の)気高き 神の花 」
という名を持つ お花です。

ちなみに カーネーションもナデシコ属で
(学名: Dianthus caryophyllus L. )
「神の花」属の一員ですね。

中国由来のセキチク(Dianthus chinensis L.)
が唐撫子(カラナデシコ)と称されたのに対して
河原撫子=大和撫子(ヤマトナデシコ)と
区別されるようになったと言われますが、

浜撫子(Dianthus japonicus Thunb.)が
日本の"神の花" という学名なので
唐(chinensis)と大和(japonicus)なら
浜撫子の方が腑に落ちましたね…



・・と、「ナデシコ」の花々は
我が子を撫でるように愛すべきとか
神の花と言うべきほど素晴らしいとか
そのように受け容れられてきた訳です。

ナデシコ論 はこの辺りにして
和歌の方に戻りますと、

激しい雨の後、撫子の花たちは
大丈夫だろうか…と心配している情景。

撫子の場所に居ないのが秀逸ですね、
激しい夕立さえ自身は遭っていないかも?

黒い雨雲が撫子が咲く庭の辺りに向かって
いるのが見え、激しい夕立が予想される中
大丈夫であろうか…と心配させられる
そんな場面が浮かび上がってきます。


比喩表現と見れば、状況が荒れるであろう
事変に、難局を超えた経験が無い若輩たちは
大丈夫か…と案ずる意味にも読めますが。


豪雨・大地震など大規模な天災が起こった時に
限ったことではありませんけれど、何かの異変が
予想される際に、近縁者の身を案ずるのは当然。

中学・高校・大学など進学を機に親元から
送り出したご家族の方々にとっても、
離れた地で異変があれば心配されるでしょう。

災害に限らず、試練・難局の真下にあるなら
心身の疲労で押し潰れないかと心配したり。

まあ「心配することが心配の種を蒔く」
として、心配されることを好まない
私のような変異種もいると思いますが、
(私と長らくお付合い下さっている方々は
クスクスお笑いになるでしょうね…)


「互いの状況を適切に把握する為に
相手の身を案ずる」のは人間の美徳の一つです。

心配かけたくないから嘘を付く…というのも
また人間の特性なので、なかなか難しいですが
少なくとも心配してくれる存在がいるなら
それだけで幸せなことと思います。

誰も心配してくれる者などいない!という
方にとっては、心配されるレベルを超えて
他者を心配する側に立つことがきっと要求
されているのでしょうね…痛みを知る者の
言葉でないと 慰めなど心に響きませんし。


ともあれ、異常気象と言うべき気候が
今後も続きますし、各々にとっての試練も
適宜あるものと思いますが…身を案じつつ
支えて下さる存在を忘れることなく、
夏の日々を歩んで参りましょう。


ちょっとまとまりが悪いですけど
更新が遅くなるので今回はこの辺で。



8月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。



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2018年07月16日

ささがにのいと



皆さま、こんにちは。

15日前後に改めて更新しますと
申し上げておりましたが、16日も終わり
17日を回ろうとする時間となりました。

15日頃にチェックして下さった方々には
お待たせしてしまいまして すみません。


さて、毎年7月は「七夕」をテーマに
ご挨拶をしておりましたので後日改めて
と書き残しておりましたが、2018年の
新暦七夕は未曾有の豪雨が重なりました。

…6日夜は普通にご家庭先で授業でしたが
遠くで特別警報など鳴り響く真下でも
岡山県でここまで被害が大きくなるとは…
というのが偽らざるところです。

被災された皆様ならびにご家族の皆様に
心よりお見舞い申し上げます。

被災地の一日も早い復旧を
心よりお祈り申し上げます。




このような状況下で、七夕の和歌を
のんびり鑑賞するというのもどうか
と思いますが・・鎮魂の意を込めて。



天の川 流れてくだる 雨を受けて
玉のあみはる ささがにのいと



ささがに(笹蟹)とは蜘蛛の古名。
「玉=魂」の暗喩のこともあります。


天の川から落ちる雨を受けて
まるで大切な宝玉を飾るように
蜘蛛が糸に散りばめていく様。。

本来は解説を加えるべきところ
ですけれど、個々の感じるがまま
その解釈に委ねます。


雨は、有機生命体には欠く事の
できない天恵でありながら、
惨事をも齎(もたら)します。

遺された我々においても、
小さな縁を大切に想いながら
日々を全うさせて参りましょう。


これから暑さも増してまいりますが
くれぐれもご自愛下さいますように。


本当にいつもありがとうございます。


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2018年07月04日

2018年7月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年 第6番の月も過ぎました。
2018年の半分が経過したことになりますが
年頭計画に照らして諸事順調でしょうか?

まあ・・与えられた日々を感謝しながら
生きているなら 計画通りか否かなど
些事でしかありませんけれど、

2018年後半も充実した日々を
過ごして参りましょう!




むすびあぐる 泉にすめる 月かげは
 手にもとられぬ 鏡なりけり


(両手に掬い上げても 泉に宿る月影は、
 手には取って見ることはできない鏡のようなもの…)




むすぶ(掬ぶ)=左右の手のひらを合わせて
(水などを)すくう という古語ですね。
「結ぶ」の意も掛けていると思いますけど。

澄んだ泉の水面には、月影が微笑ましく
揺蕩う(たゆたう)、そんな優しい情景。

その月影を両手に掬い上げようとしても
実際に手に取ることはできません。

ただ、両手に掬った水面にも月は映ります。
まるで手鏡のようなものだけれど、それに
自分を実際に映すことはできないという。

(両手を傾けると水は溢れるし、水面に
 顔を映そうとしたら 月影が隠れます・・ )


泉に澄み映える月、両手の水面に浮かぶ月、
その狭間にいる自分、という幻想的な
反映が綺麗な和歌だと思います。



もちろん、西行の作品なので 洗練とした
言の葉の中には奥深い叡智が宿っています。

釈迦の教えでは、水面に映った月に
仏や真理を見る喩えはよく用いられますが、

有名な文章では『正法眼蔵』第一 現成公案に
述べられています。少しだけ引用してみますと。

------------------------------------------------

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。
月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も彌天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。
さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。
人のさとりを礙せざること、滴露の天月を礙せざるがごとし。
ふかきことはたかき分量なるべし。


(補訳)
人が悟りを得るのは、水に月が宿るようなものである。
そのとき、月は濡れもせず 水が壊れることもない。それは広く大きな光りでありながら、ほんの僅かな水にも宿り、月のすべて天のすべてが草の露に宿り、一滴の水にも姿を宿す。
悟りが人を壊さないのは、月影が水を穿つことがないのと同じ。
また人(の小ささ)が(大いなる)悟りを妨げないのは、
(小さな)露が(大きな)月を拒まず受入れるのと同じである。
一滴の水に映る天月の深さは、実際の天月の高さに等しい。


------------------------------------------------------

・・というように。(拙訳ではありますので
高僧老師には誤りを諭されるかもしれませんが
「大いなる叡智」の探究という見地からは
大きく乖離していないと信じます。)



それを踏まえても、両手に掬い上げた水面に
月を映しながら それに自分を映すというのは
知的な遊び心を感じて 興味深い試みです。

あえて奥深く読み込むと、悟りの境地に至れば
もはや「自我」はなく「叡智の鏡」に自らが
映ることは無くなる…とも言えましょうか。


ただ、先月も書きましたように、西行は
煩悩ともいうべき恋慕の情を あえて
捨て去ろうとしませんでしたので
この和歌についてもそこまで説法じみた
無粋な意図はないように感じます。

水月は、文字通り「目前にあって手に届きそう
なのに自分のものにすることはできない」
=叶わぬ恋 の暗喩としても用いられますし、

その意味では「結び」=縁を結ぶという
意味で、待賢門院璋子との恋を重ねている
と 微笑むこともできましょう。


…という感じで、30余りの文字の配列に
天と月・悟り・恋・・と詠み込む西行の歌でした。

情景的にも涼やかで、蒸し暑い時期に
脳への清涼剤にもなる気が致します。

ちなみに『正法眼蔵』は難解ですが
「第一・現成公案」の巻だけは
今一度お読みになると良いでしょう。
「悟りとは何か」を示したものです。

現代語訳も色々ありますが、中には
ちょっとこれは誤訳かな…という類も
あるので、何通りか目を通しながら
自分なりに思考していくことが大切です

(「学び」全てに言えることですね )。


※ 長らくお付合下さっている方々には繰り返しになりますが、私という者は特定の宗派教義に与しておりませんので、宗教的な(怪しげな?)表現があっても特定の信仰を念頭には置いておりません。

むしろ…あらゆる教義・諸法・賢書が説き示す叡智の根源は「一」であると日々感じていますけれど、その信条さえ唯一絶対のものとは思っていませんので、へーこんな考え方もあるんだなぁ程度に お気楽に思索を楽しんで下されば幸いです。



かなり中途半端ではありますけれど
(想定の着地には長文過ぎたので)
今回はこの辺で終わります。

蒸し暑い季節となりますが、天月・森羅万象を
自らに投影させるがごとく澄み切った精神で
涼やかに7月を楽しんで下さいますように。


7月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます!




2016・2017年と「七夕」テーマのご挨拶でしたし
2018年はスルーというのもモヤモヤするので
例のごとく15日前後にでも改めて
書き置こうかなと思っています。。


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2018年06月04日

2018年6月の始まり



皆さま、こんにちは。

2018年 第5番の月も過ぎました。
2018年の約42%が経過、、速いです!

「時間」とは 比較的仲良くしている方だと
思うので「知らない間に時間が経ってるぞ」
という感想・感覚は 基本ないのですけど
(知らない間にお金が減ってる!が無いように)
最近ちょっと無為に過ごしてる証拠ですね・・

夢時間で3日ほど過ごしてから起きた時に
あれ?まだ今日??というのは増えているので
「知らない間に時間が増えてるぞ?」的に
思った方がいいのかもしれない嬉しい現象で
逆にのんびり怠惰に過ごす割合が増加したか…

…と、どうでもいい自問自答はさておき。



「ラルース進学塾」も皆さまの温かいご支援の下で
7年間という時間を存在し続けていることになりました。

毎年毎回に同じことを申し上げておりますが
どの年次にあっても有り難い時間で包まれました。
それもこれも、各方面各位のご厚恩を賜った故と
心より御礼申し上げる次第です。

「進学塾」というよりは「進学会」とでも称した方が
実態に適うというところでありますが、、個人的な
繋がり・ご紹介によるご依頼ご相談がほとんどの故
特に支障もない限りこのままにしておきます。


引き続きご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。






夕立の はるれば月ぞ やどりける
    玉ゆりすうる 蓮のうき葉に



夕立が晴れると月が宿っていた。(雨露の)玉を
揺り動かしながら落ち着かせていく 蓮の浮葉の上で。



西行の和歌。

雨の雫が 蓮の葉に揺らされながら、
ころころ転がり やがて葉の窪みに
ゆっくり静かに落ち着いた その
小さな雫の中に天の月が宿っている。

幻想的で美しい情景が目に浮かびます。

さて、このように雨露の中に月を詠み込む
芸術性だけ味わっても十分ではありますが、
西行の心情を前提に捉え直すと 更に
深い世界が詠み込まれています。

この「心情」を正確に説明するには
かなりの文章量を必要としますが…
一言で表現するなら「一途なまでの恋慕」。

お相手は、藤原 璋子(たまこ/しょうし、
1101年8月22日〜1145年9月10日)。
幼少から白河法皇の寵愛を受け、16歳で
鳥羽天皇の中宮に(第一皇子は後の崇徳天皇)。
23歳から院号・待賢門院(たいけんもんいん)。

璋子34歳の時、佐藤義清(後の西行)17歳。
鳥羽院の「北面の武士」として奉公する一武士と
中宮との儚き関係。璋子は魅力的だったらしく
年齢問わず奔放に恋愛を楽しんでいたようですが、
皇后相手に若き士の一途な恋が叶うはずもなく。

その想い=煩悩を断ち切る為に
義清23歳で出家したと言われています。

西行は恋歌も相応に遺していますが、
念頭にあったのは間違いなく璋子でしょう。

1145年に璋子が亡くなってからも京に還るたび
彼女の眠る法金剛院の陵墓に参りました。
忘れられない煩悩を恥じながらも
終生 忘れることはありませんでした。



さて、この待賢門院璋子ですが、第一皇子は
夫の鳥羽天皇ではなく、養父ともいえる白河
法皇との子だと信じられており、その辺りから
皇位継承争いに巻き込まれる波乱の晩年を
過ごすことになります。

没後の1156年に「保元の乱」で争ったのは
第一皇子(崇徳上皇)と第四皇子(後白河天皇)
で、後者に軍配が上がりますが、養父・夫・
実子ら権力争いの「核」でもあった女性でした。

この権力闘争を介して源氏平氏ら武家が力を
持ち始め、武家政治への門を開くことになりました。
歴史に「if」はありませんが、最初の藤原忠通との
縁談で 璋子がそのまま摂関家に嫁いでいれば、
後の日本社会は大きく異なっていたかも…。


・・という正に傾国の美女というべき璋子ですが、
時代の流れそのものに人生を大きく揺れ動かされ
続けながら44歳で崩御します。それはまるで
璋子にようやく落ち着くべき所を与えたかの如く。
極楽浄土に咲く蓮葉の上で 静かに安らかに
包まれながら落ち着く露のように。

歌中の「玉(たま)」とは 璋子の「璋(たま)」
であり、その「魂(たま)」でありましょう。

その玉に映える月は何を示しているのか。


哲学的仏教的に解すれば、俗世の迷いを離れたが
故に「月」さえ包み込める無限性・悟りの境地に
至れたとの暗示と捉えることもできましょう。

ただ、一途な想いを胸に秘め続けた西行です、
ここはきっと若き日に共に逢った月のことでも
詠み込んでいるのではないかなぁと思います。
相手の瞳に写り込んだ月を思い返していたり。

それが今、蓮の上の雫の中に 月を見ている。
ああどうか安らかにお眠り下さい 愛しき人
という優しい想いが詰まっている気がしますね。


(彼女の眠る法金剛院は、璋子自ら再興した
 寺院で極楽浄土を表現しようとした
 浄土式庭園は 蓮の名所でもあります。)


・・個人的には「法華経 涌出品」の
 不染世間法、如蓮花在水
(世間の法に染まざること、
 蓮花の水に在るが如し)と併せて

小さな雫(個々人間)にあっても
天の月(宇宙)を宿すことはできる
という流れで終える予定でしたが。

究極的に「語るべきこと」は一つなので
良くも悪くもワンパターンになりますし、
今回は西行の人間的心情に沿う形で終わります。


あらゆる小さなモノにも
偉大なるものが宿っていると知れば
精神が大きく揺れ動くことはありません。

各々にとって「静かに安らげる地点」が
どこなのかは人生で変わってくるとしても
少なくとも「自分の手を求めてきた縁」には
静かに安らげるよう導いてあげて下さいね。


(これは善行でも偽善・理想主義でもなく…
 情けは人の為ならず、全くもって自分の為
 という利己的行為なのですけども)



兎も角も 長くお付き合い下さっている方々だけでなく
あらゆる面でご支援下さっている各方面の皆々様に
改めて7周年の感謝を申し上げる次第です。



7周年ということでお祝いのお言葉を
ご丁寧に下さった方々には重ねて御礼申し上げます。

8年目も輝かしい出会いに充ちていることを
皆さまと共に 心から喜びたいと思います。



いつも本当にありがとうございます!



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2018年05月15日

知恵の輪



皆さま、こんにちは。

今月2回目の更新ということで、
今回は「知恵の輪」を取り上げます。

「知恵の輪(a puzzle ring, puzzle links
disentanglement puzzle)」とは、
簡単に外すことができない一組(2つ以上)の
部品を外す(&戻す)パズルの一種です。


物心付く前から 身の回りには
「知恵の輪」が何種類もありました。
(両親ともパズル好きで知恵の輪も
 自然と集まっていたみたいです。)


私も基本的にパズル好きなのですけど
「知恵の輪」だけは さほど好みでは
ありませんでした。手に付く金属臭が
どうも気になっていた記憶が鮮明です。

紙や木のパズルの方が嗅覚的に好きというか。

(幼い頃から臭いに敏感で、臭いには
 神経質な子だったことを覚えています。)


弟が優秀だったので(私とは良くも悪くも
真逆のタイプで、一方が不得手なことも他方は
難なくできるみたいな)
知恵の輪は 弟が
解くから自分は解かなくていいやっていう
妙な分類も働いたかもしれませんね。

今現在でも起業後グローバルに活動していたりと
(人間が到達できる究極の叡智を究めんと
フワフワ生きている私とは本当に真逆で)
興味深く思います。陽・陰/正・奇の対というか。


というわけで、色々な思い出もありつつ
何となく遠ざかっていた「知恵の輪」ですが、
最近ふと手にする機会を得られました。

「はずる(Huzzle)」シリーズの
エニグマ(CAST ENIGMA)という
Eldon Vaughnが創った芸術的作品。
enigma.png
メーカーである潟nナヤマが
「キャストパズル史上最も難易度が高い」
と称していて 難度指数は最高の☆6。

この難度目安はジャパンメンサも協力している
とのことで以前にも書き残しましたように
現体制メンサの方はほとんど存じませんが)

メンサ名誉会員でもあった世界的パズラー
芦ヶ原伸之 監修シリーズということなら
どの程度のレベルか把握すべきというご縁。


感想としては 実に面白かったです。
オブジェとしても 美しい造詣 で
古き良き「知恵の輪」感があります。

・・外して戻すを2回ほどしましたけど、
やはり指の金属臭が気になって 幼い時の
ほろ苦い記憶が蘇り 懐かしくなれたのも
良かったかな?と思える一時でした。


ただ、「究極の叡智」探求・探究のパズルより
奥深く面白いものはないので(というかこれは
「解ける」より「創り変える」方が重要ですし
・・言ってしまえば全ての事象は 例外なく
「究極の叡智」探究パズルの1パーツでしかない)


偏在する知恵の輪たちを日々優しく愛でていくに
及ぶ喜びはありませんね、改めるまでもなく。

人間生活における 雑多な絡み合いを
忍耐強く解き解すのは面倒でしょうけど
(自分で複雑化させたのでなければ特に)
エニグマより複雑な問題は稀だと思うので
辛抱強く諦めずに試行錯誤すれば
意外とふっと解けたりするものです。

個のパーツだけを重視せずに それぞれの
絡み具合を観察しながら 適時・適切に
必要な動きを加えていくべし…というのは
人間社会においても当てはまることでしょう。


歴史的偉人たちの多くが「最も必要な能力?
それは忍耐力において他はない」的な趣旨の
ことを述べていますが、「簡単に諦めずに
解けるように考える」という意味での忍耐力。

「忍耐力」について書いた回もついでに。
 2012年5月3日…実に6年前とは早いもの)


そういうスキルを刺激する意味でも
ご興味あるお方は「知恵の輪」など
手にされてみると新しい気付きがあるかも。

それでは、今回はこの辺で。

5月後半も素晴らしい日々をお過ごし下さいね。


posted by laluz at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | IQ・知能