2019年09月17日

「表現の自由」など


皆さま、こんにちは。

さて、9月の2回目更新です。
テーマは「表現の自由」などなど・・

ん?先生にしては珍しく現実的な題材では?
と思われそうですが、生徒さんとの雑談
(休憩時や授業後の質問など)で法律の話題は
昔からよく回答するテーマだったりします。

小論文やディベート対策などで「〜の権利」を
論ずる場合の前提整理に限らず、純粋な
知的興味から「先生、こういう場合は
法的にどうなるんです?」という質問は
よく受けて来ました。

「複雑な犯罪」が、どのように刑事処理されるか
完全犯罪を行える前提など興味深く質問する子もいたり。


ラルースブログでは、政治・宗教などについて
原則として触れないスタンスですけれど、
対面の質問では「真実のところ 〜は何が問題・
争点なのですか?」と、客観的な状況・争点
整理を求められることは多々ありますね。

そういうわけで、「表現の自由」も
何回か解説してきたテーマだったため
まとめておくのも良いかと思った訳ですが、

この「表現の自由」論は非常に重要な問題
であるために分量的に「簡単に解説」という
ことさえできません、議論する上での基礎
確認という程度に概観してみましょう。


日本国憲法 第21条
@集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
A検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。


…と定められていますね。

第1項について例示されている通り、集会・結社の自由、言論の自由、出版の自由は原則保障されています。「その他一切の表現の自由」という文言通り、人がその思想・意見・主張・感情などを対外的に示す「表現」と言える限り、憲法上尊重されます。

法的素養がある方々には釈迦に説法ですが、ここで前提をおさらいしておきますと、「民主国家における憲法」というのはその性質上、国家・公権力がその国民の権利自由を規制禁止しないよう監視抑制するためのシステムです。

国がいきなり法律で、国家を批判する発言を禁止して違反者を投獄するなど出来たら民主制の破綻ですよね。要するに、主権者である国民の権利自由が侵害されないように、国家権力にブレーキをかけて国民主権・民主主義を守るルールが日本国憲法です(日本国民以外の外国籍の方にも原則的に権利自由は尊重されます)

ただ、Aさんが暴力的な行為表現でBさんの生命身体の安全が脅かされている場合でも、Aさんの行為はある意味「表現」の自由といえるから警察さえ制止できないとなると、Bさんら他者の生命身体の自由(憲法18条等)が侵害されることになります。なので、国民の権利保障といっても、無制限で認められるわけではなく他者の権利自由・公共の利益を害しない限度すなわち「公共の福祉に反しない」範囲で認められるという制約があります。公共の福祉を保護するため必要な場合に限って、国家は国民の権利自由を規制することができるわけですね**

第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


**この「公共の福祉」論は重要なのですが、今回は深入りしません。


逆にいえば、国民v.s.国家権力 ではなく国民v.s.国民という状況については、憲法が直接適用される場面では本来ありません。とはいえ、Aさんや民間企業Bが、Cさんを性別や民族的ルーツで差別する扱いをした場合でも、全く問題ないというのでは「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」とする憲法14条第1項の理念が損なわれてしまいます。

そこで、憲法はあくまで私人(しじん)の間では直接適用されないものの、民法90条の「公序良俗」など一般条項を通じて憲法の理念は各々尊重(間接適用)されるというのが通説です(もちろん別見解もあります)

なので、Cさんは差別的扱いを受けて経済的損害・精神的苦痛を被ったなら、民事手続を通じて不法行為に基づく損害賠償(慰謝料)請求や差別行為の差止め請求などを民法709条等を根拠に求めていくことで保護されます (まあ…仮に裁判を経ずとも弁護士を介した示談交渉など負担かつ面倒ですし、相手の資力によっては賠償金も回収できないので現実には泣き寝入りするケースも少なくありませんが…)

深刻な場合はあわせて刑事手続による名誉毀損罪(内容様態によっては脅迫罪)など刑事罰として法的制裁を求めていくことが可能でしょう (といっても極めて悪質・執拗でない限り 罰金刑かせいぜい執行猶予付き懲役刑ですが…この辺りも今は深入りしません)


とりあえず、ここまでのポイントは @近代憲法は、あくまで国民を守るために国家・公権力を縛ることが目的、A国民の権利自由はそれぞれ等しく保障されるので、他者の権利を侵害しない範囲で保護されるに過ぎない、B刑罰を問う刑事手続と、損害賠償請求などの民事手続はそれぞれ違うよ、というところです (厳密にいえば正確さに欠けますが、教養としてはこの程度の差異を頭に入れて下さればと思います)


この基礎理解で昨今の「表現の自由」に関わる喧騒をみるにも、@表現主体が「公権力あるいは公人」なのか「私人」なのか、Aその表現内容・手段が他者の権利自由を侵害しないものかどうか、という点から考えなければ ただの感情論に墮してしまいます。

例えば、国会議員・地方議会議員の発言であっても、あくまで公的立場を離れた私人としてのプライベートな状況なら一国民の「表現の自由」として最大限尊重されます。逆に、公人すなわち公権力の行使者としての発言なら、国民の権利自由を過度に抑圧するものでないか厳しく問われます。ただ、Twitterなど公私の区別が曖昧な昨今、公僕としての氏名で発言しているなら「公人としての表現」と推定されるでしょう。

ちなみに、国会議員も憲法尊重義務(憲法99条)を負いますが、憲法改正論議を提起できる以上、憲法に反する発言をしたからと言って、それが表現の自由を逸脱するとは直ちに言えません。ただ、憲法改正などの持論・問題提起は、選挙による国民の審判を受ける間際の公開討論なりで賛同を求めるのが本筋です。当選後にそのような重大テーマを新たに扱う場合は、支持者に対して真摯な説明をする道義的責務は求められるという点で、憲法(改正手続きの趣旨)を尊重すべき義務を負うと言えるでしょう。

民間メディアの記事については、出版・報道の自由として「公共の福祉」に反しない限り尊重されるのが原則です。ただ、法的争点としては「問題なし」でも、ビジネス面では抗議に対して素直に謝罪した方が良いところもあるので、その辺りは別次元の考慮が働くことは多いでしょうね。


あと…美術展の内容を公人が中止勧告という問題は、原則論としては「表現の自由」を公権力が規制したと言えそうですが、公的助成・補助金等を受けている場合「税金を使う以上、使途が適正か否かの公的チェックは不可避」です。そのチェックが表現内容そのものではなく(即ち「検閲」ではなく)、表現の場所・方法手段において適切かどうかを客観的に判断し、仮に介入しない場合は反対デモ等で入場者の生命身体の安全が確保されないなど「公共の福祉」の維持に必要不可欠であると認められるなら、その表現(手段)を規制することは可能です。

ポイントは、あくまでその場所その方法での表現をやむを得ず規制しただけで、表現内容そのものを規制したわけではない点です(法的議論に不馴れな方々は屁理屈に聞こえるでしょうが、これは非常に重要です)。日本で一切その表現ができないとなれば憲法違反ですが、公共に混乱を生じない手段様態について禁止されないならば、法的には問題ありません。(民衆の「表現を自由に受け取る権利」があるとしても、別の方法で鑑賞できる機会があるなら 重大な権利侵害とは言えません。)

では、反対デモを取り締まれば良い!という訳にもいかず(集会の自由)、国民v.s.国民の権利衝突の問題となりますので、これはまた別の争点です。"知恵の輪"のように 一つずつ解きほぐさず 力ずくで解こうとしてもムリです(大抵は暴力的・威圧的クレームにしかなりません)

ただ、現状で法的に問題ないとしても、その規制判断・法的根拠が永続的に正しいとは限りません。その時代・状況に応じた問題提起は、大多数の側にとって耳障りであっても、少数意見をひとまず議論の場に拾える社会システムこそ民主政治の成熟には不可欠です。その政治的判断は個々人の意思の集積なので、だからこそ左派・右派と偏ることなく深遠な知性を養うことが肝要です。

「表現の自由」に限ったことではありませんが、一方が権利を主張する場合、相手方にも権利自由があり得ることを前提に、冷静に分析判断を重ねて解決策・妥結点に導くのは何も法的議論に限らず、人間社会でのスキルとしてその価値はますます大きくなっているでしょう(情報弱者として騙されたり搾取されたりするリスクも極小化します)。


・・と、テレビは持たずウェブ上でも世俗ニュースはチェックしない身ですので (質問を受けたら該当ニュースに目を通す程度で 学術的発表や自然・動物コンテンツだけ見ます)、偉そうなことは言えませんが、将来ある学生さんたちは情報分析の精度を上げる上で(理系志望でも)最低限の法的素養はあった方が良いでしょう、もちろん大学入学後からでも良いですけども。


以上、入門レベルながら法的議論のお話でした。
さすがに長過ぎましたね…最後まで読まれた方
本当にお疲れさまでした。

権利自由といっても優先度合いに差もありますが、
その辺りは現代社会・公民分野の授業で習う(習った)
知識を思い出しながら補強しておいて下さればと思います。



引き続き
実り多き秋の日々をお過ごし下さいね。


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2019年09月04日

2019年9月の始まり


皆さま、こんにちは。

2019年 第8番の月も過ぎました。
2019年の約67%を終えたことになりますね。

暑さ涼しさが入り交じり合う時期ですが
皆さまにおかれましては健やかで
微笑ましい日々をお過ごしのことと存じます。



聞くたびに いつも初音と 思ひけん
心に我は 月を見るかな 




久々の西行の(作とされる)和歌です。
「松屋本 山家集」所収。

2018年9月の引用も西行の「月」でしたね。

さて「初音(はつね)」とは鳥や虫の、
その年その季節の最初の鳴声のこと。

鳥や虫たちの季節の鳴き声を聞くたび
いつも初めて聞くような感動を味わえる
清らかな心の中に 私は「月」を見る…と。



学術的に正確なところは分かりませんが
個人的には『金葉集』所収の初音僧正、

聞くたびに めづらしければ 時鳥
いつも初音の 心ちこそすれ


の和歌を踏まえている気がします。


初音僧正と知られる 永縁(ようえん/
1048-1125年)は 興福寺権僧正・歌人。

永縁の歌ではホトトギスですけど、
現世の季節的には蝉から鈴虫のような
秋の虫たちの鳴声に変わる頃合ですね。

人は実年齢が長くなるにつれて
幼少期に初めて知覚した時のような
印象・感動を一々持たなくなります、
(それは「正常」な反応ですけど)

ただ、全ては無常であり、一時すら
「不変」のものなどない が故に、
実のところ知覚する全て「初見・初音」
ともいえるわけです。



そうはいっても、現実に社会人として
生きていく上では、目にし手に取る全てに
心を輝かせながら感動を隠さない人よりは
常に冷静さを保つ人の方が円滑な人間関係を
維持できることも多いでしょう。

その辺りは、別に「無感動」に
なる必要はなく、感動しながらも
その表現を知的で慎み深いものに
洗練させて行けば良いだけですよね?

「いつも在る日常的なこと」に慣れて
わざわざ感動しなくなるのも正常ながら

「当たり前のことと慣れているだけで、
実のところ 当然であることなど何もない」


と気づけば自然と毎回の「一期一会」に
感動を抱かざるを得ないもの。


現実社会で生きていると
なかなか大変な試練もあって
風流どころでない時もあるかもしれませんが、

理(ことわり)を突き詰めていくと
「余裕があるから風流を味わえる」ではなく
「風流を味わうから余裕が生まれる」です。


万象に対して いつも初めて相対する如く
刺激的あるいは楽しみな心持ちで
接していると 面白いことが起こります。


「己の心は世界を映す鏡」あるいは
「世界は己の心を映す鏡」

この真理の言葉の意味を
どのように解するかで人の生は
全く変わってくるように感じます。

「己の心が世界に映る」という
信じがたい「鏡の力」を呑み込めるか否か。



…と、少し和歌から離れましたが

曇りなき月のごとく磨き上げられた
心の鏡に映るモノが世界に映りますよね


というような感じで
今回は終わりに致しましょう。



9月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。



(今月も世界情勢が許す限り 16日前後に
 もう1回更新できれば良いなと思っています)
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2019年08月17日

スーパーフード



皆さま、こんにちは。

暑さも少しずつ和らぎそうな晩夏
(暦的には初秋の時候ですけど)
いかがお過ごしでしょうか?

さて 今回は久々に健康のテーマです。

「健康」論については学習・教育論よりも
個々人の特性に応じた調整幅が大きいので、
原則論というものが成立しにくい分野。

「健康には〜した方が良い」とか
「〜してはいけない」という通説に
根拠が全くないとは言いませんが、
自分に当てはまるとは限りませんよね。

(早寝早起きや1日3食さえ 人によって
無条件に有益とは限らないように。 )


メディア等で紹介されていたからといって
飛び付く前に「自分にも当てはまるかどうか
慎重かつ冷静に分析判断する」ことが大切です。
健康に限ったことではありませんけども。

実際「何となく良い」と信じられてきたことが
最近になって「効果なし」とか「むしろ有害」
という研究結果が出たりすることもあります。

(枚挙に暇ありませんが…例えば「栄養サプリメントとしてのカルシウム+ビタミンDの併用は脳卒中になるリスクを高める可能性」について Effects of Nutritional Supplements and Dietary Interventions on Cardiovascular Outcomes: An Umbrella Review and Evidence Map

そういう意味で、ラルースブログも
決め付けた健康論は述べませんので、
今回も「〜した方が良い」という趣旨ではなく
健康を考える上での鍵(?)を探るという
ニュアンスで書いてみようと思います。

(そもそも論として、「食べないで生きられるならそれに越したことはない」と考える私の健康法など、一般的には有害でしょうし…)

まず、健康論においては特に顕著と感じますが、
極端な思考を持つ方もおられますよね。。
西洋医学を全否定したり、自然食材崇拝というか
加工食や添加物を狂信的に排除するような。

それはそれで、当人が心から良いと思っていれば
(特に他者に押し付けない限り)問題ないと思いますが、
バランスのとれた知性とは少し離れてしまいます。

(「不食」を考えるあなたはどうなの?っていう
冷酷なツッコミは無しでお願いします)


健康に限らず、偏向的な思考に陥る場合、
自分が信じる主義主張の補強に熱心過ぎて
自説の弱点には眼を背けることが少なくありません。

科学的にあり得ない!という人に限って
科学に無知であったり、健康にうるさい割に
生物学・化学の基礎さえご存知なかったり。

相手を説得するつもりなら、まず反対説の立場になりきって
徹底的に反論を考えてみることがバランスある知的訓練…
ラルースブログで言うところの対極思考ですね。
(「ネガティブ思考?」も参照)

(まあ、究極的には「量子論的に『そのように思考を向けるなら』そのような世界しか観測できないね」とか、「並行宇宙間の『ゆらぎ』は現世軸では双方リンクしないようだ」とかなっちゃうかも知れませんけど、そこまで行き着くとしたら、もはやお互いクスクス笑っていると思います、要するに「溝」など無い。)

その「対極思考」を徹底的に突き詰めて行くと、
『色即是空 空即是色』に至ってしまうので

全ての話題が語るまでもなく「ただ在る」を
肯定して終わってしまうのですけど・・


その少し手前の世界で「思考を遊ばせる」としますと。


西洋医学の進歩は多くの人間のQOLを向上させて来ましたし、新生児の延命率も格段に伸びたことは素晴らしい奇蹟と思います。ただ、先端医療も万能ではなく、まだまだ未知の分野があるので研究者の方々は心血注いでおられますね。

反面で、現代の予防医療が「病を生む」という矛盾が生まれたのも否定できないことです。伝染病を根絶するために公衆衛生を整えた先人のお陰で、多大な命が救われてきました。しかし、その理念は時代とともに変質し、過度の殺菌消毒が謳われて衛生環境としてはかえって「人間に優しくない」事態になりつつあります。要するに、健康を維持するために必要な常在菌まで殺してしまい、自浄防衛作用が著しく減退してしまうという事態です。

これはすごく難しい問題です、いわば「成熟社会の現代病」というか。社会全体としては、一人でも感染罹患させたくないから、効果のある対策を広く勧める。短期的には効果ありだし正解?でも長期的には違う問題が出てきたかも?という。

食糧生産消費システムにおいても、消費者に食中毒など有害な結果は一人も出したくない(企業の自衛の為にも)から、安全のために防腐剤・保存料など添加する。コストを押さえる為に色々と工夫して影響がほぼない範囲で添加物など使用してきたけど、研究が進んで人体には影響軽微な添加物も体内常在菌には意外と無視できない影響がありそうかも?的な。

ただ、影響あるかどうか未知数の対策より 必ず影響ある食中毒防止を優先させるのは、社会の公衆衛生としては問題ないというか当然の判断と思います。

同様に、学校養護施設など幼年・高齢者を守るべき区域で、しっかりと殺菌消毒手洗いうがいというのは、域内感染を防止する意味では間違った施策とは言い難いですよね。それがかえって「病原菌への抵抗力を失わせている」面を重視すれば、学校では少し揺り戻しがあるかも知れませんが、仮にそれで集団感染したら?…責任者として「予防」は過剰になりやすいもの。。


というような現代で、人間の健康には「共生菌」が予想以上に大きく関わっているようだと示す研究結果が色々と現れて来ました。健康業界も「腸活」「菌活」という謎フレーズ(何を伝えたいかは分かるけど)で賑わって久しいですね。


人間は(個人差・測定差に幅があるものの)1000種類以上で約100兆個〜、総重量にして1.0〜2.0Kgもの微生物たちと共生していて、その約90%は腸内細菌叢(腸内フローラ)を形成しています。

我々の身体を形成する細胞数は約60兆個と言われますので、自身を直接形成する細胞よりも(自分自身ではない?)細菌の方が多いという人体=不思議な生態系。皮膚・口腔内・消化管と至るところに細菌たちは常在してくれています。


実際、免疫系も常在菌たちが大きく関わっていることが分かってきました。それらの常在菌たちにとっては、宿主=ヒトの健康は死活問題ですから 日々健康であるよう頑張ってくれている訳ですね〜 別にヒトの為ではなく細菌たちの未来の為なんですけど…。ちなみに腸内細菌のうち、善玉菌・日和見菌・悪玉菌に大別した理想比は 2:7:1 …悪玉菌も存在しないといけないところがまさに人間社会の構造と同じで、儚く愛おしく感じます。。


そういうわけで、常在菌のバランス・多様性は人間の健康を左右し、ある種の共生菌が失われていることで疾病疾患に陥ることも有り得ます。有効な共生菌を「適切に定住させる」ために保菌者の大便をカプセル服用する等の 腸内細菌叢移植(Fecal Microbiota Transplantation: FMT)が行われていたり、「便バンク」で便の買取?すごいなぁと感じたのもつい数年前のこと。

「菌とヒトの共生」というテーマは非常にホットで、なかなか面白い研究も多いです。まあサンプルが少ない例もあるので信用できるにはまだまだこれからという側面もありますが、その知見によって、地産の伝統食がなぜ身体に良いのかという論拠や、アレルギーと常在菌の関係、遺伝的疾患の特効薬など道が開けそうな分野も多々あります。

「共生どころかむしろ菌がヒトの性格や疾病を決定している!」とまでは断言しにくいですけど、生命維持活動に少なからぬ影響を与えているのは否定できないようです。

(個人的に「蚊に刺されにくい」のですけど、皮膚常在菌の多様性が保たれているヒトほど刺されにくいかも?という研究例は興味深いところ。「あまりに神聖な血なので 蚊も畏れ多くて寄ってこない」という自説とどちらに軍配があがるか見ものです。)


・・と、テーマが多岐に壮大なので
1回分の記事では到底書き切れませんけれど、
個人的には今一番ワクワクする話題ですね。

以前も述べましたように、私個人は「食べずに生きられるならそれに越したことはない」と幼い頃から思ってきたわけですけど(食事と不老)、共生菌にゴハンをあげるという視点を得てからは、この子たち(=菌)どんな食材は喜ぶだろう?とより楽しみながら食を考えるようになった気がします(その分、何だか「原始農法」崇拝者に近付いたかも知れませんけど)

といっても、1日1食に±何か(気分で2食だったり0食だったり)という形態や主食(雑穀米&ブロッコリースプラウト)は変わりませんけど、「何か」の部分が変わってきました。味噌・納豆・煮干しなど日本原産のスーパーフードは特筆することもないと思いますので、海外産ながら私と共生している菌たち的にはお好みらしい(一般的にも有益そうな)ものをサラッと書いて今回は終わりにしたいと思います。

@ カカオニブ
A マキベリー
B モリンガ
C ナッツ類 (アーモンド・ピスタチオ・
   クルミ・カシューナッツ・ヘーゼルナッツ etc.)


オーガニック・無添加のものを興味に応じて調べてみると面白い発見も多いと思います(じっくり調べないとネット情報は不正確だったり虚偽も多いので慎重に)。何にせよ信頼できるルートか確認できるものを選ぶことが安心です(その分コストは高くなりますけど)。また、非加熱だと共生菌的には喜びますけど、お腹が繊細な方にはオススメしません。小さいお子さんも止めた方が良いですね、もちろんアレルギー持ちの方も…

…と、本当は詳しく補足していこうと
思ったのですけど、あまりに長くなるので
文字通りサラッと書いて終わります。。


何にせよ 健康食やスーパーフードの類を
食べるだけで健康になれるわけではなく、

心身ともに深くリラックスしながら
いつも支えてくれてありがとうと
諸器官・常在菌に感謝する心持ちで食すれば
食物全てスーパーフードになる気がします。



という感じで草稿を書いたのは早かったのに
参考文献とか数値に誤りがないかチェック等
してたら18日になってしまいました・・
16日前後…まあ許容して下されば幸いです。


それでは、引き続き
100兆ほどの共生菌たちと仲良く
充実した夏を過ごして参りましょう。


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2019年08月05日

2019年8月の始まり


皆さま、こんにちは。

2019年 第7番の月も過ぎました。
2019年の約58%経過したわけですけど、
さすがに夏らしく暑いですね。

暑さに負けずに
情熱的な日々をお過ごしでしょうか。


*通常、毎月4日には更新していますが 5日夕方と遅くなってしまいました…
4日にチェックして下さった方々にはお手数おかけしてすみません。




うき草を 雲とやいとふ 夏の池の
 底なる魚も 月をながめば


(浮草を雲であるかのように邪魔なものだと思うのだろうか。
夏の池の底にいる魚も月を眺めるならば。)



源頼政(みなもとのよりまさ)の和歌。

情景を思い浮かべてみると、とても可愛い
イメージですよね。風流この上ない描写です。


源 頼政(1104〜1180年6月20日)は
平安時代末期の武将・公卿・歌人。

保元の乱(1156)、平治の乱(1159)に際し、
いずれも平清盛に味方したので、平氏政権下で
従三位という 当時の武士としては高位に出世。
歌人として秀で、多くの歌合や歌会で活躍し、
歌仙として高い評価を受けていました

(鴨長明『無名抄』参照)。


他方、河内源氏は苦難・悲劇が続きました。
(参考:源氏系統略図genji.jpg

源為義は保元の乱で崇徳上皇側に立って敗れ、一族多くが死罪か流罪。為義嫡男の義朝は、保元の乱で後白河院に唯一味方したため助かるものの、実父の為義ら親兄弟をその手で処刑することになります(手柄の恩賞として助命を願いますが、その甲斐もなく)

続く平治の乱は、信西(藤原通憲)の横暴を正すために義朝らは兵を挙げて信西を討つも、平清盛に敗れ、息子の頼朝(当時13才)らを伴って敗走中に謀殺(頼朝は約20年配流されます)

…と、そのような源氏不遇の時代で、「平家にあらずんば人にあらず」と言われる平氏の専横に不満が高まる中、1179年平清盛がクーデターを起こして後白河法皇を幽閉すると、意を決した頼政は後白河天皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)と結んで平氏打倒の挙兵を計画し、1180年諸国の源氏に平氏打倒の令旨を伝えました。

しかし計画が早期に露見し、準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、平氏の追討を受けて宇治平等院の戦いで敗れ、自害(76才)。(この戦いで息子の仲綱、宗綱、兼綱が亡くなりますが、伊豆にいた末子の広綱と、仲綱の子の有綱らは後に頼朝の旗下、平家打倒に加わります。)


頼政と以仁王の挙兵は失敗したものの、
以仁王の令旨は大きく源氏勢を動かし、
これを奉じて配流先から源頼朝(34才)ら
諸国の源氏が一斉に蜂起し、平家を滅亡させる
大きな契機になったのでした。


ただ、頼朝は、平氏滅亡(1185年)後に父 義朝を弔うために勝長寿院を建立しますが、弟 義経とは反目し、暗殺・討伐の兵を徹底して追込み1189年に義経自害(31才)。

1199年 頼朝没(53才)後、長男頼家(1182〜1204)が家督を継ぎ二代将軍となるも、北条一族によって追放・暗殺(21才)。次男 実朝(1192〜1219)が三代将軍となるも頼家の子・公暁に暗殺(26才)。公暁も直後に討ち取られ、源氏将軍家の血統は断絶。


…と、ちょっと厚く書き過ぎましたけど
源氏の不遇・再興・断絶というテーマは
個人的に感じ入るところがあるので。

崇徳院については以前少し触れましたが
(参考:2019年3月の始まり
日本三大怨霊(菅原道真・平将門・崇徳院)
に挙がるほど畏怖の対象となっています。

まあ、暗殺・謀殺の連鎖は源平争乱期に限った
ことではありませんが、深い怨念・呪怨は
その者だけで済まず、その血脈に染み込み
血統が絶えるまで何代にも及ぶと言われます。

そのような不遇の最期であった御魂は、
手厚く弔い償い、昔も今も敬意と畏怖の念を
もってお祀りされ続けています。


…という背景知識の下で今回の和歌を
見てみますと、また違った様相を示すでしょう。


月光の照らす平家の世で
底辺で雌伏し 時を待つ源氏。

浮草が平家の者だとしたら
月光を遮る浮草を疎ましく感じるかも。
もし魚が月を眺めるような心あれば。

源氏再興の志があるならば、という
ところが、悲哀・覚悟を感じさせます。

ただ、平家の繁栄も浮草のように儚く
武家政治の基盤を築いた鎌倉幕府も
露のようにこぼれ落ちました。

浮草の下の魚を思うが如く、
浮雲の下の人間を思う
月(あるいは天)の視点。

血で血を洗う悲劇を 地球各地で
繰り返してきた人間ですけれど、
それでも苦難の時を助け合いながら
乗り越えてきたのもまた人間。

これから先、「人間」の定義も
変わっていくかもしれませんが、
遅くとも確かに進化しているので
平らけく安らけく過ごして参りましょう。



宇宙スケールで考えると、人間さらには動植物全て
一つの小さな球体上で 命を寄せ合う共生体。

ひと時でさえ離れられない「つながり」の中で
(意識できるかはともかく)支え合いながら
せいぜい数十億秒ほどの命を灯しているのに、

些細なことで怒り争ったり、離別を悲しんだり
そんなことを繰り返すのも愛おしいというか
微笑ましいかもしれません、月の視点からは。


(…と、2017年10月の始まりで触れましたように)



ともあれ、異常気象と言うべき気候が
今後も続きますし、各々にとっての試練も
適宜あるものと思いますが…身を捧げて
世を切り開いてきた先人に敬意を払いつつ、
夏の日々を歩んで参りましょう。

それでは、今回はこの辺で。



8月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。




(今月も世界情勢が許せば 16日前後に
 もう1回更新しようと思っています)

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2019年07月17日

"virtual" 学び


皆さま、こんにちは。

7月2回目の更新を。

前回(2019年7月の始まり)は
当初もう少し長かったのですけど
長文の上に まとまりが悪かったため
あの分量に落ち着きました。が、

16日前後の更新で続きを書こうかと
思っていたものの、時機を逸すると
今更感が出て 御蔵入り…という
いつものパターンになりました。


健康・アートや それこそ昨今の
新入試制度動向など 題材は尽きませんが
とりあえず 今回のテーマは
"virtual"と学び について。


ヴァーチャル(virtual)とは…

1.(表面または名目上はそうでないが)事実上の、実質上の、実際(上)の、
2.【物理 光学】虚像の、仮想の、
3.【コンピューター語】仮想の、バーチャルな、ネットワーク上の


…という感じです。


ヴァーチャル・リアリティ
(Virtual Reality/VR・仮想現実)
という語も 日常語になりつつありますよね。

このVR技術は、ゲームや映画など
エンターテイメント領域では世界的な
広がりを見せつつあり、廉価汎用品も
粗い部分はありますが、十分実用に
耐えられるレベルに進化しています。


例えば、海に潜ってクジラやサメの
迫力・スケールを感じたり、鳥の視点で
空を飛翔鳥瞰してみたり、果ては
大気圏を脱して宇宙空間の中で
ブラックホールに近づいたり。

あるいは、ミクロの視点で
人体内部を冒険したり…と、

「仮想」ながら「現実のような視覚世界」
を、VRでは体感できる時代になりました。

ノートルダム大聖堂など 様々な世界遺産の
内部(通常、立入りできない場所など)を
じっくりと観察体験することもできます。



これは、教育・知育上も大きな
アドバンテージに成り得ると感じます。

もちろん、本や図鑑をじっくり眺め、
思考想像を巡らせてから、現地現物を
自ら「現実に」体験することの価値は
揺るぎないと思いますし、そこは
むしろ欠かせない核心部分でしょう。

前回の記事で『ただ、子供時代に 前が全く見えない草叢の中を頭と身体を制御しながら分け進むという経験は それはそれで代え難いものと思いますので、大人のフォローの元で、キャンプ・登山などのプチ冒険は何だかんだで重要な気がしますね。。』などと述べているのも同じ趣旨です。


ただ、眼耳鼻舌身(視・聴・嗅・味・触)
の五感覚と"魂"で感じる領域のそれぞれに
ついて、先端技術を上手く利用していく
こととは全く矛盾しません。

実際、書物・図鑑・DVDなどで知見した
対象について、「その全てを現実に
体験・検証する
」ことは時間的費用的
になかなか難しいところです。

とすれば、「本・図鑑」世代の方が
想像力が養われて創造性が高いと
いえる圧倒的な根拠も無いわけで。
(むしろ間違った想像のまま自己完結していることも多い)

視覚聴覚については、まさに本物が
眼前にいるかのようなリアリティで
知覚できるVR体験を上手く活用する
ことで、「勝手な想像による勘違い」を
することなく、ある程度「現実に近い」
知見を得ることができます。

…「現実の体験が不可能」な場面を
ヴァーチャル体験できる世代の方が
やはり創造力の覚醒も多いでしょうかね。

量子論が 我々の想像を超えた世界の
実相(虚像?)を映し出した現代において
そもそも「"現実"とは?」と問う限り、

「"仮想現実"での知覚」も、
「"現実"だと感じている世界での知覚」も
人間各々が幸福に生きる方向での活用なら
virtual(事実上・実際)の意味は
どちらでも優劣なく有益と感じます。



ただ、VR体験は慣れるまで"酔い"ます…
(酩酊=耽溺というリスクもありますけれど)
「乗り物酔い」と似たような不快感というか。

「乗り物酔い」は、身体が動いて内耳(三半規管)は
刺激されているのに、視点は動かない(読書やスマホ凝視で)
ことで、平衡感覚の乱れから自律神経系が混乱を
きたし、体調不良を生じさせるものですが、

「VR酔い」はその逆で(感覚不一致説によれば)
視聴覚は強く刺激されるのに身体は動かない点
感覚の乱れから自律神経系が混乱することが
主な原因と考えられています。


例えば、ジェットコースターVRとか
まさに絶叫するほどの視聴覚体験なのに
身体は全く動いていないので、脳が
混乱する…といえば伝わるでしょうか。

以前は13歳以下VR使用禁止と言われましたが
商業施設では保護者の同意のもとなら
7歳以上〜13歳以下も利用OKと
いうのが昨今の流れのようです。

今後は、視聴覚だけでなく 嗅覚・触覚
までリアルに実感できる領域に入って
いくと思いますが、まだ少し先なので
今のところ 小学生には刺激が少ない
コンテンツに留めた方が賢明でしょうね。
(動きが少ない遺跡探訪・宇宙遊覧・海中散歩とか)



VRに限らず、デジタルコンテンツが
スマホで手軽に試せるようになったため
知育・教育コンテンツとして幼児期から
スマホ・タブレット端末画面を
長時間見る子も増えていると思います。

ただ、「眼に悪い」とか言う以前に
乳幼児期は その時にしかできない行為
(手当たりしだい触ったり叩いたりと
特に触覚をフルに刺激できる時期)を
しっかり過ごすことが一番大切です。


成長してからだと、手当たりしだい
触ったり叩いたり出来ませんからね…
ここで思う存分それをしていないと
大きくなってから「触ったり叩いたり」
の不足を求めていくことになりますし。



…と、そろそろまとめますと、

「学び」の本質は、自他の幸せを広げ高めるために、
各々の世界を正確に把握しつつ、研鑽・修正・調整を図っていく営み。

その視点を核心に置いてさえいれば
何を用いるかを問わず、その思索は
常に有益な「学び」の時空となります。



その意識の元に、VR(仮想現実)の
世界で、様々な体験をしたとすれば
それは今まで以上に刺激的な脳への
知的題材になりうるということですね。

「各々の世界を正確に把握しつつ、研鑽・修正・調整を図っていく」
ために、「今、何が最も大切か?」は
学ぶ者の経験・年齢に応じて変わりますが
それを適時適切に考えていくのは
保護者・指導者の重要な役目です。

スマホやゲーム画面ばかりカブリつかず
外で遊びなさいというのはそれはそれで
正しく意味ある助言です。ただ、多くの
保護者・指導者は、スマホやゲーム画面に
カブリつくほどの娯楽性・幸福感がある
ことをほぼ知らなかったりするので、

多くのデジタルエイジの子達にとっては
旧世代の世迷い言・戯言にしか聞こえません。

私の教え子にも、スマホゲームや
VRゲームなどにハマっている子もいれば、
全く関心を持たない子もいましたが
どちらの立場も深く共感できるので
(知らないゲームで面白ければプレイします)、

その子達がハマるのも分かるという立場から
如何に学習と折り合いを付けていくか
という視点の助言が大事だと思いますね。

まあ、ゲームは昔から色々やってきたし
実際ハマるコンテンツも多々あるけど
やっぱり「自分育成ゲーム」が一番面白いし
目標の達成感は比べ物にならないかなぁ
って言ってるだけですけども。

ゲーム取り上げて「勉強しなさい!」
と叱るよりは、受験ゲームの攻略法を
教えてあげたほうがお互い楽しいというか。


・・と、せっかくまとめたのに
また脱線してしまいましたが、

大学入試制度も揺れ動いているものの
基本スキルを上げていくというのは
変わりませんので、色々な仮想敵を
シミュレートしながら受験ゲームを
楽しんで行かれればと思います。


「"virtual" 学び」というのは
点取りゲームのように表層だけ取り繕う
"仮想・虚像"の学びであるように見えつつも、

その実、目的達成のために自己分析し
最短距離とその過程を把握した上で
自己を律して着実に歩むという
人生における"本質的"な学びと言えますね〜


と、強引にこじつけて今回は終わりに致します。


良い方向で「脳を騙しつつ」
日々幸せな方向に歩んで参りましょう、

いつもありがとうございます!


posted by laluz at 16:00| Comment(0) | TrackBack(0) | IQ・知能

2019年07月04日

2019年7月の始まり



皆さま、こんにちは。

2019年 第6番の月も過ぎました。
2019年の半分が経過したことになりますが
諸事において順調でしょうか?

与えられた日々を感謝しながら
生きているなら 順調か否かなど
些事でしかありませんけれど、

2019年後半も充実した日々を
過ごして参りましょう!




夏ふかみ 野原を行けば 程もなく
 先立つ人の 草がくれぬる



(夏も深まり、野原を行くと先に歩く人の姿がすぐ夏草に隠れてしまう。)



『林葉和歌集』所収
俊恵(しゅんえ、1113年〜1191年頃?)の和歌。

随筆『方丈記』を著した鴨長明は歌人でもありますが
歌人 俊恵はその師匠としても知られます。



夏草の生い茂る野原での何気ない風景。

「人が隠れるほど草が生い茂る」という場所は
山奥以外では見られにくい現代と感じますが
人々の安心安全という見地からはやむを得ない
ところなんでしょう(害虫害獣の対策上も)。

ただ、子供時代に 前が全く見えない草叢の中を
頭と身体を制御しながら分け進むという経験は
それはそれで代え難いものと思いますので、

大人のフォローの元で、キャンプ・登山などの
プチ冒険は何だかんだで重要な気がしますね。。


とはいえ、この和歌の「先に歩く人の姿が
草に隠れて見えなくなる」という状況は
現代の競争社会でも意外と当てはまりましょう。

学習・研究あるいは各種組織任務に至るまで
道なき道を行く時に、先人が歩んだ道は
まだ踏み固められておらず、後ろを付いて
いっているつもりでもすぐ見失うことが
容易に起こります。

この「見失い」は先人があえて「後行を撒いた」
からかもしれませんが、競争においてはここで
「先人を探す」かは判断を要する問題です。

先導していた者が 正道を逸れたかもしれませんし
先に行く者を見失っても、自身において進むべき
目的があるなら、それに従い自ら先導として歩むべきです。

先人を探すというのは後塵を拝することを
前提とする後ろ向きの発想ですし。

まあ、先頭を行かせるだけ行かせて
体力を温存しつつ、要所で先行すれば良い
という戦略ならそれはそれで分かりますけど…



ともあれ競争といっても、最大最強の
競い相手は自身でしかありませんので、

絶好調の時の自分を見失っても
ムリに焦って追いつこうとせずに
呼吸を正しながら冷静に歩みを
組み立て直していくのが肝要です。

この道理は、大抵の事象に当てはまるでしょう。


蒸し暑い季節となりますが、
打ち克つべきモノは「自ら」のみ
ということで、澄み切った精神で
涼やかに7月を楽しんで下さいますように。




7月も素晴らしい出会いで充ちていることを
皆さまと共に心から喜びたいと思います。

いつも本当にありがとうございます!


(今月も情勢が許せば 16日前後に
 もう1回更新しようと思っています)


posted by laluz at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ラルース進学塾

2019年06月17日

香りを聞く


皆さま、こんにちは。

6月2回目の更新を。

「父の日」について書いていたのですけど
16日までに更新できなかったので何となく
テーマを変えて書き直し中です。

とりあえず「題名」だけ入れていますが
個人的に好きな分野だけに 普通に書くと
ものすごく長くなります。どこまで
短くカットするかがポイントというか。

次回は16日前後に…と書いていたものの
17日中に更新完了できていないかもなので
あらかじめ言い訳しておこうと思います。

定期的にチェックして下さる方々
いつもありがとうございます。

今宵は 満月です
リラックスした夜をお過ごし下さいね。


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(ここから続き)


さて、今回は「香り」をテーマに。

「『力』を考える」=「嗅力」でも
良かったのですけど、あまり厳密に捉えず
ゆるやかに 香り というものを
考えてみたいと思います。


香り(薫り/馨り)とは…

1 よいにおい。香気。
2 顔などのにおいたつような美しさ。


(『デジタル大辞泉』)



匂い(におい)も本来「鮮やかな色彩が
美しく映えること」を意味するように、
嗅覚が好ましいと感ずるものを指しますね。

好ましくないものは「臭い(におい)」と
書くことが多いでしょう。

ある「におい」を不快・嫌だと感じると、
その「におい」=「臭い」と処理され、
逆に 快適・良い・落ち着くと感じると
その「におい」=「匂い・香り」になると。


嗅覚に関与する「におい物質」は、
約40万種以上存在すると考えられていますが、
嗅覚は他の4感覚(視・聴・味・触覚)と違い
直接本能に作用すると言われています。

他の4感覚は、視床・大脳新皮質などを経てから
大脳辺縁系に情報が伝わるのに対し、嗅覚だけは
大脳辺縁系に直接届いているためです。

嗅覚は理性より本能・感情が先に働くので
「におい」は 人の本能や潜在意識、
感情を否応なく刺激していると言えます。



うーん、コワいですね…。

「におい」は 対人に限らず、
対象の印象を大きく左右します。

特に女性は脳の嗅覚野が 男性より
発達していると言われますので、
匂いに敏感に反応する状況も多いでしょう。

それこそ「好印象な香り」漂う人には
(本能的に?)自然と好感を抱くでしょうし、
逆に今まで好意を持っていた相手でも
我慢できない「臭い」と分かると、
百年の恋も醒めるほど生理的にムリ!
となってしまうことさえ起こります。

だからこそ現代の消費生活においては
食品・飲料や洗剤・美容品などなど
ありとあらゆるものが 購買意欲を充たす
匂い・香りであるよう研究開発されています。

まあ、好みである「香り」かどうかは
それこそ千差万別で、一般的には
クサい臭いでも、ある人には好きな匂い
(例えばタバコの匂い、汗臭さとか)
だったりするので、難しいところですけど…


基本的には「におい」について
しっかり知って学んでおくことは
現代で知的な生活を送る上では
必要不可欠と感じるわけです。


・・・私個人としては、
老若男女問わずお教えする立場上
人と至近距離でお話する機会が多く
対人マナー的な「におい」には
意識を払う方だと思います。

生活環境として、父がインセンス(お香)を
焚いていたり、ディフューザーで
癒しのアロマが漂っていたり、母も上品に
フレグランスをまとっていたりと
比較的「香り」に囲まれていました。

(というか5感の中では 嗅覚が最も秀でていると
 自分では感じます。嗅覚のお陰で味覚も。)


それゆえにフレグランスやアロマも好きで
ご造詣の深いお母様・お嬢様方とは
「香り」歓談することもあったりしますが、
幼児や愛犬・愛猫がいるご家庭では
「香り」も避けた方が良いので、

対人ではお相手が不快とならないよう
消臭を意識することが一番大事です。


ただ、この「消臭」というのが
突き詰めると難しいんですよね。。

例えば、ストレス・疲労・病気などで
身体のメカニズムが狂っていると
自分では気づかない「臭い」を発します。


フレグランスや消臭スプレーに頼る以前に
「理想的な消臭」を図るには 何より
「身体機能の完璧な調和を図る」
という この一点に尽きるわけです。



歯周病や 口腔内の細菌バランスが
崩れるとイヤな口臭に表れますし、
肝機能・腎機能の低下、血液環境の
乱れによっても体臭・口臭として
知らず知らず不快臭気を漂わせる事態に。。

精神面・身体の内面環境・バランスが
そのまま呼吸や皮膚を通して、
外の世界に「におい」として表れます。

この辺りでやっと題名に
近づいてきましたけど、
要するに「におい」を聞くこと。

身体のメッセージとしての「におい」を
しっかり受け止めて、臭いではなく
匂い、更には「香り」に高めていくことが
ある意味「消臭」の極みかと思うのです。



自身は極少食で 肉も好きではないので
汗臭さ・獣臭さは出にくいと思いますが(多分)、
生徒の子に「先生って良い匂い」と言われると
それはそれで素直に嬉しいものです。

不快な臭いにはなっていない証なので。
「嗅覚疲労」のせいで自分のニオイは気付きにくいですからね。



「臭い」ではなく「匂い」「香り」に
まで体臭が昇華したなら、それは
文字通り健康そのものでしょう!

人間に限らず、動植物も調和よく
健康体であれば、本来の「匂い」を
元気いっぱいに発します。

聖地・霊山であれば神聖荘厳な香り、
静かな森林では、優しい香りに満ち、
我々の心身を調律し、癒します。


聴覚的に優しい音を聴くだけでなく
嗅覚的に癒しの香りを聞くことで、
心身のバランスが確かに整えられます。

逆もまた然りで

不快な音(声)を聴いたり
不快な臭気を嗅ぐだけで、
心身のバランスは確かに狂います。

その意味で、
「におい」はマナーであることを超え、
相手の生気・元気さえ左右しうる
重要な要素だと言えるでしょう。



ただ、親しい者であれば、
「におい」の悪化も気付きやすいので
体調変化(悪化)も慮ることが出来ます。

実際、人間より1000倍〜1億倍も優れた
嗅覚を持つ犬たちは、人の呼気や便、
体臭などから、体内の異変・病の兆候を
嗅ぎ分けることが出来ると言われています。

心配そうにクンクンする愛犬なら、何らかの異変を
察知して情報を正確に集めようとしているのかもしれません。

愛犬家の方なら完璧にご賛同頂けると思いますが
人間以上にコミュニケーションは取れるので、
その場合は念の為、病院で検査すると良いでしょう。



愛犬たちは、飼い主のニオイを聞いて
いつまでも好きな匂いであれるように
チェックしてくれていますが、それは
人間同士でも同じこと。

まあ 他人同士ではニオイを指摘するのは
難しいところですが、親友・恋人・配偶者
など心許せる間柄なら、いつまでも互いが
好きな匂い・香りであり続けるように、

各々がしっかりと体調管理しなければ
いけないね、と改めて思った次第です。



・・・というわけで、自分はもとより
外界のあらゆる「におい」に触れて
そのモノが本来持つ「香り」を聞くことは
とても芸術的な営みでは?というお話でした。


「香りを聞く」と拡げてしまった手前
香道・アロマテラピー、フェロモンと恋愛など
触れてアート話にまとめたかったものの
既に長くなったので今回はこの辺で。



これから益々蒸し暑くなって
「におい」管理も難しくなりますけど
内面から香気が漂うような知性・品位を
お互い のんびり育てて参りましょう。

いつもありがとうございます!


posted by laluz at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | アートな話